NEW

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら

item8 item9 item4a item11 item12 item13 item10
第 三 部

 

対 峙 の 果 て に ……

 

 

 広武山に陣する項羽のもとに、武渉が韓信の説得に失敗した知らせが入った。

「韓信は、わしに味方せぬ、ということか。さもあろう」

 傍らに控える鍾離眛は、思案を巡らせては見たものの、良い案も浮かばず、押し黙っていた。

 

「味方でない者は、敵である。敵は滅ぼすもの。……韓信を、斉を攻撃せよ」

 

――やはり、こうなるのか。

 項羽の命令を聞き、眛は嘆息した。項王の思考は単純すぎる。今この状況で、これ以上兵を割くわけにいかないことがわからないのか。

 

「漢との対立が長引き、軍糧も不足している今、斉を攻撃する余裕はございませぬ」

 眛はそう言って再考を促した。配下の将軍に過ぎない立場の自分としては行き過ぎた言動である。しかし、それをわかっていながら言わずにはいられない眛であった。

 

「彭城の兵を北へ差し向け、斉の動きを牽制するのだ。韓信をここへ来させてはならん」

「しかし、韓信の動きに気を取られ、彭城の守備が手薄になれば、西の彭越、南の黥布に行動の自由を許すこととなります。奴らはこれ幸いとばかりに彭城へなだれ込むでしょう」

 

 これが漢の軍略の妙であった。項羽が目前の劉邦率いる本隊にばかり気を取られている間に、別働隊が諸地方を制圧し、いつの間にか楚を取り囲む。眛にはその軍略が完成の時を迎えているかのように思えた。

「その時は、以前のようにわしが兵を返し、彭城を奪還する。まして今、劉邦は倒れた。死んだかどうかは定かではないが、傷つき動けないことは確かだ。漢に最後の一撃を加えてこれを殲滅し、疾風のごとき早さで彭城に帰る。できぬことはない。なにを思い煩うか」

 

 このときの項羽の表情は、いつもの激情家のそれではなく、傷つけられた少年のようなものだった。眛は項羽に対して、韓信の懐柔を諦めるべきではないと言いたかったのだが、結局その表情を見てなにも言うことができなかった。

――項王は本来、武の人である。考えてみれば、その項王がかつて自分のもとを去った韓信に、頼んでまで戻ってきてもらう立場をよしとするはずがない。……思えば、悲しいものよ……。項王や漢王、韓信らの戦いは、天下の命運を左右する……しかし、同時にそれは単なる男の意地のぶつかり合いに過ぎぬかもしれぬのだ。

 

 眛は立ち去っていく項羽の背中を見つめながら、そんなことを思うのであった。

 

 居室に戻った項羽を、ひとりの若く、美しい女性が出迎えた。

 しかし彼女は、項羽の姿を見ても、型にはまった挨拶の口上などは述べたりしない。ただ、にこりと微笑んでうやうやしく頭を下げるだけである。

 

「やあ……待っていたのか」

 項羽の言葉に女性は、微笑みながらこくりと頷き、恥ずかしそうに下を向いた。それを見ると項羽は、なんとも表現しようのない幸福感に満たされるのである。

 

「お酒を……いま、お持ちいたします」

 そう言って立ち上がった女性の姿は、驚くほど細い。巨漢の項羽と並べると、ひとすじの糸のようであり、見るからに繊細な、壊れやすい細工品のようであった。

 

 項羽は、繊細なものが好みであった。自分が支えてやらなければ存在できぬもの、余計な理屈抜きで自分に庇護を求めるもの、自分を愛してくれるものを無条件で愛した。

 

 この女性はその典型であり、名を虞(ぐ)といった。

 

 項羽は虞に対して、たまに天下の動静の話をする。このときも、

「劉邦は倒れ、もう少しで漢は滅ぶ。そうすればわしは東に走り、斉の韓信を討つだろう。それで天下の趨勢はほぼ定まる」

 などと話したが、虞はこれに対し、やはり微笑みを返すだけであった。

 項羽が虞を愛する理由は、この邪心のない微笑みだけで充分であった。

 

 虞の手から注がれる酒を受けながら、項羽は考える。

――なぜ、世の人々は、この女のようにわしのことを受け入れることができぬのか。わしを愛せば、わしはその愛を裏切りはしない、というのに……。

 

 驚くことに、暴虐を謳われた項羽は、自分のことを愛されるべき人間だと信じていたのである。貴族として生まれた者に特有の考え方であろうか。

 

