NEW

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら

item8 item9 item4a item11 item12 item13 item10
第 二 部

 

愛 ・ 反 間 ・ 苦 肉( 続 き )

 

 

 室内に射し込む月の薄明かりによって、魏蘭の姿はより幻想的に見えた。

 どちらかというと細身の蘭であったが、衣服を脱いだその姿は充分に成熟した女性らしく、韓信は目のやり場に困った。しかし、目を離さずにはいられない。

 

 ひしと抱き合い、蘭の胸や腹に顔をうずめると、確かに自分は人生の半分しか知らなかったと自覚せざるを得ない。韓信は世の中にこれほど柔らかなものがあることを知らなかった。

 彼は自分が未知の快楽に溺れることを恐れ、戸惑った。しかし、手は蘭の体を触らずにはいられない。胸の小高いふくらみを揉み、すべすべとした腰をまさぐる。柔らかな臀部を抱え、やがてしっとりとした秘所をなでた。そうすると蘭は控えめな吐息を漏らし、両足で韓信の体を抱え込んだ。

 

――なんと……男まさりと言われた蘭が……。

 韓信はそう思わずにはいられない。

 

「将軍……」

 その声はいつもより高い音域で、小刻みに震えながら発せられた。

  韓信はもうなにも考えられなくなり、まるで貪るかのように蘭の体の中へ飛び込んでいった。

 

 その体に口づけをしても、甘い味がするわけでもない。それでも口づけをしようと望むのは、それをするたびに蘭が息を漏らすからだった。

 韓信がそれにある種の征服感を持ったのは、確かである。

 戦場で敵兵を討ち殺す征服感と別のそれは、よほど平和的なものであり、征服する側もされる側も満足できるものだったのだ。

 

 

「蘭、君には感謝しなければならない」

 

 蘭はすでにまどろんでいるようだったが、韓信は興奮が冷めないのか、寝付く気にならない。蘭は眠気を抑えて、話に付き合わねばならなかった。

「……何を、でございますか?」

「私に、気付かせてくれたことだ。私は戦いの中に身を置くこと久しいが、なぜ自分が戦うのか、考えたことはなかった。たとえ考えても答えは出なかっただろう」

「未来の……漢王の国家樹立のために尽力してきた……のでは?」

「建前は確かにそうだ。しかし、事実がそうであるかどうかは、我ながら怪しい。おそらく、いままでの私は戦うこと自体が、人生の主題だった。戦争でどれだけ自分の能力を発揮できるか……競技のようなものだ。私の救い難いところは、自分だけではなく、他人もそのような目的で戦っていると信じていたことだ。しかし……いまとなっては、自分は愚かだったと思う。他の者たちは大きな目的を持って戦っていたのだ。私などより、よほど高尚な目的だ」

「その目的とは、何でしょう?」

「当たり前のことだろうが……大事なものを守ることだ。どうだ、とんだお笑いぐさだろう? 私はその当たり前のことが、わからなかったのだ。ところがいま私は君を抱き、遅まきながら人生の何たるかを知った」

「将軍は……大げさに考え過ぎでございます。男女が愛し合うことは、普通のことです。市井の若者でさえもすることではないですか」

「その通りだ。だが私は、女を抱けば自分が弱くなるものと思い込み、その結果、なんの目的もなく戦ってきた。そんな私が幾千、幾万もの人命を奪ってきたとは……。人生の意味を知らぬ大将。世の中で何がもっとも大事か知らぬ丞相……。それがこれまでの私の正体であった」

「では……人が自らの命を捨ててまで戦うのは、愛のため……ということですか?」

「ううむ……確かにそうに違いないが……私としては軽々しくその言葉を口にしたくはない。おそらく私には、それを語る資格がないのだ。なぜかと言えば、人殺しの私が愛を建前に戦うというのは矛盾した行為だからだ。……だが、今はその矛盾さえも受け入れることができる。いま私は……死んでも君を失いたくない。それでいて、できることなら死にたくはないのだ。君を守り通せても私が死んでしまえば、君と居る幸福を味わうことができない。……きっと人が戦う理由とは、そんなところだろう」

 

