NEW

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら

item8 item9 item4a item11 item12 item13 item10
第 四 部

 

楚 の 宿 将 の 最 期( 続 き )

 

「皇帝は怒りや恨みなどの一時的な感情で、判断を誤りやすいお方だ。しかし、あの方のいいところは、その誤った判断に固執しないところだ。自分の下した決断が間違いであると気付けば、修正することを厭わない。事実、もと楚将の季父(きふ)は首に懸賞金を賭けられていたが、最後には許されたのだ。かつての敵とはいいながら、有能な男を殺してしまうことの愚かさに気付いたのだ」

 

 韓信がこのとき話題にした季父という男は、もと項羽配下の将軍で猛将と恐れられた男である。

 項羽滅亡の後、彼は諸国を転々とし、流浪の日々を送った。時には頭の毛をすべて剃り、手枷をはめて奴隷の姿に扮したこともあった。しかし最後には魯のとある有力者のもとに転がり込むこととなり、その有力者の訴えを聞いた夏侯嬰が皇帝に進言し、助命されることとなった。

 その後季父は漢の要職に付き、劉邦死後の帝室の混乱を数度に渡って解決に導く活躍を見せる。

 

「季父の例は、数少ない例に過ぎぬ。丁公(ていこう)は殺されたぞ」

 ここで鍾離眛の言う丁公とは、季父の叔父で、本名を丁固といった。季父の母親の弟であり、やはり楚の将軍である。

 かつて彭城で漢王であった劉邦を追撃した丁公は、ついに剣の届く距離にまでそれに肉迫した。

 このとき命の危険を感じた劉邦は、「いくら戦争だからといって、二人のすぐれた人物が個人的に殺し合う必要があろうか」などと言って丁公をなだめたという。

 この言葉をもっともなことだと思った丁公は、剣を収め、劉邦を見逃した。

 

 ところが項羽が滅び、漢の世になったのち、丁公が劉邦に謁見しようとすると、劉邦は即座に彼を捕らえ、軍中に触れを出した。

――丁公は主君に不忠な男である。項羽に天下を失わせた者は、ほかでもない丁公である。

 と。

 

 結局丁公は斬り殺されたわけだが、そのときに劉邦は、

――後世の臣下たる者たちに、丁公の行動を見習わせてはならぬのだ。

という言葉を残している。

 

「季父が生き延び、丁公が死んだのは弁護する者がいたかいないかの違いだ。季父には夏侯嬰がおり、丁公には誰もいなかった。皇帝の信用する者が弁護すれば、丁公だって助かった可能性は高い。だから私は君を弁護しようと言っているのだ」

「……では聞くが、信。君はそれほど皇帝の信用が厚いのか?」

 あらためてそう問われてみると、確信はない。韓信は言葉に詰まった。

「…………」

 

「君は、思い違いをしている。皇帝は、機会さえあれば楚を直接支配したいと望んでいるのだ。君のような異姓の王に治めさせることは皇帝にとって苦渋の決断なのだ。それを君はわかっていない」

「……君の言う通りなら、最初から私を楚王などに任じなければよかったではないか」

「鈍いな、君は。もともと斉王だった君から王位を取りあげるわけにはいくまい。不満を持った君が兵を率いて叛乱しては困るからな。……おそらく欲の少ない君は、そんな意志などない、と言うだろう。しかし多欲な者は、寡欲な者の考え方がわからないのだ。皇帝は君が本心を訴えたところでまったく理解できないに違いない」

「……だったら、どうだと言うのだ」

「はっきり言って君は、皇帝にとって厄介な存在だ。考えていることがよくわからない、扱いにくい男として持て余されているのだ。きっと皇帝は君を除きたい、と思っていることだろう」

「…………」

 

「いいか、君がこれまで通り生き続けるためには、少なくとも今の状態を維持し続けなければならない。皇帝が楚を攻め滅ぼそうとしないのは、君の兵力に加え、今私がこの地にいるからだ。皇帝は旧楚の宿将たる私を恐れ、私がこの地にいるうちは、楚に攻め込んだりはしない」

 韓信はこれを聞き、しばらく考え込んだ。目を閉じ、こめかみに指を当て、沈思の表情を作る。

 やがて答えに行き着いた彼は、目を開けて言った。

 

「眛……。私が思うに、皇帝が恐れるのは君ではない。皇帝が恐れているのは……私なのだ。君が楚地にいる、いないはたいした問題ではない。要は私が君を匿っている、そのことが重要なのだ。君の叛乱を恐れているのではなく、私が君を利用して叛乱を起こすことを……彼らは恐れているのだ」

 

 

 韓信の発言は事実を捉えている。

 が、熟考の末に答えにたどり着いた彼は、その答えが鍾離眛にどのような感情をもたらすかを考えることなく、言葉して出してしまった。

 韓信がそのことに気付いたとき、既に眛は怒りの炎を目に宿していた。

 

「信、君は……この私のことを……恐るるにも足らぬ存在だ、と言いたいのか。楚の宿将鍾離眛は、取るに足らない存在だと……」

「いや、そんなつもりで言ったのではない。ただ、皇帝が敵視しているのは君ではなく、私であることを言いたかっただけだ。つまり、私が頭を下げれば、君は許される。皇帝は君を恨んでいるわけではなく、私の武力を恐れているのだ」

「ありあまる能力を持ちながら叛く気概もない奴を、皇帝が恐れるものか!」

 

 鍾離眛は激発こそしなかったが、その言葉には力を込めている。

 韓信はどう彼をなだめるべきか、迷った。

「叛くこと自体を美化するのはよせ。私には、そんなつもりはない。それがなぜかわかるか? 私は今の地位を得るまで、数々の者を失ってきた。常勝将軍だと言われてきたが、失った兵の数は決して少なくない。しかも私が殺してきた敵兵の数は、それ以上なのだ。今私が意趣返しをして叛いたりしたら……彼らの死はすべて無駄となる。なんの意味も成さなくなってしまうのだ」

「さっき君は皇帝の美徳を説明したな。彼は間違った判断に固執しないと。それが本当に美徳だとすれば、君は単なる頑固者だ。過去の間違った行動にとらわれ、これからとるべき行動を改めようとしない」

「……それは皇帝の美徳だ。私のではない。私はそんな美徳を持ち合わせてはいない」

ああ、そうだろうさ! 人は、誰しも正しいと思うからこそ行動に移すのであり、明らかに間違っていると思われる行動は、なかなか出来ないものだ。私だってそうだ」

「…………」

 

「私は、楚に仕えた過去の行動を間違っていたとは思っていない。楚が敗れ、滅びたのは確かだが、だからといって私が間違った行動をとったとは思っていない。聞け! 項王は敗れはしたが、悪人ではなかった。私は悪人に仕えたつもりはまったく無いのだ。……なのに、なぜ私が赦しを請わねばならぬ?」

 項羽は確かに敵に厳しく、残虐な面はあったが、ひとたび情に触れると寛大な態度を示し、身近な者には礼を尽くして接した。

 また、論功行賞の際、あまりに細かく国を切り刻んだことで吝嗇だと評されたりもしたが、これは裏を返せば、できるだけ多くの者に報奨を与えたいと望んだ結果だとも言える。

 義帝(懐王)を弑したことは、確かに間違った行為だったかもしれないが、項羽にとっては正しいことだったのだろう。しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。

 

「誰かが言った。大事を成す者は、一時の屈辱をものともせぬ、と……。眛、君もそうだとは思わないか?」

 韓信は暗に鍾離眛に耐えろ、と言おうとした。

 

 ところがこの言葉も鍾離眛の癇に障った。

「王座にしがみつき、大事を成そうとしているのは、君だろう。私ではない!」

 

「眛! 事態は差し迫っている。私の近侍の者の中には、君の首を皇帝の元に届け、事態の沈静化を目指すべきだ、と言う者もいるのだ。……頼む。私とともに皇帝のもとへ……このとおりだ」

 韓信は床に頭をつけ、ひれ伏した。彼の必死の思いがそうさせたのである。しかし、鍾離眛はそれを受け付けようとしなかった。

 

「斬られた方がましだ」

「なにを言う! 誰が君を斬ると言うんだ。私には、そんなことは出来ない」

 韓信がそう言って目を上げたとき、鍾離眛の剣は既に抜かれていた。

 

 はっとした次の瞬間には、その剣が韓信の頭上に振り下ろされていた。

「やめろ!」

 危うく身を翻して逃れた韓信は、次の攻撃を防ぐために、自らの剣を抜き、構えた。鍾離眛の剣は、それを激しく打ち叩く。

 

「やめないか!」

「信! 受けてばかりいては、私を斬って首だけにすることは出来ないぞ。斬らねば、……私は君を斬る!」

 二度、三度金属音を鳴り響かせ、剣が火花を散らした。鍾離眛は力任せに剣を打ち付け、それを防ぎ続けた韓信は体勢を崩して転倒した。

 

 そして彼の剣は手から離れてしまった。

――しまった、剣が……。

 絶望を感じた韓信の喉元に、眛の剣先が突きつけられた。

「信。……ついに私は、君に勝つことができた」

 

 

 季節は冬で、十二月の寒い中である。屋敷の戸は閉め切られ、寒気が中に入り込まないようにしてあった。このため、室内の音はあまり外に響かない。

 

 また韓信は自室に鍾離眛を呼ぶ際は出来る限り余人を遠ざけ、衛士も通常より離れた場所に配置していたので、彼らが異変に気付かない可能性があった。

 あるいは大声で助けを呼んだ方がいいかとも思われたが、声を出したとたんに殺されることも考えられる。侍従の者たちが機転を利かせて対応してくれることを願った。

 

 その思いが通じたのか、彼らが廊下を走る音が、伝わってきた。助かった、と韓信は思ったが、よく考えてみると彼らを介入させることは、鍾離眛の死を意味する。助けると約束した以上、彼を殺させることは出来ない。

 たとえ自分が死ぬことになっても……韓信は、やはりこの場は二人だけで解決することを望んだ。

「来るな! 来てはならん。もうしばらく、そこにとどまれ」

 

 韓信は顎の下に剣先を突きつけられたままの状態で、大声を発して家令たちを制した。

「……いい判断だ。彼らに私を取り押さえさせないのは……。私が君を斬ることがない、と思ってのことだろう。……事実、その通りだ」

 眛はそう言ったが、剣は引かない。

「斬らないのか……?」

「君はかつて私に高らかに宣言したことがある。そう……相手が私でも自分は構わずに斬る、と。その思いは私も同じだ。いや、同じだった。……しかし、いざとなると旧来の友人を斬ることは出来ないものだな。さしあたり、君に頭を下げさせ、剣技で上回ったことに満足することにしよう」

「助けてくれるのか?」

「ああ。そうだ。おっと! ……まだ動くな。私は……幼き頃から常に……君に勝ちたいと望んできた。常に君より上の立場でいたいと。だが君は……それを昔からわかっていながら、私にそうさせようとはしなかった。子供の頃は学問や剣技で常に私を上回り、長じてからも君は私をはるかにしのぐ武功をたて、ついには王座に就いた。そして、あろうことか……今君は、生意気にも……私を助けようとしている。我慢できることではない。助けるのは、私だ! 君が私を助けるのではなく、私が君を助けるのだ!」

「…………」

 韓信は身動きできない。

 しかもこの時点で彼は、眛がなにを言いたいのか理解できなかった。

 

 眛は続けて言う。

「私の気持ちがわからぬのか? ……まあ、いい。それだけ君は無感覚になった、ということだ。権勢に溺れ、人の気持ちが見えなくなっている。前に君は私に言ったな。目が濁っていると! 私は、その言葉を今君に返そう」

「私の目が濁っているというのか。君になにがわかる。望みもせぬのに人の上に立っている私の立場を、君が理解できると言うのか」

「生意気な口をきくな。助けてやろうというのに」

「……君の手助けを得て皇帝に刃向かう、という考えには同意せんぞ」

「それが最善と思ったのだが……君が納得しないのならば仕方がない。私の首を持って行き、皇帝に媚びるがいい。だが言っておくが、それはほんの一時しのぎに過ぎん。いずれ君は、皇帝に滅ぼされるだろう」

 

――あっ!

 鍾離眛の考えにようやく気付いた韓信は、とっさに彼の行動を止めようとした。

 しかし、一瞬早く眛の剣がその動きを抑え、無言で動くな、と命じる。

 

「信。お前は人が言うほど、すぐれた人物ではない。私の方が……」

 言葉の途中で、眛はそれまで韓信に向けていた剣を自分に振るい、一気に自らの首筋を切った。

 

 血が奔流のように噴き出し、韓信はその返り血にまみれた。

「ああっ! 眛! 眛! ……うう」

 

 しばらくたってから家令や衛士たちが室内をのぞき込んだが、その様子は凄惨な血の海であった。韓信はうずくまり、ぴくりとも動かない。鍾離眛は仰向けに倒れたまま、やはり動かなかった。

 彼らは斬られて血を吹いたのが客人の鍾離眛なのか、あるいは主君の韓信なのか、即座に判断することができなかった。

item16 item16c item16d item17a item18

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら