NEW

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら

item8 item9 item4a item11 item12 item13 item10
第 四 部

 

悪 意 の 絆

 

 

 大いなる計略は、小人物の密告によって、実現を阻まれた。

つまらぬ男によって運命を台無しにされたという見方が出来ないでもないが、やはりこれは韓信自身の失態であった。大を見るあまり小を見ず、天空を泳ぐ竜を眺めていたら蜂に刺され、それがはからずも致命傷になった、といったところだろう。しかし、この時点での韓信はまだ自分の失敗を知らない。

 作戦決行を三日後に控えて彼が考えることは、実務的な不安がまず第一であった。もと親衛隊の連中は十分に信用に足る者たちであったが、実戦からしばらく離れている。心配してし過ぎるということはなかった。

――こんなとき、カムジンが……。

 かえすがえすも惜しい。自ら手にかけたことを今さらながら後悔する韓信であった。

――しかし、あのときの自分の判断は間違いではなかった。

 後悔することは自分の行為を否定することである。

 カムジンは、罪人であった。よって裁いたことは正しい。

 だが一方で自分は罪人どもを赦し、兵として迎えている。他に方法がなかったとはいえ、カムジンに顔向けできない、と考えてしまうのだった。

 

――いずれにしても、カムジンはもういない。考えても無駄なことだ。

 そう思い、とりとめのない思考を打ち切ろうとしたが、そもそも自分の決断自体が正しいかどうかさえ、確信がない。思考はさらに深みにはまっていくのであった。

――蘭がいてくれたら……。

 実際は彼女がいても韓信の言うことに反対することはなかっただろう。しかし、彼女が後押しをしてくれることで、自分が気分的に楽になれることは確かだった。一人で決断するのではなく、ともに悩み、励まし合いすることでこそ、人は実行力を発揮する。

 

――しかし、蘭ももういない。やはり、考えても無駄なことだ。

 絆は断ち切られ、彼はたったひとりで行動を起こさねばならなかった。

 謀反が謀反に終わった理由が、そこにあった。

 

 

「私が聞くところによりますと、淮陰侯韓信という男は、そもそも貴方が皇帝に推挙した人物だとか。大変な人物を推してくれたものですね」

 命を狙われていることを密告によって知った呂后は、傍らに控える相国蕭何にとげとげしい口調で言った。

「は……。しかしまさかこのような事態になるとは……」

 蕭何はしどろもどろしている。人質として項羽に捕らえられていた呂氏は、解放された後、性格が豹変して恐ろしくなった。蕭何は呂氏の目を直接見ることができない。

 

「淮陰侯は当代随一の知将と聞きます。私は戦時中一貫してとらわれの身でしたので詳しくは知りませぬが。本当にそうなのですか?」

 蕭何は額に流れようとする冷や汗を呂后に悟られぬように拭いながら、答えた。

「……かつて臣は、淮陰侯のことを『無双の国士』として皇帝陛下に推挙いたしました。そのことは間違いございません。また、実際に彼はその異称のとおり、天下の大国を次々に制圧し、ついには仇敵である楚を滅ぼしました。今、こうやって皇妃様と臣が宮殿にいられるのは、半分以上彼の功績によるものなのです」

 

 呂后はこの蕭何の言葉を聞き、不満げな表情をした。

「それでは皇帝陛下の功績は半分以下と、相国は言うのですか? なんとも不遜な発言ではありませぬか。……まあ、相国は嘘はつかないお方だと私は思っていますので、信じましょう。それで、相国はこの事態をどう解決しようとお考えですか? 密告者の話によると、淮陰侯の兵の正体は、囚人だとか。将が優秀でも兵が烏合の衆では、私としては対処は楽なように思えるのですが」

 

「とんでもございません」

 蕭何は顔を上げて、反論した。宮中にも関わらず、叫ぼうとしたほどである。

「韓信と戦うには漢の総力をあげて戦うしか、勝つ見込みはございません。しかし今、国の兵の大半は陳豨の討伐に……。彼は勝つ戦いしかしない男です。彼が行動を起こすときには、必ず勝利の算段が出来ているのです。したがって、彼と戦ってはなりません」