 韓信は蘭を抱き、精神的な安定を得た。多少の矛盾にも動じない心の余裕ができたのである。そしてそれは彼の態度に表れたようにも見える。

 韓信は自分の信用度をはかるためだけに得た三万の兵のかわりに、新たに得た魏兵のなかから精兵を選び、やはり三万を劉邦のもとへ送り返したのだった。

 

 韓信と蒯通の賭けは、結局勝敗が曖昧なまま終わった。

 

 

 このころ、滎陽の漢軍は窮地に立たされている。

 漢は滎陽から秦時代からの穀物倉である敖倉につながる甬道(ようどう)を築いてこれを補給の要としたが、楚は断続的にこの甬道を急襲し、分断した。これにより、滎陽には飢えの気配が漂い始めている。

 

「やはり当初の構想どおり、滎陽以東は楚にくれ

item2
てやるのが得策かもしれぬ。誰が何と言おうと、和睦じゃ。それ以外どうしようもない」

 劉邦はそう弱音を吐いたが、張良を始めとする諸将は諦めがつかない。

 

 いま、韓信は西魏を降し、趙・代を降すに違いない。さらに燕・斉を降すことができれば大陸の北半分は漢の勢力圏となるのである。

 これに加えて、南には新たに参じた黥布を淮南に派遣し、楚の後背を突く計画を立てている。これが成功すれば、楚を完全に封じ込める包囲網が完成するはずであった。

 さらには彭城と滎陽の中間に位置する梁(かつての首都大梁などの魏の中心地域)周辺では、彭越が神出鬼没的に兵を率いて出没し、楚の補給路を断っている。

 

 ここで劉邦率いる本隊が和睦を結んでしまっては、せっかくの彼らの活躍もまったく無意味なものになってしまうのだった。

 

「誰かいないか? わしのかわりに全軍を指揮する者は?」

 

 漢王劉邦の痛切なる願いに応えたのが、新参の護軍中尉、陳平であった。

 その陳平は言った。

「私の腹づもりでは、項王は情にもろいお方、こちらが頭を下げ、和睦を請う形をとれば必ずや了承します。しかし強硬派の亜父范増などは反対いたしましょう。そこにつけいる隙が生じるかと存じます」

「項羽の性格……あれは情にもろいというのだろうか? わしが思うに、やつは暴虐だ」

 劉邦は疑問を呈してみせた。

 

「暴虐なのは、敵に対してのみです。項王は自分に敵対する相手を無条件に憎むことができますが、逆に味方に対しては愛情をもって臨みます。これは項王が愛憎のみで動く人物であることを示しています。これを逆手に取れば……はっきり言って、項王に取り入るのは簡単です」

「しかしわしはかつて鴻門で項羽に頭を下げ、それから態度を翻すかのようにして今に至っている。それでもやつは和睦を承諾するのか」

「するでしょう。しかし、先ほども言った通り、項王が承諾しても范増が反対します。和睦は結局成立しません。そこで私は策を弄し、彼らを切り離そうと思います」

 

 劉邦は陳平に軍資金として黄金四万斤を与え、それを自由に使わせて工作に当たらせた。それは、反間(はんかん・スパイの意)の策であった。

 

 劉邦は陳平がどのように金を使おうと文句を言わず、出納に関しては報告の義務なし、としたという。

 このため陳平がどういう手法でスパイ活動を進行させたかは史料に残っていない。陳平は韓信と同様、楚から転向した男だったので、あるいは旧縁をつてに楚兵を買収した、ということも考えられる。

 

 とにかく彼は実際に項羽に和睦を申し込んだ。項羽はこれを受けようと考えたが、范増は必死になって止めたという。ここまでは予想どおりであった。

 

 陳平は和睦がならないと知ると、ここで反間を楚軍中に放ち、噂を流布させた。

「将軍鍾離眛は功が多く、項王に珍重されてはいるが、それでも未だ王侯とはなれず、自らの土地も持たない。このため彼は漢に寝返ろうとしている」

 

 この種の噂は鍾離眛のみならず、范増を始めとする他の楚将に対しても同様に流された。項羽が部下に恩賞を施すにあたって吝嗇だとされている噂を利用したのである。

 

 感情の多い項羽は、これで部下を信用しなくなった。

 鍾離眛は前線から戻され、後方に待機を命じられた。范増はしきりに総攻撃を主張するが、項羽は范増に裏の意図があることを疑い、いうことを素直に聞かなかった。

 

