NEW

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら

item8 item9 item4a item11 item12 item13 item10
第 四 部

 

楚 の 宿 将 の 最 期

 

 陳平という人物は、数々の奇策で敗勢だった漢を救った。その功績が認められて後々まで権勢をふるい、丞相の地位まで登り詰めた男である。

 ただしこの時点での彼の肩書きは、范増を死に至らしめたとき以来の護軍中尉のままであった

 

 その陳平は、これより以前、諸将の意見が韓信誅罰に傾いていることを知り、事前に皇帝劉邦と話し合っている。

「……諸将の意見はどのようなものでしたか?」

item2

 

 陳平がそう質問したとき、劉邦の態度はまだ定まっていなかった。

「韓信を滅ぼそうというのが大勢のようだ。……しかし、それも無理のないことだ。あいつらにとって韓信は最大の競争相手だからな。樊噲や夏侯嬰、周勃などの古参の将軍たちは、古参であるが故に、韓信には負けたくなかろう」

 

「陛下のお気持ちは、どうなのです? その……誰が最大の功臣か、という点ですが」

「本人の前では増長するだろうから言えないが……武勲の大きさから言って、文句なく韓信だ。諸将どもは口では韓信を穴埋めにするべきだ、などと言ったりするが、現実的にそれを実行できる能力はない。自分らの手の届かないところで、韓信が勝手に滅び、自分たちの出世を阻む存在がひとりでに消えてなくなることを望んでいるのだ」

「難しい問題ですな、それは。私も人ごとのようには思えませぬ。新参者の私を周勃どのや灌嬰どのはあまりいい目で見ておられぬようですからな」

「……わしはどうしたらよいのだろう」

 

「まずは問題を整理しましょう。第一に楚王が叛いたと誰かが告げた、とのことですが……その叛乱の事実を知っている者はいるのでしょうか」

「誰もおらぬ。あるいは根も葉もない噂に過ぎぬかもしれん」

 

「なるほど……では楚王韓信はそのような上書が陛下に届けられたことを知っているのでしょうか」

「まだ知らぬはずだ。確証はないが」

「そうですか」

「敵情を探るのは、そもそもお前の領分だろう。わしに質問すること自体、間違っているのではないか?」

「いやいや、ひとくちに敵情とおっしゃりますが、まだ楚王が敵と決まったわけではありませんぞ……。しかし、仮に楚王を敵に回すとして……陛下の兵は、その精鋭さにおいて、楚兵と比べてどうでしょう」

「及ばぬ。楚兵は伝統的に強いと言われているからな」

 

「では、将軍の質は? 楚王韓信に指揮力、統率力においてまさる将軍が陛下の配下におりますでしょうか?」

「いや、おらぬ。韓信を上回る用兵家がいると言うのなら、連れてきてもらいたいくらいだ」

「では、おそれながら陛下が韓信と戦うことは無謀であるとしか言いようがございません」

「だから聞いておるのだ。わしはいったいどうしたら、と……」

「考えがございます」

 陳平は、その場で劉邦に一計を授けた。

 

 そして、会議の席である。姿を現した陳平は、控えめな咳払いとともに話し始めた。

「……将軍方の意見は、上書の内容を信じ、楚王を誅罰する方向に傾いているようですがどうやって誅罰するかが問題です。楚王の兵は強く、現時点で用兵力をもって楚王を凌ぐ者もいない。誅罰しようとした者が、返り討ちに遭う危険が高い、と言えましょう」

 

 陳平は蕭何と灌嬰が誅罰に反対であることを知っていたが、あえてそれを無視して話を進めた。

「楚王を誅するにあたって、陛下の威を借りて我々が楚国内に入って行動することは出来ません。楚は韓信の庭のようなものであり、彼が兵にひと言指示を与えれば、我々はあっという間に包囲されてしまうでしょう」

「…………」

「また、上書の内容を明らかにし、楚王の罪を声高々に問責することもできません。あまり追いつめすぎると、楚王は本当に叛くしか道がなくなります。彼が兵を引き連れて関中に押し寄せたら、我々には対抗できる手段も、人もいないのです」

 