「戦わずに、どう解決するというのです? 淮陰侯の武勇を褒めちぎるのはほどほどにして、早く策を示しなさい」

 

 蕭何の額の冷や汗は、脂汗となった。策がないことはない。

 しかしそれを実行することは、ためらわれた。自分がいち早く認めた男を裏切るのは、国のためとはいえ、後味が悪すぎる。

 しかし、蕭何に選択の余地はなかった。

「臣と……淮陰侯に共通して信頼できる者を使者として遣わしたいと思います。うまくいけば、彼は一人でここを訪れることになりましょう」

 

 

 決行の前日、午後になってから韓信は朝廷から使者を迎えた。側近たちは心配し、もともと病気を称しているのだから会わない方がいいと勧めたが、韓信は逆に怪しまれることを嫌い、使者を通した。

 しかし、韓信は使者の姿を見て、すぐに後悔した。やはり会わない方がよかった、と思ったのである。

 

 使者は、灌嬰であった。

「淮陰侯……病気と聞いておりましたが、お加減はいかがですか」

 灌嬰は嫌みともとれる口調で、そんな挨拶をする。

「灌嬰将軍……なぜ今自分にこんな所にいるのか。君は陛下の陳豨討伐に随行したはずではなかったのか」

 

 韓信の心に一抹の不安がよぎる。彼はすべてを計算のうちにおいていたはずだった。ところが意外なところに、意外な男がいる。それだけで彼は気分が落ち着かなくなるのであった。

「正確なところは、少し違います。私は皇帝陛下に先行し、三日ばかり早く戦場に到達いたしました」

「ほう、そうか……。しかし、私が聞いているのはそのことではない。戦場に行ったはずの君がなぜここにいるのか、と聞いているのだ」

 

 灌嬰は少し間を置いてから、いたずらっぽい笑いを含んで答えた。韓信は一瞬、それが彼の演技のように思えた。

「どうか、驚かれますなよ。私は戦勝報告にいち早く長安に舞い戻ったのです!」

「戦勝報告……? と、すると陳豨は……」

「討ちました。陳豨は、死にましたよ!」

 

 韓信の心の中で、なにかが崩れる音がした。ほんの一瞬ではあるが、彼はなにも考えられなくなり、返す言葉を失った。予想外の事態。計算外の出来事。めまいがして、目の前の灌嬰の姿がよく見えなくなった。たまらず焦点を合わそうと努力をするが、それにも意識が集中しない。顔色は蒼白になり、視線は空を泳いだ。

 

「どうかなさいましたか」

 灌嬰の声に一瞬の自失から解き放たれる。それでも言葉は流暢には出てこなかった。

「いや……それは……めでたい。慶事だ。……君が、討ち取ったのか?」

「そうです」

「……さすが、私の見込んだ男だ」

 

 灌嬰はその言葉に微笑したが、韓信の目には、それがどことなく気まずそうで、かつぎこちないもののように見えた。照れているのだろうか。

 それにしても皮肉とはこのことである。灌嬰が自分の見出した武将であったとしたら、陳豨もそうだったのである。自分のしたことは、自ら将来有望と見込んだ二人の武将を戦わせ、その一方を死に追いやることであったのだ。おまけに結果は自分の望まぬ形となった。 

 決して灌嬰が死ぬことを望んだわけではないが、二人が戦った結果、生き残ったのが灌嬰の方であるということに、韓信は確かに失望を感じたのであった。

 

「して、君の使者としての用件は、私にも戦勝報告をすることなのか」

 韓信は内心の動揺を灌嬰に悟られまいとして、やや毅然とした調子で話題を転じた。

「いえ、そうではありません。あやうく忘れるところでした。私は相国の使者として参ったのです。……つまり、陳豨討伐の成功を祝い、宮中にて呂后主催の祝賀が催される、と。淮陰侯はご病気で体調が優れないとは思うが、なんとか参内して祝賀を申されたい、と相国は申しておりました。諸侯は皆、参内することになるそうです。ゆえに淮陰侯も、是非にと……」

「蕭相国が……」

 ひとしきり考えた韓信は、迷いつつも答えを出した。蕭何は自分を見出してくれた男であるし、自分が逃げ出したときは、後を追いかけてまで来てくれた男であった。その彼が、自分を陥れるようなことはしない、と。

 

「……伺おう。明日の昼には長楽宮に赴き、呂后の御前に参内する」

 それは、自分自身に発せられた、呂后襲撃計画の中止宣言であった。

 

 

「心底、疲れましたよ」

 長楽宮に赴いて呂后に復命し、与えられた居室で相国蕭何と二人きりになる機会を得た灌嬰は、そのように本音を漏らした。

 彼は蕭何によって戦場から呼び戻され、本来なら三日程度かかる距離を、わずか一日で走破したのだった。

 

「大丈夫なのだろうな。本当に……淮陰侯は、明日やって来るのだろうな?」

「間違いないと思いますよ。淮陰侯は、戦略以外で嘘をつくお方ではない」

「様子はどうだった? 言動などに密告は正しいと感じさせるなにかがあったか?」

「……陳豨が死んだと聞いたとき、淮陰侯は激しく動揺なさっているご様子でした。もともとあまり表情があらわにしないお方なのですが……さすがに隠しきれない様子で……あのとき私は、密告の内容が正しいことを確信いたしました。……淮陰侯は確かに陰謀を巡らしております」

 灌嬰はそう答えたが、韓信を誹謗している口調ではない。むしろ憐れんでいるようであった。

「そうか……よくわかった。将軍、君は急いで前線へ帰れ。今すぐ戻って、陳豨と戦うのだ」

 

 蕭何の言葉には、疲れたと言っている灌嬰にさらに労働を強いる非情さが現れているが、その他にもうひとつ重要な意味が込められている。

 

 この時点で陳豨は死んでいなかった。つまり、彼らは共謀して韓信を騙したのである。

「今すぐって……明日、淮陰侯がいらっしゃるんですよ! 私がいなければ怪しまれるじゃありませんか」

「後のことは私に任せておけ。君はいない方がいいのだ。君は淮陰侯に心服している。……だからきっと助命を請うに違いないのだ……だから君はいない方がいい。さあ、すぐ行け」

「助命って……まさか淮陰侯を殺すつもりですか? ねえ相国、落ち着きましょうよ。いったい何を考えているんです!」

 

 蕭何は灌嬰の物言いにあきれ顔をした。

「私に向かって『ねえ』とはなんだ。よくもそんな言葉遣いであの律儀な韓信のもとで働いてきたものだな。彼は他人に対して峻厳な態度で臨むと聞いていたが、どうもそうではなかったらしい」

 灌嬰は反省したが、うまく質問をはぐらかされたような気がして、腑に落ちない。

「すみません」

 謝る態度にも、ふてくされた調子が残る。灌嬰は、まだ若者であった。

 

「冗談だよ。そんな顔をするな。しかし君は本当に韓信のことが好きなのだな」

 蕭何はなだめるように言った。

「君の見た、韓信という男の印象を聞いておこうか」

「はい……」

 灌嬰は、話し始めた。

 

「……人は、淮陰侯のことを高慢で、自分だけが正しいと信じている、と評します。そのため、人はあの方の軍功や高い見識を評価しながらも、必要以上に近づこうとはしません。淮陰侯もそのことは自覚しておられるようですが、自分から態度を改めたりはしないし、自ら交流を広めようと努力される方でもありませんので、孤立することが多いように思われます。しかし、実際にあの方と触れ合うと、その考えの深さ、謙虚な態度、相手に対する敬意を持った言動に驚かされます。……考えられますか? 淮陰侯は天下随一の軍功を持ちながら、常に自分の成してきた行為に疑問を持ち、与えられた任務とはいえ、人を殺してきたことを後悔ばかりしているのです」

 

 灌嬰は話しながら感情が高ぶってきたのか、目に涙を浮かべているようであった。蕭何はそれを認めながら、つとめて冷静に振る舞おうとした。一緒になって韓信に同情していたら、これから成すべき任務が果たせなくなる。

「韓信は……将軍としては一流であったが、王としては、中途半端な存在であった。彼は性格的には物静かな男であるから、民衆に対しては慈悲を持った心で臨むだろう、と私は考えていたのだ。しかし、実際に彼のしたことは軍威を見せつけて、民衆の心に恐怖を植え付け、厳しく取り締まることであった。それが逆効果だったな。民衆はひそかに彼に反発するようになったのだ。相次いで彼を告発する密告が朝廷にもたらされたのも、自然な成り行きだろうて」

 

 灌嬰は、目を伏せるようにして頷いた。

「認めます。しかし、それも淮陰侯がご自分の行為が絶対的に正しいものだと確信が持てなかったからこそなされた行為であり、それでいて民衆の小さな悪事が許せなかったことのあらわれでございます。つまり、淮陰侯は……悪事を見つけても、それを裁くことは自分に許さなかった。幾多の人間を血祭りに上げてきた罪多き自分が、人を裁くことなどできない、と考えたのです。だから民衆が罪を犯さないよう脅し、それでも罪をなす者には法や軍律で対処したのです」

「……要するに自覚が足りなかった、ということだ。王として強い意志をもって民衆と向かい合う気持ちが足りなかったのだ。人は……基本的に罪を犯すものだ。施政者たる王は、それを丸ごと抱きかかえる度量が必要なのだ。善も悪も、罪も……丸ごと、すべてだ」

「それは、なかなか難しいことでしょう。人は淮陰侯のことを、こう言います。感情がなく、人間味にかける、と。ですが、私に言わせれば、いま相国のおっしゃったことができる人こそ、人間らしくありません。相国だって……本心ではそう思うでしょう? そもそも淮陰侯の可能性を一番先に見出したのは貴方ではないですか! その貴方が、淮陰侯を謀殺しようとしているとは……。相国は平気なのですか?」

「私とて、心穏やかではいられない。……しかし、やらねばならんのだ。韓信が謀反に成功すれば、その意味するところは、陳豨や韓王信の叛乱どころではない。韓信は確かに人との交流が少ない男だが、その能力は天下に高く評価されている。よって彼が叛旗を翻せば、諸侯の中で彼に味方するものが出てくるだろう。黥布や彭越などが韓信と組めば、国土は燎原の火に焼き尽くされる。悲しいことだが、……彼は除かねばならない」

「……しかし、淮陰侯の叛乱は、決してあのお方の気まぐれから起きたものではない。それを導いたのは我々のあのお方に対する仕打ちであり、陛下のなさりようです。今だからこそ申し上げますが、あのお方に謀反を勧める者は、何人となくいた。しかし淮陰侯は、その進言をすべて退け、陛下に対する臣従を示し続けました。人臣たる身である以上、臣従することが正しいと信じ続けたからです。しかし、あのお方が正しい行動をとろうと努力なさっていたのに、我々や陛下の淮陰侯に対する態度は、正しくなかった。今からでも遅くありません。彼に今までの無礼を謝し、待遇を改めることを約束するのです。淮陰侯は決して広大な領土を欲しているわけではありません。ただ、一人の男として尊厳を保つことを約束すれば、それで満足なさるはずです」

 

 蕭何は考えた。灌嬰の言うことは、おそらく正しい。だが、やはりその通りに行動するわけにはいかなかった。

「……先ほど申したとおり、施政者は正・邪を丸ごと抱え込む必要がある。君の言うように、韓信が正で、我々や陛下が邪だとしても……国を保つためには邪が正を除くことも時には必要なことかもしれぬ。そしておそらく……今がその時なのだ」

「…………」

item2

「行け。行って陳豨の首をあげよ。陳豨の乱は、韓信の策略だ。陳豨の首をあげ、叛乱を鎮めることで、君は尊敬する韓信を超克できる」

「淮陰侯を超克することで、彼と同じ運命を辿ることはご免ですよ! ……しかし、もう行きます。……やはり、あのお方の殺される姿は見たくありません」

 

 座を立った灌嬰の後ろ姿は、肩を落としているように蕭何の目に映った。

――灌嬰! 泣き言を言うな! お前はまだいい……見ないで済むのだからな。私は……。

 蕭何は明日、韓信と対面しなければならない。そのときどんな顔をして彼に向かうべきか、よくわからなかった。

item18
item16 item16c item16d item17a

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら

次のページ