 ついに項羽は使者を漢に送り、独断で和睦を前提とした交渉を行うに至る。

 

 漢軍の陣中に至った項羽の使者たちの目にしたものは、歓待の渦であった。

 太牢(たいろう)といわれる豪勢な料理、それを目前で調理するための巨大なまな板や鼎(かなえ)、さらには調理人までその場に待機していた。

 使者たちが食いたいものをその場で調理して提供しようということらしい。

 

「このような厚いおもてなしを……項王がこれを知ったら、きっと漢王を厚遇いたしましょう」

 

 使者の一人がそう口にした途端、劉邦、陳平を始めとする漢軍の誰もが白けた表情を見せた。

「項王……? 我々はみな、てっきり君たちのことを亜父范増の使者かと思っていたのだが……勘違いのようでしたな。なるほど、項王の使者か……いや、失礼申した」

 

 あっという間に豪勢な食事の類いはすべて片付けられ、かわりに粗末なものが提供された。使者たちが驚愕したことは言うまでもない。

 

――これは……范増が漢に通じているということだ!

 

 項羽の使者たちはそう確信し、帰ってその旨をつぶさに項羽に報告した。これによって項羽は范増の裏切りを信じたのである。

 

 

 

「漢が韓信を使って北の諸国を討伐しているのは憂慮すべき事態だが、これは逆に絶好の機会でもある。つまり、本隊の守備に韓信はおらず、漢を降すにいまより好機はないのだ! 和睦などもってのほか。今すぐ士卒に命令なさって滎陽を陥とすのです」

 

 范増は口から唾を飛ばしながら、力説した。しかし項羽はすでに范増を疑い、その言葉に従う気はない。

 

 項羽は言った。

「亜父、我々の敵は漢のみにあらず、後方に斉もいる。いまわしが滎陽を本気で陥とそうとして自ら出撃したら、彭城は斉に奪われるだろう。……それとも亜父はそれを見通してわしに献策なさるのか?」

 

 范増は目を剥いた。項羽が自分に対してこのような口の聞き方をしたのは初めてである。

「なにを言っておられるのか。滎陽を獲ればよいのだ。彭城がその隙に奪われることがあっても、あとから奪い返せばよい。王にとって先に潰す相手は、斉より漢だ。なにを迷われるのか」

「……亜父、貴公を亜父などと呼ぶのは今日でやめにして、他の武将と同列に扱うことにする。以後は後方へ下がれ。それが不満ならば劉邦のもとに馳せ参じるがよかろう。本来漢に通じていることなど許されない大罪ではあるが、貴公のこれまでの功績をかんがみて、特別に不問に付す」

 

 范増は耳を疑った。

「大罪? 不問? なんのことだ。王はわしが漢に内通でもしていると言っているのか? 王よ、気でも狂ったのか?」

「黙れ! 貴公の裏切りはすでに明らかだ。殺されないだけでもましだと思え」

 

 項羽はついに怒気を発した。范増はいたたまれなくなり、退出せざるを得なかった。

――いったいどういうことか?

 范増は身に覚えのない疑いをかけられ、その原因を探った。それは間もなく明らかとなったが、漢の詭計に陥った項羽に落胆した范増は、自らにかけられた疑いを晴らそうとはしなかったという。

 

「天下はだいたいおさまったことだし、あとは王自ら治められますよう。わしのような老将はもはや必要ありますまい……骸骨を乞い(一身を捧げてきたが、骨だけは返してもらいたい、という意。辞職を申し出ること)、故郷に帰らせていただこうと存じます」

 

 項羽はこれを許し、范増はひとり彭城に向かったが、その途上で背中に悪性の腫瘍ができ、それがもとで死んだ。

 

 范増の死は病気が原因ではあったが、憤死といって差し支えなかろう。

 

 項羽が真相を知ったのは、范増の死後間もなくである。漢による詭計だと判明した結果、鍾離眛など諸将はその地位を回復したが、范増はすでに亡く、取り返しがつかなかった。そのため項羽は劉邦を激しく憎み、いっそう滎陽の囲みを強化した。

 

 漢・楚の対立は激しさを伴い、続いていく。

item16 item16c item16d item17a item18

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら