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第 四 部

 

悪 意 の 絆( 続 き )

 

 

「伺おう」

 そう言ったものの、謀殺される危険性を感じなかったわけではない。

 陳豨は、殺される寸前に二人の間の秘事を明かしたかもしれなかった。そう考えると、韓信は自分の死が徐々に近づきつつあることを運命として受け入れざるを得なかった。

 明日の昼過ぎには自分はこの世に存在しないかもしれない。そんな風に殺される瞬間のことを考えると、確かに恐ろしかった。

 しかし一方で、その後は現世の苦しみから解放されることになる、と思うと、気分が楽になる。死に対する恐怖も「喉もと過ぎれば」という具合のものだろう、とも思えた。

 恐怖は感じるが、それは彼が想像していたより、たいしたものではなかった。

 

 殺されるまでは生き続けようと考えていた韓信であったが、最近では以前より生に対する執着もなくなってきている。

 以前の自分は、よく口にしたものだ。

「死んで出来ることは、何もない」

 と。

 確かにそれは間違いではない。しかし、今の自分にはもうひとつ、確信を持って言えることがある。

 

 それは、生きていても、出来ることはほとんどない、ということだ。

 

 気・力ともに充実しているときは、個人の実力こそが、天下を動かす原動力になる、と考えたものであった。しかし、結局天下を得たのは自分より実力の劣る劉邦であった。思いがけないこの現実に力が抜けた。これが仮に項羽であったら、自分は即座に対抗しようとしたに違いない。実力者が、実力者に挑むのは当然のことだからだ。

 

――では、私は何を思って劉邦に味方したのだ。

――結局味方をしたのだから、劉邦が天下をとったのは当然のことだ。それとも私は、皇帝の座を狙っていたとでもいうのか。

――いや、そういうわけではない。私が望んだのは……自分の知勇をもって戦乱の世にけりをつけることであって、結果的に誰が皇帝になろうと知ったことではない。しかし、一連の戦乱が終わればすべて終わり、というわけではなく、私にもその後の人生があるのだ。考えてみれば当然のことではないか。我ながら、なんと浅き知恵……。

――なんのことはない。天下を動かすのは、運だけであった。これこそが、真理よ……。劉邦は運を味方に付けて、私を利用することに成功したのだ。

 

 韓信の心の中に一種の諦念が浮かぶようになったのは、いつ頃からのことだろう。

「私は、出来ることなら将になりたい。将になって天下を動かすのだ」

 少年時代、自分は栽荘先生に向かって、そんなことを言ったものだ。

 ああ、先生。私は間違っておりました。私は何にもなるべきではなかった。将どころか、王になっても天下を動かすことは出来なかった。市中にはびこるクズのような輩を一掃したいと思っていたのに! 男女を問わず、老若を問わず!

 先生、どうして私を正しき道に導いてくださらなかったのですか。私は、学者にでもなればよかった。口下手な私ではありますが、世の中に対して思うところは多々あるのです。それを一巻の書物にでもすれば……。かえすがえす、お恨み申し上げます!

 

――しかし、少なくとも自分は、世に名を残すことになった。それは悪名であるかもしれないが、自分のような経験ができる者は少ないのではないだろうか。

 韓信はそう考えもしたが、すぐにそれを否定した。

――馬鹿な! 自分の人生が満足できるものだった、とでもいうのか。よい経験をしたと? 私の一生は素晴らしかったと? そんなことはないさ! 私が死に追いやったのは、悪人ばかりではない。敵として死んだ者の中には、数多くの善男善女がいたに違いないのだ。それを知りながら殺さねばならない人生の、どこが素晴らしいのか!

――その酬いとして私は蘭や酈生を失うことになった……。それで十分だと思っていたのだが……どうやら私の罪は限りなく深く、私自身が死ななければ償うことができないほどらしい。

 

 そう思いながら、目を閉じた。眠ったのではない。人生の中での数少ない良い思い出を反芻しようとしたのである。

 

――少年時代の眛。常に私の前に立ち、先に行動した。年は変わらないというのに、彼はいつも兄貴分を気取り、私を見下した態度をとった。当時は癪に障ったりもしたが、今となっては可愛いものよ。彼は幼き頃から、私を恐れていたのだ。だから健気にも精一杯虚勢を張り……。

 

――カムジン。ほとんど口をきかないお前と、心が通じたように感じたのはなぜだろう。あるいは私はお前を動物のように扱ってしまったのかもしれぬ。主人の命令に忠実に従う猟犬のように。もしくは戦うためだけに生まれてきた軍鶏のように。いずれにしろ私は、物言わぬお前が人と同じ心を持つことに思い至らなかった。もっと早く気付いてやれれば……。

 

――酈生、あなたはよくわからない老人だった。温和な表情。礼儀に満ちた所作。それでも若い頃のあなたは荒くれ者だったと聞いている。いったい、人はそんなにも変われるものなのか。もしそうだとしたら、やはり荀子の説は正しいと言わねばなるまい。善が悪に変わるのは一瞬のことだが、悪が善に変わるのにはとてつもない努力が要る。酈生、あなたはそれを見事やってのけた。できることなら、私も……どうせ死ぬのであれば、あなたのように美しく死にたいものだ。だが、私はひたすら人を殺し、最後には謀反を犯した。結局、最初から最後まで悪だ。善人となって死んだあなたのような最期は、私にはとうてい無理だ。

 

――蒯先生。君は何度も私に独立を使嗾したな! 当時視野の狭かった私は、君の言うことを理解できず、最後まで君の意見を取り入れなかった。しかし……私が今していることは、君の言ったとおりのことなのだから、やはり君の言うことは正しかったのかもしれぬ。今君がここにいて、私に助言してくれれば心強いことこの上ないが……。なぜ、私のもとを去ったのか! 君は私を見捨てたのか! もしどこかで生きているのなら、私の死後、人に伝えてほしい。韓信という奴は馬鹿であったが、それなりに忠義心を持った男であった、と。

 

――そして、蘭よ。君の凛とした立ち姿。大きい瞳に切れ長の目尻。きりりと一文字に結ばれた、男に媚びる様のない唇。恐れを抱きながらも、戦場に立とうとする勇ましさ。君は、私のそばにいさせてくれと言いながら、単に庇護される立場を嫌った。自立した女であった君は……ただ美しいだけの、人形のような女とは違う。私は、君のそんなところが……たまらなく好きであった。おそらく世の中には、君より美しい女は多数いることだろう。しかし、君ほど私の意にあった女はいまい。……しかし、それを失うとは……くそっ!

 

 いいことを思い出そうと思っても、どうしても後悔がつきまとう。そして思い出されるのはすでに自分のそばにいない者ばかりのことであった。

 気付いてみれば、自分には人との絆がなかった。自分の生き方がそうさせたのか、誰かの策略でそうなってしまったのかは、わからない。

 わかるのは、確かに自分は孤独である、という事実だけであった。

 

 

 朝、目覚めてみると、夢を見なかったことに気付く。ここ最近は、凶事の前日に必ずと言っていいほど、蘭が夢枕に立つ。今日、彼女が現れなかったということは、吉兆であるかもしれなかった。

 それに、必ず自分が殺される運命にあると決まったわけではない。使者は灌嬰であったが、彼を自分のもとに差し向けたのは、他ならぬ蕭何であった。蕭何が自分を陥れるとは、考えにくい。

 

「もし日が落ちるまでに私が戻らなかったら……そのときは殺されたものと思え。君たちには、あるいは難が降りかかるかもしれぬが、そのときはすべて私に脅された、と弁解せよ。そうすれば、きっと皇帝は君たちを赦す」

 一縷の望みを残してはいるものの、やはり最悪の事態を考慮して韓信は側近たちにそう言い残して出立した。

 

 列侯に許されている専用の車に乗り、長楽宮への道を辿る。

 見えるのは、乾いた黄色い大地。その中に点在する緑の木々を眺めると、それがあるいは見納めになるかもしれないことに思い至る。彼は目を閉じ、それ以上なにも見ないことにした。

 やがて壮大な門の前で車が止まり、韓信は外へ出た。宮殿の奥へ奥へと歩を進める。衛士に腰の剣を預け、非武装の状態で呂后の面前にまみえた。

 

 しかし、その場には祝賀を述べるはずの諸侯は、誰もいなかった。

「淮陰侯……」

 その声が、蕭何のものであったことに韓信は気付くのが遅れた。どうも目の前の事実が理解できなかったらしい。

 

「相国、灌嬰は……? 他の諸侯は、どこだ。黥布や彭越は……」

 韓信は小声で蕭何に問いかける。だが、蕭何は直接その問いには答えず、韓信の目を見ずに言った。

 

「お妃様が、君に話があるそうだ」

 その言葉に従い、韓信は呂后の前に歩み寄り、跪いて挨拶をした。しらじらしく時候の言葉でも並べようかと思ったが、結局ひと言も発せぬ間に、呂后の方から声がかかった。

「なるほど、謀反を企む者は、その心を読まれまいとして礼儀を正そうとする」

「は……?」

「あなたは、陳豨を唆して謀反人としましたね。そしてあなたはこの私と、私の息子を虜にしようとした。……こちらにはすべてわかっているのです!」

 

――そこまで知られていたのか。

 あるいは陳豨の側近が捕虜として捕らえられ、その者がすべてを吐露したのかもしれない。もはや人生に諦念を抱いていた韓信は、申し開きをする気にはなれなかった。

 

「陳豨の手の者が、すべて白状したのですか」

「いいえ。白状したのは、あなたの手の者です。家令の一人を獄に繋いだでしょう。その者の弟が知らせてくれたのです!」

 

――あの兄弟め!