 しかし、実際に彼は、自分の庇護の下にある者の信頼を裏切ろうとしたことはない。

 かつて韓信は項羽のことを自分の部下に対して吝嗇な男だと評したことがあったが、事実そうであったかは、疑わしい。要するに項羽の寵愛の度合いが低い者にとっては、自分に対する扱いが他者に比べてぞんざいなものに思えるだけであって、この種の批判の矛先は、項羽に限るものではない。

 

――わしをけちな男だと評するのは、わしの愛を受けるべき資格を持たぬ奴らばかりだ。……そして、そのような奴らはいまに滅びる。

item2

 項羽は平素そのようなことを考えていたが、このとき夕日の赤い光を浴びた虞の神々しいほどの美しさを見ると、それは確信となっていった。

 

――わしを愛するこの虞の美しさは、どうだ。まるで神のようだ。神が滅びることなどあり得ぬ。

 

 その思いが、神でさえ自分を愛するというのに、自分を愛さぬ者が滅びぬはずがない、という思いに転じた。

 

――劉邦は、あのまま死ぬに違いない。

 項羽には自分を愛さない者の末路が見えたような気がした。

 

 

 胸に当たった矢は突き刺さり、非常に強い衝撃を劉邦に与えた。さらにその衝撃によって劉邦は転倒し、頭を打ち、気を失った。

 

 どれほどの時が経ったのだろう。劉邦が再び目を開けたときには、谷の向こうに項羽の姿はなく、岩場に一人きりで立っていたはずの自分のまわりには、張良や陳平などの幹部たちが輪をなしていた。

 

「お気付きになられたぞ!」

 周囲の男たちは口々に劉邦の無事を祝い、喜びの声をあげた。劉邦は、うつろな意識ではあったが、それが腹立たしく感じられた。

 

――痛い……なんという痛みだ。こいつらはなにがそんなに嬉しいのか。人の痛みも知らず……。

 しかしその思いは、自分にも当てはまる。劉邦は数々の部下の死によって、現在の地位を保っているのだった。

 実際に矢傷を受けた痛みを体感した彼は、自分のためにこれに倍する痛みを感じながら死んでいった者たちの苦しみにはじめて思いを馳せることになった。

 

――紀信や周苛を始めとして、わしに命を捧げてくれた者は、数多い。その中には名も知らぬ者も多いが……どうして彼らがわしのために死んでくれたのか……謎だ! しかし、ひとつはっきりしているのは、いまわしがこのまま死んでしまっては、彼らの死をかけた努力がすべて無に帰す、ということだろう。

 

 そう考えた劉邦は、痛みを振り払って起き上がり、座った姿勢をとったかと思うと、一気に突き刺さった矢を引き抜いた。それに伴って多少血が吹き出たが、意に介した表情は見せない。

 しかし、顔色は青白く、額には脂汗が浮かび、誰の目にも憔悴していることは明らかだった。

 

「……お前らのその顔はなんだ! ……わしは死んでおらぬ」

 剛胆な口調で言い放った劉邦は、なにを思ったかしきりに右足の親指のあたりをさすり始めた。

「よいか。わしが射抜かれたのは、足の指だ。兵たちに胸を射たれたと悟られてはならぬ」

 

 自分が射たれたことによって兵の士気が低下することを恐れた劉邦は、痛みに耐え、張良の介添えのもと陣頭に立ち、士卒に自分の無事な姿を見せて回ったという。

 

 しかし無理がたたったのか、傷口が開いた。まともに立っていることも困難になった劉邦は一時成皋へ引き下がり、療養することになった。

 これにより漢の上層部の意志は、次第に講和を目指す方向へ流れ始めたのである。

 

 胸の傷は深かったが、それでも思っていたより早く治癒の兆しが見え始めた。しかし、問題なのは心の方である。「足を射たれた」と虚勢を張ってみせたとしても、自分自身に嘘をつき通すのは難しい。劉邦はこのとき、自分の傷ついた心を癒すのに苦労した。

 

 劉邦は体力がある程度回復すると、逃げるように関中に戻ってしまった。

 

 丞相の蕭何は、劉邦が突然帰還したので、目を丸くして驚きをあらわした。

「お怪我をされたと聞きましたが、もう出歩いておられるとは……お体の具合は大丈夫なのですか」

 蕭何は劉邦に尋ねたが、劉邦の返事は素っ気ない。

「体など、もうよい」

 

 蕭何は重ねて聞く。

「どうなされたというのです」

 劉邦は、これに対し返事をしなかった。

――もう、やめだ。

 

「おつらそうでございますな」

「蕭何」

「はい」

「……長いこと戦ってきて、わしは、ようやくわかった。わしはどうあがいても項羽には勝てぬ。お前は知恵も回る男だから、わしのかわりも務まるだろう。明日からお前が王だ。いや、今日、いまからでも構わない」

