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第 二 部

 

愛 ・ 反 間 ・ 苦 肉

 

 

 蒯通が韓信について感じていることは、独立独歩の人だということであった。態度が穏やかなので表には出ないが、基本的には他人を信用できない性格のように見える。

 蒯通の目から見るに、韓信の軍はそれほど軍規が厳しくない。それでも軍が秩序を保っているのは、韓信が常勝将軍だからで、決して韓信が部下の教育に熱心だったからではないように思えた。

  かつて蒯通はこのことについて韓信に尋ねたことがある。

 

「士卒には、各々の良心に従って行動しろ、と常々言っている」

 

 そのときの韓信の答えがそれであった。それが韓信の信念だと言えばそれまでだが、これは韓信には信念などなく、自分の考えを他者に押し付けてまで従わせることを嫌っていることをあらわしている。

 

 しかし韓信は物事を言わねばならないと思うときには言う男で、決して主張が少ないとか、気弱な男ではないと思われた。蒯通が思うに韓信は人と必要以上に関わるのが面倒なだけなのである。軍規が緩やかなのに部下が従順なのは、さしあたってそのような者ばかりを登用しているからに過ぎない。カムジンという、あの常に韓信の傍にいる楼煩の男などは、そのいい例だった。これとは逆に、反抗的だが正論を吐く、うるさい者は韓信の周辺には存在しない。

 

 しかし、考えてみればそのような者は必要なかった。こと軍事に関しては、韓信の判断は常に正しかったからである。

 

 だが、あくまでもそれは軍事に限ったことであり、政略的なことは、韓信はあまり考えていない。いや、考えないようにしていると言った方がいい。

 韓信は他人を信用してはいないが、自分は信用されたがっている。劉邦が自分を信用して、将来も粗末に扱わないことを願っているのだ。

 

 これらのことを考え、蒯通は以下のように結論づけた。

――韓信は他人を信用していないが、本当は信用したいのである。漢王よりわしの方が信用のおける相手だとわからせれば、説得は可能だ。

 

 

「失礼ながら将軍、いいえ、丞相は、せっかくの私の言を用いませんでしたな」

 蒯通は韓信に対して、思い切ってそう述べた。

 

「呼び名は将軍のままでよい。蒯先生、先にも言ったが、私には魏蘭を政争に巻き込むつもりはなかった。魏の地を征して王となる気もさらさらない。そのため平陽は曹参にくれてやったのだ」

「くれてやった、と言うからには、本来魏の地は将軍が領有するべきである、と自分で思っているからに違いありません。私もそう思いますし、他の誰に聞いてもそう言うでしょう」

 

 韓信は痛いところをつかれた。だが認めるわけにはいかない。

「……曹参は古参の将で、漢王に対する貢献は新参者の私以上である。いずれ私にも食邑は漢王から与えられるであろう。それを思えば、第一に魏の地を与えられるべきは、やはり曹参である」

 

 蒯通は話題を変えた。

「将軍、知っておられますかな? 漢王は六(地名)の九江王黥布に使いを出し、漢に迎え入れたことを?」

 

「黥布を? ……初耳だな。本当か」

「黥布はご承知の通り、天下に名を知られた猛将であり、漢王の側に立って戦えば、その貢献の度合いは将軍と肩を並べるか、上回るかもしれません」

「何が言いたいのだ」

「このままでは、漢王は将軍に与えるべき食邑を黥布に与えることになりましょう。将軍はそれで満足なさりますか?」

「黥布には黥布の、私には私の食邑が与えられるだろう。何を気にすることがあるのか」

「私もくわしくは存じませんが……黥布はその身ひとつで漢に身を寄せたものの、ゆくゆくは淮南(わいなん)王の位を得ることは決定しているそうです。これに比べ、将軍は丞相どまり。おかしいとは思いませんか? 黥布と将軍を比べれば、私には将軍の方が王にふさわしいと思われます。しかし漢王は将軍に王の地位はおろか、食邑も満足に与えない。……それは内心で将軍を恐れているからです」

「何を馬鹿な! 私よりよほど黥布の方が恐ろしい男だ。あの男の新安での行動……二十万の秦兵を一度に穴埋めにした男だぞ。義帝を弑したのも黥布だと聞く……私がそんな黥布より漢王の信頼度において劣るはずがない」

「では、賭けましょう」

「賭けだと?」

「そう、賭けです。将軍は代・趙への出征を理由に漢王に増兵を要請する……そうですな、三万ほどでよろしいでしょう。漢王が素直に兵を送ってよこしたら将軍の勝ち、なにかと理由をつけて少なくよこしたり、まったく兵をよこさなければ私の勝ちです。どうですか?」

「……いいだろう、付き合おう。何を賭ける?」

「運命を。私が勝てば、将軍は王への道を進み、将軍が勝てば、私はもう何も申すまい。こうして将軍にうるさがれながら、差し出口をはさむことはもうやめ、それこそ黥布のもとにでも参ります」

「そうか? しかし、私は君が黥布のもとに行くことを望んでいるわけではない」

 

 韓信は蒯通の提示した条件を拒否し、かわりにうまい酒を供与することを条件とした。韓信はそれほど酒が好きなわけではなかったが、他に特別欲しいものが思いつかなかったのである。

 

 

 

 劉邦のもとより返答の使者が送られてきたのはそれから十日ほど経ってからであった。

 

「漢王は左丞相韓信どのに三万の兵を送ることを、お決めになりました。つきましては丞相には代・趙の攻略をつつがなく実行してもらいたい、との仰せです。なお、三万の兵を統率してこちらに送り届けるのは張耳どのが担当されます。丞相は張耳どのをそのまま留め置き、趙攻略に際しての補佐をさせよ、とのご命令です」

 

――見たか! 賭けは、私の勝ちだ!

 

 韓信は魏を滅ぼした際に、捕らえた魏兵を自軍に編入させ、兵力を増強させることに成功している。それを考えれば、あらたな三万の増兵はどうしても必要というわけではなく、送ってもらえればありがたい、という程度でしかなかった。蒯通が賭けを持ちかけてきたために、万が一劉邦が兵をよこさなくても損はない、と考えて話に乗ったのである。

 

 しかし実際に劉邦が三万の兵を送ることを聞いて、韓信は心底安心した。

 自分の要求どおり、劉邦が兵をよこしてくれることは、劉邦が自分を信用していることに他ならないと思え、言いようもなく心が安らいでいくのを感じる。

 とりわけ心強かったのは重鎮である張耳の派遣を決めてくれたことだった。なんといっても張耳は趙の建国に中心的に携わった男である。かつての朋友の陳余と雌雄を決しなければならないことを思えば気の毒ではあるが……しかし、それは韓信にはどうすることもできない問題であった。

 

――賭け自体はくだらないものではあったが、漢王のお気持ちを確認できたことは、有意義であった。

 

 韓信はそう思い、さらに、

――漢王に、私の真心が通じたのだ。

とさえ思った。連戦連勝の漢の総大将としては無邪気すぎるような感はあるが、それだけにこのときの韓信の喜びがひとしおであった、ということがわかる。

 

 

 ひとり悦にいった様子で居室で安らぐ韓信に、室外の衛士が来客の旨を告げた。

 

「蒯通さまからのお届けものをお持ちしました」

 そう言って入室してきたのは、軍装を解いた姿の蘭であった。白の長衣に幅の狭い帯を巻いただけの簡素な平服であったが、いつもと違うだけに新鮮に見える。

 

「私にはこれがどういう意味をもつのかよくわかりませんが……蒯通さまは私に将軍のもとへ行き、この酒を届けよ、と申されました」

「そうか……。まあ、座るがいい。せっかくの届け物だから、飲むことにする。君にも付き合ってもらおう」

「はい。……瑟(しつ・琴に似た楽器)でも弾きましょうか?」

「ほう、弾けるのか? さすがに良家の娘だな。しかし、それは次の機会に。今は、話がしたい」

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「はい」

 

 

 酒器が用意され、青銅の瓶から薄黄色の酒が注がれる。この時代の酒は、香りが強い反面、アルコール分は少なく、相当に飲まなければ酔うことはない。成分に関しては、ある種の穀物が原料であること以外、未だ不明である。

 

「……この酒の届け主である蒯先生は、私に王として立つことを使嗾し続けている」

 韓信は一杯めを一息に飲み干すと、そう口にした。

 

「え?」

 察しのいい蘭は話の内容が危険なことに、すぐ気が付いた。

 

「蒯先生は漢王が私のことを内心で恐れていると……だから要請しても兵を送ることはないと……しかし漢王は私の要請どおり、兵を送って下さった。この酒は、私が賭けに勝った証なのだ」

 韓信は危険な話をしているが、表情は明るい。どうやら賭けに勝って安堵し、単純に喜んでいるらしい。蘭にはそう思えた。

 

「蒯通さまは私に、結果はまだわからないと伝えてほしいと申しておりましたが……。私も内容はよく存じませんが、いま聞いた限りでは安心するのはまだ早いかと存じます」

 

 蘭は二杯めを注ぎながら言った。それを口につけようとした韓信の手が止まる。

「……どういうことだ」

 

「将軍は、頭の良いお方でございます。本当はご自分でもお気づきになっているのに、考えたくないに違いありません。それゆえ、気付かないふりをしているのでございましょう。いま、兵三万が増強されることは、私も聞き及んでおります。将軍はそれを漢王との信頼関係の証だと考えておられるようですが、これはやはり漢王が将軍のご機嫌を損なうことを恐れている、と考えた方が自然のように思われます」

 

「そうなのか? 人はやはり……そのように思うものなのか。しかし私は軍を漢に向けたりすることは考えていない。漢王もそう思ったからこそ兵を私に貸し与えたのだろう。私が離反することはないと……。叛逆して自立をするかもしれない将に、王が兵を与えたりするものだろうか?」

 

「そこは、漢王とて確信がないからでございましょう。要するに将軍は試されているのです。将軍が漢王の気持ちを賭けで確かめたのと同じです。私の個人的な考えでは……漢王はそのうち、兵を返せと言ってくるでしょう。そのとき将軍がなにかと理由をつけて返さなければ、将軍に叛意あり、と考えるに違いありません」

 

 韓信は二杯めを飲み干した。すでにその表情から安堵の色は消え去っていた。

「蒯通さまを……遠ざけてはいかがですか?」

 

「そうしたところで漢王の気持ちが変わるわけでもあるまい。蒯先生は……あれはあれで私のことを高く買っているところがあってな……。無下に扱うのは申し訳がないのだ。子供っぽい言い方かもしれぬが……彼ほど私を褒めてくれる人物は、実はそうそういない」

「私は、将軍を高く評価することにかけては、蒯通さま以上です」

「……蒯先生がそう言え、と言ったのだろう。

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それとも君も私に叛逆を勧め、王となれと使嗾したいのか」

「違います。私はただ将軍のことを……お慕い申し上げます、と言いたいのです」

「……からかっているのか」

「そんな……本気です」

「…………」

 

 二人の間にしばしの間、沈黙の空気が流れた。

 

 

 

「……私は作戦行動中は、あまり自己を甘やかさないように心がけている。食事は簡素に、睡眠も短くとり、よほどのことがない限り、酒も飲まない」

「そうでしょう。私も将軍がお酒を嗜むお姿を見るのは、今日が初めてです」

「もともとそれほど酒が好きなわけではない。いま目の前にしているこの酒にしても、いいものであることには違いないのだろうが……実は私には酒の味など、よくわからない。多く飲めば酩酊する、それだけだ。私は、それを嫌う」

「なぜ?」

「……かつて上官だった項梁は、酒に酔って正確な状況判断ができず、そのおかげで私の目の前で章邯に惨敗し、死んだ。あのときの衝撃は、忘れられない……それゆえ私は常に正気でありたい、と望んでいる。女は……男にとって酒と同じようなものだ。深くのめり込みすぎると、正気を失う」

「将軍がそのように自己を律しておられることは、素晴らしいことだと思います。……ですが、将軍……酒の味も知らず、女も知らずでは、人生の半分しか知らないのと同じでございます。深くのめり込まず、適度に味わえば、酒も女も人生を彩るものとなるのです」

「……だから君のことを適度に味わえと……そう君は言っているのか?」

「! ……将軍。そのような言い方は、いやらしゅうございます」

「すまぬ。自分でもわかっているのだ。私は過度に自己を押し殺し、そのためかたまに耐えきれなくなり、はち切れるようになることがある。若い頃、私は自分で生活することができず、よく人の世話になった。……私は彼らの好意に感謝しつつも、自分自身が情けなく、それに我慢しきれなかった。思うに私にはいい意味での厚顔さが足りないのだろう。人の好意に触れるたび、私はそれを恥に思い、常に自分から絶交を持ちかけたものだ」

「…………」

「かつて旧友の鍾離眛は、楚の項梁のもとに参じる際に、私を誘った。私は意地を張り、それを断った。しかしそれでいながら私は……結局項梁のもとへ参じたのだ。そのとき眛はそれを咎めもせず、推挙してやる、とまで言ってくれた。だが私はそれも断り……いまとなってはお互いに殺し合うような仲と成り果てている。私が素直に眛の誘いに従っていれば避けられた悲劇だ。いったい誰を責められよう、すべて私の責任にほかならないのだ」

「…………」

「蘭、君の好意も私は素直に受け入れられないでいる。軍服姿の君は、凛々しく魅力的だ。それにもまして今宵の君は、まったく違う印象で……やはり美しい。しかし駄目だ。私の手は、敵兵の血で汚れている。君はもう人質ではないのだから、私のもとを離れ、もっと清廉潔白な男を見つけてどこか平和な地で暮らすといい」

「……将軍は、父を死に至らしめた章邯を廃丘に追い込み、そしてこのたびは魏豹を……。将軍は私にとって英雄なのです。どうかお近くに置いてください。そしてわがままを申すならば、私は将軍のいちばんお近くに居たいのです」

「そうすれば君が私の人生の半分を教えてくれる、というのか。君がそばに居ることで、私の人生が彩られる、というのか?」

「そうありたい、と思っています。どうです? 私は将軍と違い、自分の気持ちに素直でしょう?」

「……ふむ。どうすれば、そのように素直になれるのだ?」

「さしあたっては、私の身を将軍に捧げます。将軍はなにも言わず、それをお受け取りくださいませ」

「私に、君を抱けと言っているのか?」

「……将軍、私は、なにも言わずに、と申しました」

 

 蘭の態度に媚びる様子はなかった。彼女は私を抱いてください、と韓信に懇願しているのではなく、私を抱きなさい、と言っているのだった。

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