「要点を早く言ったらどうだ」

 もともと陳平のことを快く思っていない周勃は、嫌味な口調で話を遮った。

「……では、言いましょう。韓信を捕らえるには彼を単独の状態で国外におびき出し、口実を設けて逮捕する、これしかございません。すなわち、このたび陛下には陳の雲夢沢(うんぼうたく)という名勝地に物見遊山に出かけてもらいます。そこに饗宴を開く名目で諸侯を招待し、その場で捕らえる……軍兵を従えた韓信を捕らえることは至難の業ですが、平和な出遊にその身ひとつで拝謁にきた彼を捕らえることは、一人ないし二人の力士がいれば済むことです」

 

 

「……それは、騙し討ちではないか。あまりに楚王に失礼であろう」

「そんな恥知らずな行為を、陛下や我々にしろというのか」

 

 諸将はそのようなことを次々に口に出して言った。陳平はこれにむかっ腹を立てて反論する。

「あなたがたは、どうもお覚悟が足りないようだ。そもそも上書があったからといって、楚王に本当に叛逆の事実があったかどうかは、定かではない。にもかかわらずあなたがたは、揃って楚王の失脚を望んでいる。私がこうして提案しているのは、ひとえにあなたがたが彼の失脚を望むからだ。諸君が、韓信より下位の地位に甘んずることをよしとしないからなのだ」

「生意気な口をきくな! だいたいお前の作戦は、どうしていつもそのように人を騙すことを前提にしているのだ! 陰謀でしか物事を解決しようとしないのは何故だ!」

「決まっているではないですか。あなたがたでは、韓信に勝てないからだ。それとも敗れて死ぬのを承知で、武人としての美意識を尊重し正々堂々と戦う、とでもいうのか。やめたまえ! とても勝ち目はない。私から言わせてもらえば、これから滅ぼそうとする相手に礼節をもって遇するなどというのは、偽善でしかない。この際だからはっきり言っておくが、十中八九、韓信は無実だ。彼を滅ぼすのは、彼が罪を犯したからではない。あなたがたのためなのだ! 後になってから知らなかった、とは言わせないぞ」

「この……ふざけるな!」

 周勃が食って掛かった。普段は朴訥で、まっすぐな性格の彼は、陳平の奇術めいた施策を常々不満に思っていたのである。

 

 会議の場はあわや爆発寸前の様相となった。

「もうよさぬか。……お前たちの気持ちはわからないでもないが、基本的に朕は韓信を捕らえることを、すでに決めている。なぜかというと……」

 部下たちの争いを仲裁した劉邦は、そう言いながら玉座から身を起こした。

「朕の人生は、そろそろ終わりを告げようとしている。まだ体力はあるが、わかるのだ。だから、朕としては、自分が死んだ後のことを考えざるを得ない。思うに韓信は……諸君らと実力差がありすぎる。このままわしが死ねば、天下は韓信のものになり、それに不服を抱いた諸君らは、叛乱を起こすだろう。そうすれば、漢は終わりだ。わしとしては、生きているうちに諸君の不満の種を除いておかねばならない」

 

 劉邦のこのときの発言は、諸将に衝撃を与えた。皇帝が自分の死期を悟り、自分亡き後の天下を行く末を案じた上での策略だとまでは、誰も想像していなかったのである。

 しかし、劉邦の韓信に対する警戒は、彼らには極端すぎるようにも思えた。特に灌嬰にとっては。

 

「楚王は、そのようなお方ではありませぬ」

 発言しにくい雰囲気の中、灌嬰はただそのひと言だけを発し、なんとか意志表示をしてみせた。

「うむ。わしとて、引っかかるものはある。ここにいる誰もが認めていることとは思うが、韓信は漢王朝創業の最大の功臣であり、性格も安定した男だ。だが……現実的に韓信が国家を転覆させる能力を有する限り、不安は取り除かねばならぬ。たとえ武人として恥ずべき方法をとらざるを得ない、としてもだ」

 皇帝のその言葉を最後に、会議はあっけなく終わった。既に皇帝の意志が決定している限り、彼らがいくら議論しても無駄なのである。

 

 こうして韓信は誅罰されることになった。

 

「曹参や盧綰、そして張良がこの場にいれば、こうはならなかったろうて」

 蕭何は灌嬰を前にそう言って嘆息した。曹参は斉の宰相、盧綰は燕王としてそれぞれ不在で、張良に至っては統一後、わずかな領地をもらっただけで半分引退した形である。

 

 皇帝と同年同日に生まれた親友の盧綰がいれば、皇帝の不安を和らげることができたかもしれない。

 韓信と長く戦場をともにしてきた曹参がこの場にいれば、少なくとも議論は大勢に押されることなく、もっと白熱したことだろう。そうすれば皇帝の意志が変わることもあったかもしれないのだ。

 そして張良がいれば、陳平による詐略的な解決方法をとることなく、もっと誠実で、武人の自尊心を尊重する案が提出されたかもしれない。

 しかし、彼らはいずれも不在で、そのことが韓信の運命を決定づける一因となったのである。

 

「張子房(張良)どのは留(りゅう)侯となり、まだ若くして隠居生活をしている、と聞きましたが……」

 灌嬰は蕭何に尋ねた。

「お上は張良の功労を高く評価しておられた。それゆえ、彼には斉の土地、三万戸を封邑として与えようとしたのだ。これはとてつもなく広大な領地だ。……つまりお上は韓信に代えて張良に斉を治めさせたかったのだろう。しかし、張良はこれを固辞し、わずかに留のみを領地とするにとどめたのだ。彼は病弱な男であったので、引続き国政に参加する自信がなかったのかもしれないが……実情は違うな。広大な領地を持ち、権勢を得ることで、自分が韓信のように疑惑の目で見られることを嫌ったに違いない」

 

 それを聞いた灌嬰は、突如涙をこぼした。蕭何は驚き、逆に灌嬰に尋ねる。

「なにか知っているのか」

「いえ……」

「では、なぜ泣く」

「……かつて楚王は、私に語ったことがありました。いわく『自分は漢による天下統一がなったのち、斉国は陛下に献上して、どこでもいいから小さな土地をもらい、静かに余生を暮らすつもりだ』と……。張子房どのの現在の隠遁生活は、実は楚王が望んだものなのです! 話を聞いた当時、私は楚王の気持ちがよくわかりませんでした。……しかし、今に至り、ようやくその意味がわかったのです」

「……そうか」

 

 蕭何は答えを返すことができなかった。なんという皮肉な運命。韓信は張良に比べて立ち回りが不器用だった、ということか。

 しかし、そんなひと言で片付けられるほど、事態は簡単ではない。

 

――無双の国士も、これまでか……。

 かつて蕭何は韓信を「国士無双」と評し、劉邦にしきりに推挙した。

 自分のその行為が、結局は韓信を苦しめることになったのではないか。蕭何は近ごろになって後悔を感じている。

 

 灌嬰の涙を見ることで、蕭何のその後悔はさらに増幅していった。

 

 

 下邳の宮殿では、韓信が鍾離眛を招き、余人を交えずに議論している。

 このとき韓信が鍾離眛を匿っていることを知っている者は宮中には多い。しかし、それがいけないことだと認識している人物は少なかったようである。

 はるか遠くの関中の地で、皇帝がそれを問題視していることに気付いている者は、ほとんどいない。もしかしたら気付いている者は、当事者の二人だけだったかもしれなかった。

 

「眛……。唐突だが栽荘先生の前歴を知っているか。その……淮陰に来る前の話だ」

 韓信の問いに鍾離眛は首を振った。

「いや、知らぬ。君は知っているのか?」

 興味をそそられて膝を乗り出した眛だったが、目の前の韓信は浮かぬ顔である。どうやら、栽荘先生を種に昔話に興じるつもりではないらしい。

 

「栽荘先生は、戦国時代の燕の遺臣で、本名を鞠武というそうだ。燕の太子である丹の守り役であったらしい。先生が死ぬ直前、私に話してくれた」

「ほう……。太子丹といえば、始皇帝に刺客を送った人物だな。それに失敗し、燕は秦によって滅ぼされた。栽荘先生は国を失い、淮陰に逃れてきたというわけか……。大人物だな。意外にも、というべきか、やはり、と言うべきか……」

「うむ。……ところで先生が言うには、私は太子丹に性格がよく似ているそうだ。先生に言わせれば、私などは生き方の不器用な若者、ということになるらしい。太子丹も同じように不器用であった、とのことだ……今になって思い返してみると、栽荘先生は私の性格をよく見抜いていたよ。やはり、だてに年はくっていなかった、と言わざるを得ない」