「……本気でおっしゃっておられるのですか」

「本気だ」

 

「残念ながら私は軍事のことはどうも苦手でございまして……恐れながら、辞退申し上げます。しかし、大王があくまで王座を退くというのであれば、かわりにひとり適任の者を推挙いたします」

「誰だ? ……いや、言うな。答えはわかっている」

「韓信を推挙いたします」

「……言うな、と言っているのに!」

 

「ご不満ですか」

「……あいつは駄目だ」

「理由をお聞かせ願いますか?」

「あいつは……自分に対して厳しい男だ。それに真面目な男だし、頭もいいときている。しかし、だからこそあいつは、他人の弱さや、あるいはだらしなさや奔放さを許さないに違いない。あいつの治める国は秦以上にがちがちの管理社会になるだろうよ。臣下や民衆は暮らしにくくなるはずだ」

「そうでしょうか」

「そうに決まっている」

「ならば、あきらめてご自分で国を治めていただくしかありませぬな。韓信が駄目な以上、大王にやっていただくしかありませぬ。大丈夫、やれますよ」

 

 蕭何は気分の落ち込んだ劉邦をなだめたりすかしたりして、機嫌を取りつづけた。そして渋る劉邦を無理に誘い、関中の父老たちに会わせ、酒宴をさせたりした。そこで父老たちに激励された劉邦は、結局広武山に戻ることとなる。

 

 劉邦が関中に滞在したのは、たった四日間に過ぎなかった。劉邦にとって、自らの傷心を慰めるには短すぎる期間であったに違いない。

 

 

――なぜ、あれしきのことで……。

 

 韓信には蒯通が狂人を装った際に、どうして自分が落涙したのか、よくわからない。

 見捨てられた、と思ったのか。それとも蒯通をそこまで追い込んだ自分が許せなかったのか。

 

「私は、本当に気がおかしくなられたのか、と思いました」

 蘭はそう言って、口をつぐんだ。韓信は、自分がなぜ泣いたのか不明であったが、それ以上になぜ蘭が泣いたのかが、よくわからない。

 

「蒯通さまは……ずるいお方です」

 韓信がそのことを問いただしても、蘭はそれ以上言おうとしない。

 

 言えば、蒯通を誹謗することになる。自分が言えば、韓信は本気で蒯通を斬ろうとするかもしれない。蘭は、そのようなことは避けたい、と考えた。

 

「……私は、若い頃から決断力に乏しく、師からよく嘆かれたものだ」

 口を閉ざす蘭を相手に、韓信は切り口を変えて会話を続けようとした。

 ちなみに韓信がいう師とは、栽荘先生のことを指すのであって、劉邦や項羽、あるいは項梁などの上官を指すのではない。

「師がおられたのですか? 初耳です」

 蘭は興味を覚えたようだった。

 

「私は幼いころに両親をなくし、みなしごとなった。その人は私の師であると同時に、親代わりでもあった。しかし、それはともかく」

 韓信には栽荘先生にまつわる話をする気は無いようで、内心蘭は拍子抜けしたが、まさか話の腰を折るわけにもいかない。

 自分と韓信の関係は恋人以上であると自負していたが、それ以前に王と臣下なのである。臣下である以上、忠実でありたいし、主君の前では実直でありたかったので、あれやこれやと詮索するべきではない。だが、未来には昔話をする機会も訪れるだろう。

 

「蒯先生の策には、注目すべき点がいくつかあったが、基本的に私は実現不可能だと考えていた。にもかかわらず、私はそれを蒯先生に伝えることができず、結果的に彼は逃亡した。彼は死んではいないが、私が彼を失ったことには変わりがない。カムジンや酈生などと同じように……私はなにがいけなかったのだろう?」

「まず、将軍がなぜ実現不可能だとお思いになったか、お聞かせください」

「ああ……」

 韓信は、話し始めた。

 

「私の勢力範囲は、趙・燕を含めれば、確かに漢・楚に対抗できるものである。蒯先生の持論はこれら三者の武力均衡によって、天下に安定をもたらす、というものであった」

「はい」

「しかし、天下に存在する勢力はこれら三国だけが絶対的なものかというと、実のところそうではない。梁の彭越や淮南の黥布が黙って見ているはずがないのだ。私が自立すれば、彼らも同様の動きを見せるのは、自然な成り行きだ」

「将軍が自立すれば、彼らも漢から独立すると……? でも将軍の勢力範囲と彼らのそれには、格段の違いがありましょう」

「確かにそうだ。だが、三国の武力均衡で天下の安定を目指すからには、四国めや五国めがあってはならない。彼らの動き次第で、武力の均衡が崩れるから……。たとえば、私が彼らと同盟を結んだとすれば、その勢いは漢を上回り、楚を上回ることになるだろう。そうすれば漢と楚は手を結び、ともに私を滅ぼそうとするに違いない」