「ついでに知らせておきましょう。陳豨は生きています。いずれは死ぬことになりましょうが、今の時点で我が軍は彼を破るに至っていません。まだ、彼はぴんぴんしていますよ。あなたが死ぬことになり、計画が御破算になることも知らずに!」

――ちっ。そういうことだったのか。

 韓信は内心で舌打ちをした。実に小さな嘘にまんまと騙されたものよ、と自分に興ざめしたのである。

 自然、自暴自棄になった。

 

「灌嬰は常と変わらぬ飄々とした態度で、私を騙したわけだな。思えば奴は、陳で私が捕らえられたときも静観していた。奴とは付き合いが長いし、私はそれなりに友誼を感じていたのだが……とんだ思い違いよ!」

 宮中に関わらず、床に唾を吐き捨てるような勢いであった。常に冷静な印象の韓信らしくない。

 人は死を目前にすると、本性があらわれるという。韓信の本性は、実は激情家であった。

 

「淮陰侯。灌嬰を責めるな。彼がすすんで君を騙したと思うのか。……このわしが相国という立場を利用して、彼に命じたのだ」

 蕭何は、高ぶる韓信の態度を和らげようと、場を取りなそうとする。

「そうだろうよ! 相国、あんたも同罪だ」

 依然、韓信の態度はおさまらない。

 

「相国を責めてはいけません。相国は私を救おうとして命令なさったのです。私を救うということは、陛下を救うということであり、同時にそれは国を救うことなのです。そんなこともわからないのですか」

 呂后は冷ややかにそう言った。

 

「ふん……なるほど……君らはずいぶんと仲がいいことだな! 国を救うと称し、共謀して私を除こうと……悪意の絆! 今さらだが、その知恵と仲の良さを私が斉や趙の地で苦しんでいるときに発揮してほしかったぞ! そうすれば建国の苦労は、半分程度で済んだのだ」

 痛烈な侮辱である。韓信は、この言動だけでも死罪を免れなかった。

 

「そのときは、私は虜囚の身で項羽のもとに捕われて……」

 呂后はそれでも話を続けようとしたが、韓信の激情はこのとき頂点に達した。

「お前などに言っているのではない! いったいお前が国のために何をしたというのか! 愚鈍なためにむざむざ捕われたくせに。お前の愚鈍さが、漢軍の足枷となったことがわかっていて口をきいているのか!」

「やめろ、やめないか、淮陰侯」

 蕭何は泡をくって制止しようとした。

 

「相国! もうその呼び名で私を呼ぶのはやめろ! 私はすでに謀反を犯し、すでに漢の職制の外にある身分だ。私を呼ぶなら、単に韓信と呼べ。私は……罪人として死んだ父と、不貞を犯して死んだ母の間から生まれた、字(あざな)も持たぬ平民の子だ! こんな国の尊称で呼ばれるより、本名で呼び捨てにされる方がよっぽどましだ!」

 

 この言を聞き、ついに呂后は、堪忍袋の緒を切った。

「話にならぬ。相国、別室に連行して獄吏に引き渡しなさい。そして、すぐに首をはねるのです。三族すべて、殺しなさい」

 三族とは、狭義では妻子と両親、広義では一族すべてのことをいう。韓信の両親はすでに死し、妻子がないことは明らかだったので、この場合は遠縁の者を探し出し、すべて殺し尽くせ、という意味である。

「は、しかし……」

「考えてはなりません。迷いのもとです。余計な感情を持ってはいけません。すぐ、やるのです」

「……御意にございます……」

 

 やむなく蕭何は、武士を呼び、韓信を取り押さえさせた。両腕に枷をはめられ、引き立てられながら、韓信は喚くように言葉を連発した。

「まったく、蒯通の言う通りだった! こんな国など、早いうちに滅ぼせばよかったのだ。それにしてもこの私が、あろうことかあんな女に騙されるとは! 天運、まさに天運としか言いようがない」

「もうよせ、信……」

 連行される韓信の後を、蕭何が静かに追った。

 

 

 宮中の鐘室に韓信は連行され、蕭何もその部屋に入った。

 

「……なぜ、あんな死に急ぐようなことを言ったのだ」

 蕭何としては、やりきれない。彼は最後の瞬間まで韓信を助命することを諦めていなかったが、肝心の韓信が自分で自分の死刑を確定してしまったのである。

 

「すみません……相国には、ご迷惑を……お立場を悪くしてしまいました」

 韓信の態度には、すでに狂乱した様子はない。落ち着きを取り戻した、いつもの彼の姿がそこにあった。

「私は……誰かに運命を左右されるのは嫌だ。たとえ死ぬことを免れないにしても、私は自分の責任でそれを迎え入れたいのです」

 蕭何はため息をついた後、得心した。いかにも韓信らしいことだ、と。

 

「そもそも、叛乱を計画したのは……それを陛下が望んでいたからです」

「! ……どういうことだ」

「私のことを陛下が持て余していることは、わかっていました。建国の元勲も事が成就すれば、邪魔になる……そのような理屈がわからない自分ではありません。不遜な言い方ですが、陛下には私に正面から戦いを仕掛ける勇気がない。勝つ自信がないからです」

「だから……自分から挙兵しようとした、というのか?」

 蕭何の問いに、韓信はこくりと頷いた。

 

「……勝てる見込みは、あったのか」

「厳しかった。しかし、ないわけではありませんでした。正直どっちに転ぶかわからない。後は……運しだいです。結果、運に見放された私は戦う前に滅ぶこととなりました……さあ、お話はこれまでです。私は、自分で自分を斬る勇気はありません。部下の者にお命じください」

「なにを」

「なにをって……首をはねよ、と命じるのです」

「……簡単に言いおって……最後に言い残すことはないか」

 韓信は少し考える素振りをした後、言い残した。

「……それでは。私の家臣の者には、あまり厳しい処分を科さないでいただきたい。彼らのなかには進んで私に仕えてくれた者もいますが、そうでない者もいるのです。それと……私には、家族はいません。妻としようと決めた者には先立たれ、弟同然のように接していた者にも、やはり先立たれました。天下をくまなく探せば、父や母に血のつながる者も見つかるかもしれませんが……私はその人たちを知りません。呂后は三族を殺せとお命じになりましたが、その辺は相国がうまくごまかしていただきたい」

「うむ。……ほかならぬ君の頼みだ。善処しよう」

「ありがとうございます。それと……陛下によろしく。陛下がご帰還あそばしたときには、伝えていただきたい。韓信は陛下の覇業を助けたのであり、決して邪魔するつもりはなかった、と」

「そんなこと、伝えなくても陛下はわかっておいでだ」

「そうでしょうか……そうかもしれません。ですが、伝えていただきたいのです」

「うむ」

「さあ、今度こそ、終わりです。お命じください。私が……心穏やかでいられるうちに」

「…………」

「……さあ!」

 

 韓信は目を閉じ、その瞬間を待っている。蕭何は心を決めなければならなかった。

 難しいことはない。彼はたったひと言、語を発すればよいだけであった。

 蕭何がためらったのは実際にはほんの数刻だけであったが、彼自身にとってそれはとてつもなく長い時間に感じられた。

「……やれ」

 

 剣を振るう音が聞こえ、やがて体が床に崩れる音が聞こえた。

 蕭何はそれを見ることができなかった。

 

 

 人の世は、清濁入り交じって流れる川のようであり、混沌としている。清流は清流のままでいることは難しく、その多くは周囲の濁流の影響を受け、自らも濁流と化すものだ。

 韓信は、自分が濁流と化すことを、頑として拒否した。しかし、結果として清流は流れをせき止められたのである。

 

 また、汚らしい泥のなかに埋もれる宝石が、その輝きを主張することは難しい。泥の中ではせっかくの宝石もただの石ころと見分けがつかないものである。

 韓信は早くから自分が宝石であることに気付き、輝こうとした。あるいは石ころに生まれた方が幸せだったと考えながら。

 

 鬱蒼とした林の中で、わずかな日光を得て可憐に咲く花を見つけることは困難である。林の中は雑草ばかりで、深く分け入らないとそれを見つけることはできず、せっかく見つけても価値がわからないものにとっては、花も雑草であると思われるものだ。

 韓信は種子を飛ばし、雑草の中に自分の仲間を増やそうとしたが、そのどれもが失敗に終わった。種子は芽を出した段階で風雨や害虫に晒されることとなり、ついに生き延びることができなかった。

 そして韓信自身も価値のわからない者によって、他の雑草と同じように踏みつけられ、最後には枯れ散ったのである。

 

 韓信が死んだのは紀元前一九六年の春だったとされる。一人の英才が衆愚によって亡き者にされたという事実。戦乱が終わりに近づき、それによって英雄は不要とされたという時流。新時代を築きながらも、自らはその時代に乗り遅れた男の悲しい末路であった。

 韓信は死ぬ間際に、そんな社会に生きる人々のありかたを「悪意の絆」と称した。

 絆を失った者の魂の叫びだったと言えよう。

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