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第 三 部

 

対 峙 の 果 て に ……( 続 き )

 

 

 無理を押して関中の父老の前に姿を現したのが功を奏したのか、広武山に陣する劉邦の軍に関中から多くの子弟が兵として補充された。

 その模様は谷向こうに陣する項羽の目にも留まる。首領が矢に倒されたにも関わらず、漢が軍行動を止めようとしないことに項羽は苛立ち、対応に苦慮した。

 

――漢との戦いはひとまずおき、後背の韓信や彭越を先に処理すべきだ。

 項羽はそう思ったが、どうしても行動に移せない。劉邦に傷を負わせ、漢を追いつめている自分が、相手に停戦を求めるなど不自然だと考えたのである。自身の矜持が許さないのであった。

 

 しかし、項羽にとって幸運であったのは、漢が兵力を増強したにもかかわらず、和睦の意志を楚に示したことである。項羽にとっては渡りに船であったことは確かだが、もちろんこれは偶然ではなく、楚がそれほどまでに漢を追いつめた結果であった。行為の善悪は抜きにして、項羽としては努力が実ったことに違いはない。

 だが、政策面でもしたたかな面をみせる項羽は、漢から派遣された和睦の使者を一度、追い払った。

 陸賈(りくか)という名のこの使者は、儒者であり、話術も巧みで教養もある男であったそれでも説得に失敗したということは、おそらくは条件面で折り合いがつかなかった、ということであろう。

 漢側が停戦を条件に劉太公と呂氏の返還を求めたのに対し、項羽は納得がいかなかった。わざわざ停戦してやるのに、こちらにはなんの見返りも保証もないとは、どういうことか。

 

 そう考えた項羽は陸賈を一喝した。

「出直してこい」

 

 あらためて使者として選ばれたのは、侯公(こうこう)という人物である。

 この男が鴻溝(こうこう)という広武山よりわずか東の土地を境に天下を二分することを提案し、受け入れられることになった。

 鴻溝より東が楚であり、西が漢である。

 これにより項羽は領地として梁を保有し、漢は関中・巴蜀のほか韓や西魏は保有するものの、それ以上の東進は阻まれたことになる。しかし、この和睦により劉太公と呂氏は解放され、漢兵はみなこれを歓迎し、万歳を唱えた。長く続いた対陣は終わりを告げたのである。

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 このとき使者として実績をあげた侯公は、その褒美として封地を与えられ、平国君という尊称を送られた。

 が、その後どういうわけか逐電してしまっている。

 実はこの人物は周囲からあまり信用を得ていたわけではなく、行く先々で国を傾ける、と警戒されていたという。彼に送られた「平国」君という尊称は、「傾国」の反対語であることから、この人物に対する劉邦や漢の首脳部の警戒感がよほどのものだったことがうかがわれる。

 こうなると史実では逐電したことになっているが、あるいは暗殺されたとも考えられる。しかし、実際に侯公がどのような人物であったかは記録に残されてはおらず、真実は定かではない。

 

 ともかくも項羽は広武山の陣営を払い、東に向けて退却を開始した。奇策によって劉邦を傷つけ、優位に立った楚軍であったが、実情は軍糧に事欠き、苦しい立場であったことは確かであった。

 この和睦を誰よりも喜んだのは項羽であっただろう。一様に万歳を唱える漢軍に対し、撤退する楚軍の姿の方が全体的に消耗しているように見えたことは、それを象徴するかのようであった。

 

 去り行く楚兵たちの姿を眺め、劉邦は安堵の溜息を漏らした。

――これで、しばらくは……。

 

 疲れていた。毎日のように続く緊張が体力を消耗し、胸の傷はなかなか完治しようとしない。劉邦にとって地獄のような日々であった。しかし、それも終わりを告げようとしている。

 

 だが、寝所に入ってひと休みしようと考えた劉邦の前に、表情をこわばらせた張良が立ちはだかった。劉邦はなにか予想していなかった事態でも発生したのかと心配し、立ち止まった。

 

「子房……」

「大王……機会はいましかありません。楚軍を追い、後ろから討つのです」

「なに! ……しかし、和睦が」

 

 張良のもともと青白かった顔が紅潮している。どうやら自分の策に興奮の色を抑えきれないらしかった。

「ええ、ええ! 和睦は確かに成りました。しかし、そんなことはもうどうでもよろしい。とにかく楚を撃ち破るのはいまが絶好の機会です。これを逃せば、漢は滅びます!」

 

 張良は感情的な男ではないが、このときは激しく主張し、劉邦はその勢いにのまれ、この策を容れた。漢軍は広武山からひそかに出撃し、楚軍の追撃を開始することになる。

 

 陳勝・呉広の蜂起から端を発し、長く続いた楚・漢の抗争は、この時点より最終局面に入った。

 

 

 灌嬰は漢の歴戦の武将であったが、年は若い。もともと諸国を渡り歩いて絹を売り歩く商人で、そのおかげか馬の扱いに慣れ、商売人上がりらしく、機を見て判断を素早く下す技術に長けていた。彼の戦は速戦即決、疾風の如き速さが特徴である。

 

 京・索の戦いを機に、旧秦の名高い騎士たちを従えることとなり、彼の軍はその速度にさらに磨きをかけた。このころから彼は「騎将灌嬰」と敬意をこめて呼ばれることとなる。

 

 そのような灌嬰であったので、当然ながら劉邦を始めとする漢の首脳部の信用はあつい。しかし残念ながら彼には政治的影響力がなかった。

 自己顕示欲が少なかったのかもしれず、あるいは生来政治的なものの考え方が苦手だったのかもしれないが、いずれにしても彼が尊重されるのは軍事の面に限ってのことである。このことから、灌嬰は非常に実務に長けた人物で、構想力を自慢としていたとはいえず、その点では韓信に似ていなくもない、と言えそうである。

 

 その灌嬰は、韓信が斉を制圧すると、もっぱら楚との国境付近の防衛にあたり、斉の残党や混乱に乗じて侵入をはかる楚軍を相手に粉骨砕身の働きぶりをみせた。その戦いぶりに韓信が信用をおいたことはいうまでもない。

 

 しかし、最近は様相が少し変わってきている。これまでは防御が主な任務だったのに対し、近ごろは小規模ながら積極的に楚の補給路を断つような命令を受けるのである。さらには命令を発する韓信が自ら姿を現し、共に戦うことも多くなった。

 

――斉王の心の迷いが、晴れたのだ。

 灌嬰はそう思い、この事態を歓迎した。それもそのはず、彼は戦略上、韓信配下の斉軍に所属してはいるが、もともと漢の将軍なのである。それも重鎮であるといって差し支えない立場であった。その彼にとって韓信が楚の使者を迎え入れたり、幕僚の意見を真に受けて自立を企むことは、望むべき事態ではない。

 

「灌嬰将軍。そろそろ大規模な遠征があるかもしれぬ。心構えをしっかりとしておけよ。もっとも……君なら大丈夫なことと思っているが」

 

 このとき、韓信は灌嬰に向かってこのような内容のことを言った。灌嬰はこれに対し、

「大規模な遠征……それは、どの国を相手にするのでしょうか?」

 と質問したという

 捉えようによってはきわどい内容であったかもしれないが、灌嬰には嫌味を言ったつもりはない。むしろ冗談めかして近ごろの韓信の気の迷いを茶化したのである。

 彼にとって韓信は王としては話しやすい相手だったのである。

 

「そういじめるな。もちろん相手は楚だ。……しかも今度は項王と直接相対することになるだろう。だから心しろ、といっているのだ」

「そうですか。いよいよ……。いや、私は相手が漢だとしても、戦いますぞ。斉王とともに」

 

 韓信はこの言葉を聞いて笑いながら言ったという。

「君のその言葉はうれしい。しかし、くれぐれも他人のいる前でそんなことを言ってくれるなよ。君も知っていることと思うが……私の立場は依然、微妙なままなのだ」

 灌嬰はそれを聞き、苦笑いしながら答えた。

「ええ、知っています。しかし、斉王。あなたが楚を討つとお決めになられたことには、内心ほっとしているんです仮に自立するとして……私はあなたと行動を共にするつもりではおりますが……ことが成功すればよいが、失敗したら私どもは逆賊の汚名を着ることになる。できることなら、そんなことは避けたいですから」

 

 灌嬰の言葉は、この当時の忠誠心というものがどういうものか、如実に示している。

 人は国や制度ではなく、人に対してのみ忠節を尽くす。美しい精神である。しかし、結果的にこの精神が延々と続く無秩序を生んだと言えるだろう。理念より憧れでこの時代の人々は行動したのだ。

 

「漢王の忠実なる臣下たる君が、軽々しくそんなことを言うべきではない。……君に妙な気をおこさせないためにも、私はここで断言しておくべきだな。斉王韓信も、やはり漢王の忠実なる臣下である、と」

 この時の韓信の表情には、曇りがなかった。

 灌嬰はそれを認め、

「よかった。これで前面の敵に意識を集中できる、というものです」

と心から安堵したような顔で答えた。

 

 韓信の軍は、常勝の軍である。彼らは、負けたことがなかった。ただし、それがゆえに負けるのは想像できないほどに恐ろしいのである。

 そのため、韓信に従う兵たちは、自分たちの首領が無用な、意味のない戦いをすることを望まなかった。灌嬰はそのような兵たちの気持ちを代表して述べたと同時に、自分自身の強い思いを言い表したようである。

 

 韓信には、それが痛いほどよくわかる。自分の気の迷いが、恥ずかしくなるほどであった。

 

 

「話は変わるが、兵たちは、君の言うことをよく聞くか?」

 

 韓信の質問は唐突ではあったが、灌嬰には彼がなにを言いたいのかよくわかった。

「旧来の漢の兵たちは問題ありません。しかし、新たに加わった斉兵はどうも……彼らは反抗こそしませんが……どう表現すればいいのでしょう……熱心さが足りないように感じられます」

「ふむ。そうだろうな。無理もないことだ」

 征服された斉の兵士たちは、いうまでもなく捕虜である。しかし、この時代の捕虜に人権は認められない。被征服者の兵は、征服者の兵として戦うことを強要されるのだった。彼らが自分たちの主義主張を態度で示すことは、禁じられていたわけではないが、現実的に難しい。我を通して旧主への忠誠を示そうとすれば、征服者によって惨殺されるのが関の山なのである。

 

 よって、軍は勝つたびに新参者の兵が増え、膨張していくことになるのだが、それら新参の兵を心服させることは、征服者にとって重要な課題のひとつである。彼らが反乱などを起こさないにしても、常に命令に対して消極的な態度で臨むようであれば、軍全体の士気が低下していくのは目に見えていた。

 ましていま韓信が問題にしているのは、一癖も二癖もある斉人なのである。彼らの国民性を思えば、自分の目の届かないところに、しかも国境の最前線に彼らを配置するのは危険が大きすぎたのだった

 

「軍の編成を新たにし、君の部隊は漢兵を主体としよう。斉兵は私が引き受けて臨淄に連れて帰ることとする。構わないな?」

 灌嬰に異存はなかったが、斉人を斉に帰す、というのは多少不安に感じられた。小規模なものといっても、ひとたび戦闘ともなれば、多少なりとも味方に戦死者は発生する。灌嬰は、残酷なようではあるが、斉人にもっとも死の危険が高い任務を与え続けてきた。

 

――どうせ失う兵であれば、斉人に死んでもらおう。

 彼ら斉人が故郷に帰れば、旧知の人物たちと謀略を企み、よからぬ行動を起こすかもしれない。それを思えば、前線で死んでもらった方がよい、と考えたのであった。

 しかし、国を統治することを考えれば、それではいけないのかもしれない。斉人を捨て駒にし続けることは、彼らに不服従の精神を植え付けることになり、反乱の種をまくことなのかもしれない。

 灌嬰はそう考え、不安に感じたものの、韓信の能力を信じ、同意した。

 

「私には、一抹の不安がございますが……それでも斉王のご判断は正しいと思われます。あなたにならば、なにかと問題の多い斉人でも従う者は多いでしょう。そして斉は次第に安泰な強国へと育っていくはずだ」

 

 これを聞き、韓信は気恥ずかしそうな顔をして言った。

「私にそのような徳はない。げんに国政はほとんど曹参に任せきりにしているくらいだ。軍事以外になんの取り柄もない私に残された仕事は、前線の視察くらいさ。……まあ、暇つぶしのようなものだ」

「そうでしょうか? おそれながら漢の将軍である私でさえあなたには従っているのです。どうして斉人が従わないことがありましょう。どうか自信をお持ちください。……そして、斉国の安泰を望むのであれば、早めに王妃を迎え、後継者をお決めになることです」

 

 韓信は灌嬰の言葉に目を白黒させながら答えた。

「王妃……後継者……。将軍、私は確かに王として斉国の安泰を願ってはいるが、斉の国王であることは私の人生の最終目標ではない。私は、漢が楚に勝った暁には斉国を漢王に献上するつもりなのだ」

 

 灌嬰は韓信のこの言葉に驚いた様子であったが、すぐに態度を改め、茶化した態度で反論した。

「仮に斉王がそのようなことをなさっても、漢王がお許しになるはずがないでしょう。引続き斉の国政を見よ、と命じられるはずです。斉王の人生の最終目標がなにかは存じませぬが、諦めて王妃を迎えることです」

「……はたして漢王はそのような命令を下すだろうか。私としては確信が持てないうちは王妃を迎えようという気にもならない。そして、私自身漢王からそのような命令を下されることを望んでいないのだ」

「そのようなことを! いまの言葉を聞けば、魏蘭は悲しみますぞ!」

 

――そんなことはない。そんなことはないのだ、灌嬰……。

 灌嬰は韓信と魏蘭の二人の夢を知らない。

 知らないがゆえのおせっかいな発言であったが、韓信はそれを腹立たしく感じたりはしなかった。まだ自分の周囲には、自分のことを思い、意見してくれる者が存在する。自分がそれに応えられるかは別問題として、韓信はそのことが嬉しかったのだった。

 

 灌嬰と別れた韓信は、その言葉のとおり前線の斉兵たちを引き連れて臨淄に戻った。しかし、このことがのちに悲劇を生むことになる。

 

 灌嬰の不安は、やはり正しいものであった。

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