「! 項王と漢王が手を結ぶことが、あるのでしょうか」

「……項王からそれを言い出すことはないかもしれない。しかし、漢王は、やるだろう。あの方は、目的のためならば自らの感情を押し殺して行動に移せる。それまでの項王との軋轢や、私との友誼を投げ捨て、項王に頭を下げてまでも誼を結ぼうとするに違いない。これは……たやすく真似できることではない。私があの方に及ばない理由が、そこにある」

「将軍は、漢王に及ばないと?」

「及ばない。とても及ばぬ」

「項王には?」

「項王は、どうであろう。……近ごろよく思うのだが、項王は私と似ている。いや、私が項王と似ていると言った方がいいかもしれないな。私が思うに、項王は信念の人だ。自分の価値観を信じ、それに従わない者と戦うことを辞さない。私に彼ほどの武力や勇気はないし、彼ほどの絶対的な価値観はない。しかし、ひとりよがりなところだけは似ている、と思われるのだ」

「それはどうでしょう? 私には、項王は欲望の人と思われます。もっとも実際に接したことはないので、はっきりとは申せませんが。項王は天下に覇を唱えることが目的で、対抗する者と戦う、それだけです。漢王も同じで、天下に覇を唱えるために、かつての味方も敵に回し、敵も味方に引き込もうとする、それだけです。そこでおうかがいしたいのですが、このお二方に共通するものはなんだと思われますか」

「……なんだ、わからぬ」

「このお二人は、目的があまりにも壮大なために、常識が見えなくなっているのです。目が眩んでいるといっても差し支えないかと……」

「はっきり言う。しかもとてつもなく大胆な発言だ」

「蒯通さまの間違いは、将軍がこのお二人と同類の人種だと思って行動したことでございましょう。蒯通さまは将軍のことを見誤ったのです。それから生じた結果に、将軍が頭を悩ます必要はございません」

「私は本質的に彼らと違う、というのか」

「そうです。将軍は王を称するために戦ってこられたのではありません。天下に覇を唱えるために数多くの死地をくぐり抜けてきたわけではありません。将軍は国をつくることよりも、個人として平和を望んだゆえに戦ってこられました。だから、この場に至っても漢王との友誼を重んじて裏切らず、死んでいった者を思っては悲しみ、思いが通じず去った者を思っては嘆くのです。これは、目的に目が眩まず、未だ常識にとらわれている証拠です。ですが思い違いをなさらないように。これは欠点ではなく、美徳なのです」

「ふうむ。では私の目的意識は小さい。小さいがゆえに普通の人間として振る舞うことができる、というわけだな。確かに私は気宇壮大な男ではなく、武将として世に立ちたいと思ったのも、単にそれが私に向いていると思ったからであった。そしてその先のことは、あまり考えていない。世間は……私を笑うだろうな。このような思慮不十分な男が、王を称したと」

「笑う者には笑わせておけばよろしいかと。将軍はそのような者は好まないとは思いますが」

「ああ。嘲りは大嫌いだ。それをする者も……嫌いだ」

「嫌いなのが普通なのです。ですが、人は王位に固執すれば、それにも耐えるようになります。漢王のように。どうしても耐えられなければ、嘲る者を滅ぼそうとするでしょう。項王のように。私は……将軍にはそのような生き方をしてもらいたくありません」

「しかし……私は、すでに王となってしまった。これから先、私が自分自身を失わずに生きていくためには、どうすればいいのか」

「将軍が漢王に味方すると決めたからには、漢の統一に最善を尽くすべきです。そして……漢が楚に打ち勝った暁には、斉国など漢王に差し出してしまうのがよろしいでしょう。そして将軍はそのかわりにどこか小さな封地をいただき、そこで自由に暮らすのがよいかと存じます」

「……そうか……それはいい。静かな、穏やかな暮らしが目に見えるようだ」

「将来そのような地で将軍とご一緒に日々の暮らしを営むことは、私の夢でもあるのです」

「……夢か。……いい響きの言葉だ。今日から私もその夢を共有し、実現のために努力するとしよう」

「はい。でもあまり固執なさらずに。固執が過ぎると、目が眩みます」

 

 韓信はそれから気を取り直したように、何度か斉から出撃しては、楚の後背を襲い、小さな戦果を積み重ねた。梁の彭越の行動にあわせたのである。

 

 項羽は態度にこそ出さなかったが、これを受けて漢との和睦の必要性を気にし始めた。

item16 item16c item16d item17a item18

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら