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第 二 部

 

背 水 の 陣( 続 き )

 

 

「……川を前に置けば、敵の侵入はある程度防げるが、いま敵地に侵入しようとしているのは、我々の側だ。よって本来川を前面に陣を張らなければならないのは趙軍の方であり、彼らに川の向こう側に陣取られると、攻めるこちらとしてはやりにくいこと甚だしい。……だから、私はそうさせない」

 戦いを前に魏蘭や蒯通を前に語った韓信の言である。

 

 しかし、韓信は具体的なことはそれ以上語らなかったという。

 

 夜明けとともに戦鼓が高らかに鳴り、漢軍の進撃が開始された。趙兵たちは迎撃しようと撃って出たが、そこにあったのは彼らにとって目を疑う光景であった。

 

「……大将旗だ!」

「韓信が先鋒でいるぞ!」

「裏切り者の張耳もいるぞ! 取り囲め! 捕らえよ」

 趙軍の兵士はみな塁壁から出て、飢えた虎のように韓信めがけて突撃を開始した。

 

「来たぞ、諸君。さあ、逃げるぞ!」

 

 韓信を始めとする先鋒部隊は、なりふり構わず逃げ出した。戦鼓や旗を捨て、一目散に川岸に向かって走り続ける。

 

「後退せよ! 退却するのだ」

 韓信は大声で命令を発する。

 それに呼応するかのように趙兵は次々と塁壁から出撃し、漢軍を追いつめて行くのだった。

 

 

 それまで戦況を見続けていた陳余は、傍らの李左車へ勝ち誇ったように語りかけた。

「見ろ。韓信は弱い。君の言う勝ちに乗じた軍というのは、こういうのを言うのか?」

 

 李左車は不審に思いつつも、返す言葉もない。

「……私の誤りだったと思われます……」

「君の処分については、この戦いのあと、じっくり考えさせてもらう……さあ、者ども! 私も出るぞ。付いてこい!」

 

 陳余はそう言いつつ馬に跨がり、自らも出陣することを宣言した。

 

 つまり、彼は韓信の罠にはまった。

 

 

 韓信たち先鋒部隊は抵抗もそこそこに後退し、川岸まで追い込まれたところで味方の軍と合流した。

 

「諸君!」

 ここで韓信は息を切らしながらその長剣を抜き、たかだかとかざして士卒に号令を下した。

「見よ! 前方は敵、後背は川だ! 怯懦な心で敵に臨めば、諸君を待っているのは死である! 恐れをなして後退すれば、諸君は川に飲まれ、やはり待っているのは死だ! 諸君が生き残るには、前方の敵を撃ち破るしかない」

 

 漢兵たちの間に緊張の空気が充満する。

 韓信はそれを断ち切るかのように剣を振り下ろして命令を下した。

「反撃せよ!」

 

 おしよせる趙軍を相手に、漢の兵士は死にものぐるいになって戦った。

「退くな! 踏みとどまれ!」

 

 死地に追い込まれた漢兵たちは数で劣勢であるにも関わらず、意外なことに趙軍の猛攻に持ちこたえようとしている。

「……大軍に細かな作戦などいらぬ。数で圧倒すればよいのだ」

 戦況の膠着状態に苛立った陳余は、ついに砦で待機する兵たちに出陣を命じた。

 

 この時点で、砦は空になった。

 

「諸君、もう少しの辛抱だ! 持ちこたえろ! 死ぬな!」

 韓信は自らも剣を振るって、敵を切り倒しながら、味方を鼓舞する。しかし味方の兵の中には猛攻に耐えきれず、川に落ちて溺死する者が続出し始めていた。

「退くなと言っているのに!」

 彼らを助けてやることはできない。韓信としては見捨てることしかできず、ある程度の犠牲が出ることは覚悟の上の作戦だった。

 

 あらかじめわかっていながらそうした、というのは救われない武将の性(さが)とでもいうしかない。韓信が、自分には愛を口にする資格がないと言ったのは、このような自分の行為の罪深さを自覚しているからだろう。

 

 そうした苦戦を小一時間も繰り広げたころ、城壁の旗が趙のものから漢のものにさし変わった。

 例の赤い旗である。

 潜伏していた二千の騎兵が空になった砦を占拠したのだった。

 これにより、状勢は逆転した。

 

「砦が奪われたぞ! あれは漢の旗だ!」

 兵の声に驚愕した陳余は後ろを振り向き、さらに驚愕した。

――そんな馬鹿な。そんなはずはない!

 

 しかし目に見えるのは、砦からこちらに向かって突入してくる漢の騎兵の姿であった。紛れもない現実だった。

 

 士気を失った趙軍は、総崩れとなった。砦と川からの挟撃にあった趙兵たちは次々に討ち取られていく。

「陳余だ! 誰でもいい、早く陳余を討て!」

 韓信は叫びながら、自分でも陳余を追いかけた。

 

 陳余は馬を走らせたが、逃げ道があるわけでもなく、無計画に走り回るしかなかった。

「誰か、わしを守れ! 助けろ!」

 しかし、趙兵たちは自分たちを守ることで精一杯である。ある趙の将軍は逃げ惑う配下の兵を斬り、反撃するよう強要したが、やがて乱戦の中で自分も斬られた。

 

 そして逃げる陳余の脳天に矢が突き刺さった。

 陳余は落馬し、自らの馬に踏まれて人形のように転がり、落命した。

 

「楼煩だ!」

 陳余を射殺したのは、カムジンだった。

 

「大将の陳余は……討ち取った……殺されたくないやつは……降れ!」

 カムジンのそのひと言で、それまで逃げ回ってばかりいた趙兵たちが馬を降り、地べたにひれ伏し始めた。戦局は終結を迎えたのである。

 

「……やれやれ、またもカムジンに手柄を与えたことになるな……しかし、まあ……これでよい」

 韓信は周囲の者にそう言って、安堵の溜息を漏らしたという。

 

 陳余の遺体は、川のほとりに運ばれ、そこで首を切断された。

 

 

「趙王をこれへ……」

 

 捕虜となった趙王の歇は、韓信の前に引き出され、引見を受けた。

「累々と続く趙の王家の血筋を私が絶とうとは、考えていません……。ただ、これからは市井の者として、静かに、大過なく暮らしていただきたい。それがあなたのためであり、我々のためでもあるのです」

 

 韓信の言葉を受けて、歇は静かに頭を下げながら言った。

「そもそも余をかつぎ上げたのは、陳余と、そこにいる張耳である……。擁立した者に裏切られるとは……実に悲しいことだ。しかし、いま将軍の慈悲により、こうして生かされていることに感謝し、恨みごとは言うまい。……また、将軍に言われるまでもなく、余は静かな生活を望んでいる。張耳よ、余は……余は、王になどなりたくなかったのだ! たまたま王家の血筋に生まれたというだけで運命を翻弄されるのは、もう終わりにしたい。なぜ余をそっとしておかなかったのか!」

 

 韓信の横にいた張耳はこれを聞き、自分の野心に満ちた人生を恥じ、さめざめと泣き崩れた。

 

 韓信は、これに深く心を動かされ、

「不肖、張耳に代わって謝罪申し上げます」

と、歇に向かって深々と頭を下げた。歇にも、張耳にも同情したのである。

 

 さらに韓信は、井陘の戦いに先立って、奇襲を献策した李左車を殺さず、生け捕りにしている。

 韓信は虜囚となった李左車を前にすると、その縛めを自ら解き、東を向くように座らせ、自分は西を向いて座った。これは韓信が李左車に師事することを意味する。軍事に対する根本的な考え方が、自分と同じだと考えたのだった。

 

 こうして捕虜の引見を終えた韓信は、約束どおり、士卒と食事を共にした。

 

 遅めの朝食の中、兵たちは口々に韓信に質問を投げかけた。

「将軍、このたびの戦術はいったい……私どもはなにがなんだかさっぱりわかりませんでした。いまだにどうして我々が勝利を得たか、よくわかりません。これは、偶然の結果なのでしょうか」

 

 韓信は、犬肉をほおばりながら、兵たちの質問に答えた。

「そうだな……いや、偶然などではない。まずは、私は君たちに謝らなければならないだろう……。私は君たちをあえて死地に置き、それを利用してこのたびの勝利を得たのだ。結果は私の狙いどおりだった。決して偶然ではない」

 

 韓信はそう話しながら、口の中の犬肉を吐き出しそうな素振りを見せた。犬の肉の味が嫌いだったわけではない。ただそれを味わうと、かつて犬の屠殺人の股をくぐった屈辱が思い出されるのであった。

 

 兵士はそんな韓信の気持ちにはお構いなしに質問攻めにする。

「兵法には『山や丘を後方に、水や沼沢を前方に陣せよ』と記されているとうかがっております。しかしこのたび将軍は、これとは真逆に川を後ろにして陣を構えました。将軍の作戦は兵法に基づいたものではない、ということなのでしょうか」

「そういうわけではない。このたびの私の作戦も兵法に基づいたものである。しかし、兵法には抽象的なことしか記されていないため、君たちが気付かないだけなんだ」

「と、いうと?」

孫子の書には『死地に陥れられて初めて生き、亡地に置かれて初めて存する』とある。これはちょうど君たちのことを示しているのだ。つまり、兵は死にたくないという気持ちの強い者が、生き残ることができる。このため私はあえて君たちを死地に置いた。謝らなければならないと言ったのは、このことだ」

「なるほど」

「いっぽう兵書には『兵を死地に置いて奮闘させるためには、川を後ろに陣構えさせよ』などということはいちいち記されていない。兵書にある言葉どおりに戦えば必ず勝つというのであれば、この乱世に敗者は存在しないだろう? 大事なのは兵書から何を読み取るかであり、忠実に兵書にある内容を実行すればそれでいい、というわけではないのだ」

「趙の陳余も一説には兵書に通じていた、ということですが……」

「我々よりも大軍を擁することができたので、それで満足したのだろう。確かに兵法には相手より多くの兵力で戦い、数で劣る時は逃げよ、ということが記されている。陳余はそれを盲信し、陣を敷いた時点で勝ったつもりでいた。生意気な言い方を許してもらえるならば、彼は底の浅い男だ」

 

 韓信は陳余が嫌いだった。苦難を共にした張耳との過去の交友を忘れ、己の野心のみに基づいて行動した、儒者でありながら義に疎い男。

 それが韓信の陳余に対する評価だった。また、正面から戦えば自尊心は満足させられるが、それで勝ちを得たとしても兵は少なからず損耗し、失わくてもすむ人命を失うことに気付かなかったというのも気に入らない。

 

 いらいらとしたが、肉を飲み込み、ひとしきり気を落ち着けた韓信はさらに語を継いだ。

「私が、君たちを死地に置いた理由はまだある……。私は、見ての通り若輩者だし、日ごろから君たちを心服させようと努力していたわけではない。よって、私の号令だけでは君たちの本当の力を引き出すのは無理だと思った。このたびの勝利は君たちの生き延びたい、という願いが敵兵にまさった、それがいちばんの要素なのだ。私は、それを少し手助けしただけに過ぎない」

「しかし、兵の力を引き出したのは、他ならぬ将軍の知謀でございます。とても私たちの及ぶところではございません」

 

 兵たちは揃って韓信を祝福し、あらためて勝利を喜んだ。韓信は、尻が痒くなるような気恥ずかしさを感じたが、喜びを感じずにはい

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られなかった。

 兵士たちと気持ちを共有することができたことに、初めて感動したのである。

 

 しかし、やはり自分の決断のせいで命を散らした者がいる、という事実は変わらなかった。それは指揮官として常に背負っていかねばならない、あがなうことのできない罪であり、逃れられない責務であった。

 

 韓信はほんの一瞬でも喜びを感じたことに、恥を感じた。

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