「ふむ……」

 

 鍾離眛は、なぜ今韓信がそのようなことを話しだしたのか考えた。

 韓信は今、自分の不器用さを実感している。と、いうことは彼は今、なにかの問題に突き当たり、それをうまく解決できずにいるに違いない。

「信……。言いたいことがあるのなら、率直に言ってみたらどうなのだ」

 

 眛はそう言ってせき立ててみたが、韓信の態度はまだはっきりしない。

「うむ。そのつもりだが……もう少し話させてくれ。太子丹は、始皇帝を殺害しようと刺客である荊軻を咸陽に送り、それに失敗したことで燕は滅亡するのだが……、この事件は太子が秦からの亡命者である樊於期を中途半端な義侠心を発揮して匿ったことに端を発している」

「……つまり、亡命者の樊於期が私であると言いたいのか。君が私を匿ったのは、中途半端な、つまらない義侠心がゆえだと」

「……よく、わからない。しかし、このままいけば、そういうことになる。私は、つまるところ、太子丹のような末路を迎えたくないのだ。たとえ、性格が似ていたとしても」

「……言っている意味がよくわからないが」

「君が私のもとで今後どのような人生を送るつもりなのかを知りたい。君はこのまま死ぬまで隠れ続け、何ごとも成すことなく一生を終えるつもりなのか」

「…………」

「それならそれで構わないのだが……。だが、おそらく君にはそんなつもりはないだろう」

「ああ。その通りだ」

「では聞く。君の目的はなんだ?」

「再び世に出て、名を残すことだ」

「それでは答えになっていない。何をして名を残すつもりなのかを聞きたいのだ」

 

 韓信の表情には、わずかながら不安が浮かんでいる。

 眛にはその理由がわかった。もし、自分がいずれ漢を打倒するためにここに潜伏しているのだ、などと言ったら……。

 

「私は、君を手助けするために、ここにいる。君にはそれがわからないのか」

「なに? どういうことだ」

「私を公職につけよ。そうすれば、君の王権は強化される。君と私が組めば……現在の君の不安定な立場を解消することができるのだ。私に兵を与えよ。君の兵たちの鉾先は今民衆に向けられているが、それは間違っている。民衆を威圧しても権力は強化されず、それはただ失われるばかりだ。権勢あるものに対して軍威を見せつけることこそ、国の安定につながる。それは結果的に民衆を守ることにつながるのだ」

 

 眛としては、充分鋭気を抑えたつもりである。彼の言ったことは、項羽の世を復活させることでも、漢を転覆させることでもなく、韓信の力添えをし楚の国力を充実させることだった。

 しかし、漢に対して武力を見せつけることには変わりはない。

 眛の見たところ、韓信はこの点に拒否反応を示したようであった。

「過激に聞こえるかもしれないが、これは必ずしも皇帝を討つ、ということではないぞ」

「……そうか。しかし……」

「不安か。だが、考えようだ。君の持つ武力は、十分漢に対抗できるものだ。加えて君自身の指揮能力や用兵の妙をもってすれば、漢はうかつに楚に手出しできない。さらに配下の将として私がいれば、皇帝たりとも君の機嫌を損なう真似はできなくなる」

「しかし……それは結局、敵対することだ。敵対とはつまり……叛くことだ」

「わからない奴だ。実際に武力を行使することはない。示威するだけで、ことは足りるのだ」

「確かにそうだが、しかしそれには君の存在を、漢に認めさせねばならない。ひそかに君を匿い、独断で要職につけたとあっては、私は叛逆者とみなされてしまう。実際はそうではないとしても、彼らに口実を与えるような行動は慎みたいのだ。……なあ、眛。私とともに皇帝のもとに出頭しないか。そして助命を請うのだ。誠心誠意訴えれば、きっと皇帝は聞き入れてくださる」

「それは、疑わしいものだ。……しかし、なぜ今になってそのようなことを言う? 信、君は……私を軽々しく匿ったことを後悔しているのか」

「いや、決してそうではない。ただ、君を匿い、庇護し続けるために現在の状況を打開したいと思っているだけだ。……実は先ほど私あてに朝廷から正式に命令が下った。楚領内に逃げ込んだと思われる君を逮捕せよ、とな」

item16 item16c item16d item17a item18

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら