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第 三 部

 

対 峙 は 続 く ……( 続 き )

 

 

「たしかにその通りかもしれません。しかし、それはいけないことでしょうか。私には、項王を信奉しようが、楚を信奉しようが結果的には同じことのように思われます。もし項王が漢の君主であったとしても、国の名が異なるだけでたいして違いはないかと……」

「その通りだ。だからそう言っているではないか

 韓信は、ここで言葉を切り、頭の中で考えを整理した。

 

「つまり、君は項王が好きだから従っているに過ぎない。本質的には、私も同じだ。私は、項王が好きなわけではないから従わない。それだけのことだ」

 武は目を丸くした。韓信は知将だと聞いていたが、いまの物言いはまるで子供のようではないか。

 

「斉王様は、項王がお嫌いですか」

「いや、そこまでの感情はない。かつて私は項王に何度も諫言したが、項王はそれを少しも聞き入れてくださらなかった。私が彼に仕えないのはこれが最大の理由であって、ことさら項王を嫌っているからではない。好きではないことが即嫌いであるということにはなるまい」

 武渉はうまくかわされたような気がした。しかし、意外に韓信の本音はそこにあるのではないか。

 

「では、斉王様は漢王をお好きなのですか」

 武渉としては自然な質問である。だが韓信はこの問いに対して困ったような表情をあらわした。

「……感謝はしている。漢王は私の策を用い、私自身も登用してくださった。そればかりか、漢王は自分と同じ食べ物を私に勧め、寒いときには自分の着ている服を私に着せ、暑いときには私の汗を拭いてくださった。……漢王には漢王の意図があるのかもしれず、あるいはそういった行為のすべてが私の離反を抑えるためにあったのかもしれない。しかし、私は項王からそのようなもてなしを受けた経験がない。よって私はたとえ情勢が漢の不利にあるとしても、漢の側につくであろう。それが、恩義というものではないか」

 

 恩義を感じていながら、好きだと断言できない苦しい心情がそこに現れていた。だが幸いなことに、武渉には劉邦と韓信の微妙な関係を見出すことができなかったようである。

「さもありましょう……。しかしあなたはいまや単なる漢の一将軍にあらず、一国の王たる身でございます。斉の国民の運命を無視して、不利な漢の側に立つことは、正しいことでございましょうか?」

 

「しかし、あながち漢が不利だとはいえまい。私が漢の側に立つことによって、情勢は逆転するだろう」

 

「……さすがにわかっておられますな! 天下の趨勢は、斉王、あなた様の動きにかかっておるのです。あなたが漢の側に立てば、天下は漢に帰し、楚に立てば、天下は楚に帰すのです。これは斉王様にとっては非常に危険な立場であるといわなくてはなりません。私は、漢王が斉王様の忠節に応えることはないと考えておりますが、斉王様があくまでも漢王に恩義を感じていらっしゃるというのであれば、しつこくは申し上げません。ただ、漢・楚いずれにも属さず、中立を唱えれば、天下は三分され、しばらくの間安寧でしょう。それが知恵者のとるべき行為であろうかと存じます」

 

 武渉は韓信が項羽の側につくことがないことを悟ると、次善の策をとった。つまり、漢に叛かないかわりに、味方もさせない。漢・楚両国の戦いのかやの外に置こうとしたのである。

 韓信自身は武渉の言葉にそれほど深い感銘を受けたわけではなかった。

 しかし、彼の帷幄のなかに、雷鳴に打たれたようにこれに反応した者がひとりいた。

 

 それが、蒯通であった。

 

 

――天下の均衡はこの方の双肩にかかっている。

 

 蒯通は、そう考えた。「この方」とは、他ならぬ斉王韓信のことである。

――この方は、ご自身でそのことに気付いているに違いない。しかし生来の生真面目さから、目を背けようとしておられるのだ。

 

 恩義のある劉邦に叛くことは充分に不遜なことであり、韓信自身の礼節を疑われるような行動である。

 それは蒯通にもわかるが、こと人命に関してはどうであろうか。いまここで韓信が自立し、漢・楚・斉の三国の武力均衡による停戦状態がなれば、長く続いた戦乱の時代は終わりを告げるのである。漢王劉邦も死ななければ、楚王項羽も死ぬことはない。そして彼らの下に従属する何十万もの兵士、さらにはそれの何十倍もの国民の命が失われることがないのだ。

 

――決断させるべきだ。

 そう考えた蒯通は、楚の使者の武渉が帰った後、韓信に近づき、こう話したという。

「手前は若いころに、人相を見る術を学んだことがございます」

 

 韓信には、蒯通がなにを言おうとしているのか、よくわからなかった。しかしまわりくどい蒯通の話法にはすでに通じていたので、この時もなにか言いたいことがあるのだろうと思い、話に付き合うことにした。

 いつもであれば、韓信は蒯通に「単純明快に話せ」と言ったことだろう。そうしなかったのは韓信の心に少なからず迷いがある証拠であった。

 

――説得できるかもしれぬ。

 蒯通は心を励まし、言葉を継いだ。

 

「身分の高下は骨相にあり、心の憂い喜びは容貌にあり、成功失敗は決断にございます。これらを参酌すれば、たいていのことは見通せるものでございます」

「……そうか。では蒯先生には私のことがどう見えるのであろうか」

 韓信がこう聞いたのは単なる興味本位である。しかし蒯通は深刻な面持ちを浮かべ、静かに言った。

 

「どうか大王……お人払いを」

 韓信はその様子に驚き、なにかまた蒯通が不遜なことを言い出すのではないかと勘ぐったが、やがて周囲に向かって言い放った。

「左右の者。席を外せ」

 

 そばに控えていた蘭は心配そうな目をしてこちらを見ていたが、韓信は彼女にも言い渡した。

「蘭、君もだ。……蒯先生が内密の話があるらしい」

 蘭は終始無言で、それでも何かを言いたげな表情を浮かべていたのが韓信にはわかった。しかし、臣下の手前上、韓信は蘭に発言を許さず、他の大勢と同様に退出させた。

 蒯通にとって、この場で最も邪魔な存在が常に韓信の判断に賛意を示す魏蘭であったが、とりあえずはうまく彼女を遠ざけることができたのである。

 

「……さて、私が大王のお顔を拝見する限りでは、その位はせいぜい封侯どまりですな。しかも危険で安穏としていません」

「ほう……」

「しかし、尊いのは大王の背中の方でございます」

! 背中に吉兆……それはいったいどういうことか」

 

 蒯通は説明を始めた。

「いま、楚・漢の両王の運命は、大王の手に握られております。大王が漢につけば漢が勝ち、反対に楚につけば楚が勝つでしょう。私が見るに……大王はどちらについても、最後には破滅を迎えます。漢が楚に勝てば、漢は次に斉を滅ぼします。楚が漢に勝てば楚は次に斉を滅ぼします」

「……本気で言っているのか。蒯先生は、楚の使者の言うことが正しいと思っているのか」

「私が思っているのではありません。単に人相を観た結果を申しているのです。しかし、あえて個人的な感想を付け加えるとすれば、観相は正しい結論を導きだした、と思っております」

「……続けたまえ」

「……大王のとるべき道は、楚・漢の両者を利用し、どちらも存立させ、天下を三分することです。鼎(かなえ・金属製の鍋・釜に似た器で、古来より王権の象徴とされる)が三本の脚で安定して立つかの如く、天下に三つの国を存立させることで安定をもたらすのです。お分かりでしょうが、三本の脚のどれかひとつでも失われると、鼎は倒れます。よって、この状況では先に行動を起こしてはなりません」

「三者鼎立……それでは蒯先生は事実上漢王を見捨てろと申すのか?」

 

 蒯通はこの韓信の問いに当時流行した諺を用いて返答した。

「天の与えを取らざれば、かえってその咎を受ける、時の至るに行わざれば、かえってそのわざわいを受ける、と申すではありませんか」

 

 機会を得ながら行動を起こさなければ、待ち受けるものは破滅である、ということであった。

 

 韓信は、否定したかった。しかし、蒯通が言いたいことは不本意ながら彼には理解できるのである。そのため、韓信は蒯通が離反を使嗾していることを知り、それをけしからぬことだと思いつつも、断罪することはできなかった。

 

 

「武渉にも言ったことだが」

 

 韓信は蒯通が本気であると感じ、膝を交えてとことん話し合うと決めた。いつぞやのように賭けなどをして曖昧な結果に終わることは、避けなければならない。二人の話し合いは二人だけの問題ではなく、国の方針に関わることを思えば、当然であろう。

「……漢王は私を優遇してくださる。ある時はご自分の車に私を乗せ、またある時はご自分の食べ物を自らの手で私によそってくださった。それだけではない……漢王はご自分の衣服を私に着せてくださったこともあるくらいだ」

 

「漢王には漢王のお考えがあってのことでしょう。漢王は、要するにあなたに仕事をさせたがっているのです。自分のために敵を殺せと。自分が行く道を掃き清めろと。つまり……すべて自分のためです」

 

 あろうことか、蒯通はあからさまに漢王を誹謗してのけた。韓信はその事実に内心で愕然としたが、それに逆上して斬る気にはならない。彼は彼なりの表現で、自分を評価してくれているのだ。

「そうかもしれない。しかし、私は楚の項王のもとにいた時、身分は宮中の護衛でしかなかった。話はなにも聞いてもらえず、あの頃の私は鬱屈していた。そんな自分をここまで取り立て、育ててくれたのは、ほかでもない漢王なのだ」

「…………」

「私は聞いたことがある。人の車に乗った者は、その人の心配事を背負い、人の衣服を着た者は、その人の悩みを抱き、人の食事を食べた者は、その人のために死ぬ、と。これはすべて……私に当てはまる。私は一時の利益や打算に心を奪われ、欲しいままに振る舞ってよいものだろうか。道義に背きはしないか」

 

 蒯通は韓信のこの言葉を聞き、気の抜けたような溜息を漏らした。あきれて物も言えない、と言わんばかりである。

「大王。どうか……小事に拘られますな。きっとあなたはご自身では漢王に親しみを信じ、それによって遠い子孫の代までの安泰を望んでいるのでしょう。しかしおそれながら……私はそれは間違いだと思っております」

「……どういうことだ」

「ごく最近の話からすれば、そう、張耳と陳余の話がいいでしょう。かの二人は平民であった頃、互いに死を誓い合った関係でございました」

「ふむ」

「張耳は陳余に追われ、漢王のもとに走り、漢王は兵を貸し与えて張耳に陳余を討たせた。この時の貸し与えた兵というのが、大王、あなたのことです」

「そのとおりだ」

「結果、陳余の首と体は離ればなれになり、彼らの刎頸の交わりは偽りに満ちたものとして、天下の物笑いの種となったのです。しかし、私は趙にもいたことがありますのでよく存じているのです。あの二人の仲の良さは、天下広しといえども最高のものでした。それがこのような結果に終わったのはなぜか」

「なぜだ

「わざわいは過度の欲望から生まれ、なおかつ人の心は一定せず、常にうつろうものであるからです」

 

 陳余が張耳を除き、王になりたいと願った結果、張耳はそれを阻止しようとし、結果的に陳余は滅んだ。陳余の欲、張耳の欲から生まれた悲劇である。

 そして実際に陳余を滅ぼしたのは、韓信自身であった。人は欲に取り付かれると友情もたやすく投げうち、定見のない行動をとるようになる典型的な例である。

 

「ううむ……感じるものはあるが、しかし私が漢王との誼を捨てて覇道に走ったとしたら、同じ結果を生むことになりはしないか。大いなる欲の前に小さな友誼などは信用ならぬものだと言いたいのはわかるが……」

「大王が誼を大事になさっても、漢王がそれを重視するとは限りません。それを言いたいのです……納得なさらぬ様子ですな。では、もうひとつ、少し昔の話をいたしましょう」

「まだ、あるのか」

「このような例はいくらでもございます。数え上げればきりがありませんが、なるべく分かりやすい話を……。春秋の世における、越(えつ)国の話がよいでしょう。越は呉に破れてほとんど滅亡しましたが、越王勾践(こうせん)は数々の屈辱を経ながら国を復興させ、ついには呉を滅亡させるに至りました。そのとき越王を補佐したのが、文種(ぶんしゅ)范蠡(はんれい)という人物です」

「知っている。文種は治において、范蠡は武において勾践を補佐し、覇者たらしめた。しかし文種はある種の讒言が原因で自害を強要され、范蠡は勾践の性格に危険を察知し、事前に斉に逃亡した、という話だろう」

「然り。この二人は越王とともに苦難の時代を生き、その忠誠度は並外れたものでありました。しかし覇者となった勾践は文種に死を命じ、范蠡は半ば追放されるように国を去るに至りました。そのとき范蠡がなんと言ったか」

「それも知っている。『野の兎が死ねば猟犬は煮て食われてしまい、飛ぶ鳥がいなくなれば良い弓はしまわれてしまう』と言った」

「そのとおり。以前にも私は大王に似たようなことを申しました」

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「覚えている……。あのとき私は君のことを、ひどく不遜なことを申す奴だ、と思ったものだ。だがやはり……いまでもその印象は変わらないな」

「申し訳ございません。しかし、よくお考えを。大王と漢王の友誼は、、張耳と陳余のそれ以上であったか。あるいは君臣が互いに信頼し合うこと、文種・范蠡と勾践以上であったか。おそれながら私は、いずれも及ばないと思っております」

「…………」

「大王、あなたは人臣の身分でありながら、君主を震え上がらせるほどの威力を持ち、名声は天下に鳴り響いております。輝かしい経歴であることは確かですが、私は心配でなりません」

「うう……蒯先生……今日はもうその辺にしていただこう。私もよく考えてみるゆえ……」

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