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第 二 部

 

邯 鄲 に 舞 う 雪

 

 

 人の世は、清濁入り交じって流れる川のようであり、混沌としている。清流は清流のままでいることは難しく、その多くは周囲の濁流の影響を受け、自らも濁流と化すものだ。

 また、汚らしい泥のなかに埋もれる宝石が、その輝きを主張することは難しい。泥の中ではせっかくの宝石もただの石ころと見分けがつかないものである。

 鬱蒼とした林の中で、わずかな日光を得て可憐に咲く花を見つけることは困難である。林の中は雑草ばかりで、深く分け入らないとそれを見つけることはできず、せっかく見つけても価値がわからないものにとっては、花も雑草であると思われるものだ。

 

 韓信は、自分が濁流の中の清流であり、泥の中の宝石であり、雑草の中の花だと考えていた。それはいまでも変わらない。

 以前は、自分以外に清流たるものは存在せず、周囲の者はみな泥だと信じ、花である自分を雑草と見分けがつく者はいないと考えていた。つまり、自分以外の者を認めようとしなかったのである。

 

 濁流や、泥、雑草の類が人の世には多いことは間違いない。

 しかしその中で確固として輝きを放とうとする者が自分だけではないことを、韓信はようやくわかりかけてきている。内省的ではあったが、孤高を保ちすぎる傾向にあった自分の生涯を少しずつ修正しようと努力し、機会があれば他者を理解しようと心がけるようになった。

 そのきっかけは彼自身にもよくわからなかった。意識もしたことがなかったが、もしかしたら蘭との出会いが大きいのかもしれなかった。

 

 趙将の李左車に教えを請う態度をとったのは、そういう心の現れだったかもしれない。

 他人に教えを請う行為自体は、人としてさして珍しいことではないが、以前の韓信を知る者にとっては容易に信じられないことであった。

 

 

「私ごときがどうして将軍のお力になれましょう。亡国の大夫は国を語らず、敗軍の将は軍を語らず、というではないですか。たとえ私がなにを言おうと、将軍にとってためになる話はありますまい」

 

 助言を請われた李左車はこう言って協力を固辞したが、韓信は諦めず、食い下がった。

 敗軍の将は兵を語らず……李左車は謹み深く、謙虚な男であった。あるいはこういう人物を韓信は好んだのかもしれない。

 

……私は、北に燕を攻め、東に斉を攻め、これを降そうと考えています。これは、実に大それたことで、責任も重大なのです。もちろん私自身にもどうやって燕や斉を攻め降すか、おぼろげながら考えはあります。しかし確信を得るには至っていません。私は部下を死地に向かわせ、燕や斉の住民を戦乱に巻き込まねばならない。そうである以上、部下や住民に犬死にはさせたくないのです。やるからには、成功させねばならない」

 

「将軍のもとにもよき相談相手はおりますでしょうに。なぜ私のような者の意見など聞きたがるのか」

 

「傲岸なように聞こえるかもしれませんが……私は、負けたことがありません。連戦連勝が続けば、次も勝つと信じて疑わなくなるのは自然なことです。我ながら、その気持ちを抑えることができなくなりつつある……。私につき従う兵にしても、同じでしょう。どうか、第三者の目から見て、私が次にどうするべきかご教示いただきたいのです」

 

「そういわれても、私は趙国内においても、それほど重き立場の身分だったわけではない。それに対して将軍は若いといっても、漢の重鎮中の重鎮……。将軍の求めるような国家的な戦略など、私が助言できるはずもありません」

 

「……李左車どのは、百里奚(はくりけい)という人物をご存知か」

 

「は? 楚出身のかつての秦の宰相ですな」

 

「そう。百里奚は当初虞(ぐ・春秋時代に存在した国)国にいたが虞は滅び、その後秦国に赴いたところ、秦が覇者となった。これは百里奚が虞にいたころは愚者で、秦に行ってから急に知恵者になった、ということではないでしょう。虞にいようが秦にいようが百里奚その人の本質は変わらない。要は彼を用いたか用いなかったか、当時の君主が彼の意見を聴いたか、聴かなかったか、ということです。もし陳余があなたの計画を採用していれば、私などは今ごろ虜囚の身であったことでしょう。どうか辞退せずに……私はあなたの意見のままに行動するつもりです」

 

 李左車はこれを聞き、ついに折れた。

 この大陸における通例の儀礼では三度目の懇願に対して了承するものであるが、彼は四度目でようやく了承した。のちに売国奴として批判されるのを恐れたのであろうか。

 

「私の見る限り、士卒はみな疲れているようです。勝ち続けているので士気は高いですが、気持ちだけでは戦には勝てません……。実際には使い物にはならないでしょう。したがってこのまま将軍が燕に侵攻したとしても弱い燕に勝てず、ましてや強国の斉に勝てるはずがありません。まずは士卒を休ませ、そのうえで燕に対して使いを出すのがよろしいでしょう。そうすれば趙を降した将軍の武威が生きてきます。燕は靡くように降伏しましょう。実情を隠して示威するわけですな。……兵法に『虚声を先にして実力を後にす』とありますが、いま将軍がとるべき作戦がそれなのです」

 

 韓信はそれを承諾し、言われるままに行動した。

 

 はたして燕は李左車の言う通り降伏し、韓信は戦うことなく燕を勢力圏の下においたのである。

 

 

 李左車が韓信に対して示した方策は、とりたてて奇抜なものではなく、韓信の直属の幕僚の中には、似たような考えを持っていた者もいたに違いない。

 しかし注目すべきは、韓信が李左車を説得した際に発した言葉が、彼の軍事に対する考え方を顕著に示していることにある。

 部下や民衆を死地に巻き込む自分を必要悪のような存在だとし、さらには戦勝に目が眩みつつあることを隠さず、それを不安として他者の意見を取り入れようとした乱世の英雄に対する記述は、史書にはあまり見当たらない。

 

 

 

 酈食其という儒者は、老人でありながら挙動が軽く、いつも軽快な足取りで韓信の前にひょっこり顔を出す。

 その彼は屈託のない調子で韓信に対して言った。

「将軍、たびたびのことで申し訳ないが、漢王が兵をよこせと仰せだ。出せるか?」

 韓信としては簡単に言うものだ、と半ばあきれる気持ちもあるのだが、口に出して言う気にはなれない。酈食其は、彼にとってどうにも憎めない人物なのである。

 

「出しますよ。というより、出すしかないのでしょう?」

「うむ。まさか出せません、とは言えまいな。いや、言わないでくれ。それを伝えるのはわしなのだから……。そんなことを伝えれば漢王はまた癇癪を起こし、わしのことをきっと口汚く罵るに違いないのだ。実は、この間もさんざん叱られたばかりでな」

「言いませんよ。……それよりなぜ叱られたのですか?」

「我ながら妙案だと思ったのだが……秦の滅ぼした六国の子孫をたてて、それぞれを王とするよう漢王に献言したのだ。漢王が覇王として君臨することになれば、項王も襟を正して心服する以外にないと思ったのでな」

「…………」

「やはり駄目か、そうであろうな。漢王は一度はわしの策を採用し、大急ぎで印綬を作らせたが、張良があわてて引き止めたそうだ。時代に合わん、といってな。おかげでわしは大目玉だ」

 

 酈食其は悪びれた様子もなく、淡々と話す。韓信にはそれがおかしくてたまらなかった。

「今さら項王が襟を正してなどと……。私が張子房どのでもやはり止めたでしょう。六国をたててその六国が揃って楚に靡いてしまっては、元も子もない。酈生ともあろうお方が、どうしてそのような早まった献言を?」

「それは……早いところ現状を打開しなければどうにもならぬとわしなりに思ったからだ。はっきり言うが、滎陽は落城寸前だ。早めに手を打たなければ、あとひと月も持つまい」

 

 酈生はこのとき苦渋に満ちた表情をした。

 日ごろ温和な態度を保ち続けている儒者の彼としては、珍しいことである。

「漢も詭計を用いて、楚軍の内部を切り崩したりはしているのだ。しかし、決定的な打撃を与えることができないでいる」

 

 このとき韓信は酈生から伝え聞き、陳平の策によって亜父范増が死んだことなどを初めて知った。

「深刻な状況ですね……。しかし、現状では私にできることは少ない。せいぜい兵を補充して差し上げることぐらいしか……。漢王はさぞや憔悴していることでしょう」

「軍事面ではな。私生活の面では、心配ない。漢王は囚われの身の呂氏のかわりに若い戚夫人を得るに至った。もともと女好きのお方だ。若い婦人を相手にしていた方が精神的にも安定するに違いない。判断力はしっかりしておられる」

「に、しても急がねばならぬ。斉を討伐し楚を逆に包囲すれば……」

 

 韓信はしばらくの間、士卒を休ませることに決めていたが、もしかしたらそれも撤回しなければならないと考えた。

「いや、心配するな。事を急いで将軍に失敗されてはすべてが無に帰す。成功したとしても……」

「成功したとしても?」

「……将軍の立場を悪くするだけだ。わしにはそう思える」

「…………」

「将軍の功績はいまでも大きすぎる。このうえ斉を平定などしたら漢はおろか、楚さえも上回る勢力になりかねん。将軍が戦いに勝つたびに漢王が兵を送れといちいちいうのは、それを抑えるためだ。いや、たしかに滎陽が苦しいという事情はあるが、基本的には将軍の力を削ぐためだと思えてならない」

「……私が自立勢力を持つというのですか。私の幕僚にも似たようなことを言う者がいる。しかし、その度に私は言うのですが……私にはそんな気はない」

「君がどういうつもりなのかは、たいして問題ではないのだ。重要なのは事実であって、実際に将軍の勢力が自立するに足るものであれば、漢王としては警戒しなければならない。今のところ将軍にはその気はないようだが、人の心というものは、ちょっとしたきっかけでうつろいやすいものだからな」

「私は……違う。私はもし自由を与えられたならば、誰とも関わらずにひとり気ままに暮らしたい、というのが本心なのです。誰が自立などするものですか。王など称して不特定多数の人々を相手にするなど……面倒です」

「だから将軍がどう思っているかは問題ではない、と言っているだろう。将軍、こういう故事をご存知か?……かつて秦の将軍王翦は楚を滅亡させるにあたって六十万の兵を用意した。これは楚を撃ち破るに充分な数であったが、王翦の心次第では秦を撃ち破ることも可能な数だ」

 

 韓信は口を挟んだ。

「その話なら知っています。王翦は始皇帝にいらぬ疑いを持たれぬよう、再三にわたって使者を送り、戦勝後の褒美をことさらねだった……戦後の恩賞で頭が一杯で、反乱など考えてもいないことを印象づけるためです」

「その通り……。考えてみるがいい。将軍の立場は王翦と同じだ。だが、将軍は漢王に対して何も要求していない」

「要求など……臣下が主君に要求をするなんて、不躾(ぶしつけ)ではないですか」

「確かにそうかもしれんが、留意すべき故事だ」

 

 韓信は息をのんだ。自分の立場はそれほど微妙なものなのだろうか。

 

 酈食其は続ける。

「将軍が考えるべき事項はまだある……。漢王は函谷関を出て中原に進出してからも、折りをみて何度か関中に戻っている。そのわけが分かるか?」

「関中は漢にとって重要な拠点だからでしょう。それは他ならぬ私が漢王に主張したことです」

「……それだけではない。漢王は丞相蕭何が謀反するのではないかと疑っておられたのだ」

「……蕭丞相が? まさか。彼はそんなお人ではない」

「蕭何は漢王とはまるで違い、真面目で人格者でもあるし、それゆえ人望もある。関中の父老の支持を得て、若者を駆り集めれば、文官とはいえ謀反は可能だ」

「…………」

「しかし蕭何が優れているところは、それに自分自身で気付いたところだ。彼は漢王の信用を得ようと一族郎党から男子をすべて集め、残すことなく滎陽の前線に送り込んだのだ。体のいい人質というものだろう。将軍はそのようなことをなさっておいでか」

「……いえ、まったく。第一私には親類縁者が少ないので……」

「考えるべきだ。旗揚げ以来の重鎮の蕭何でさえ疑われるのだ。言いたくはないが、漢王と将軍の信頼関係は、漢王と蕭何のそれよりは薄い。……親類に心当たりがいないのであれば、他の者を探すべきだ。要は漢王の気に入る者を差し出せばよいのだからな。さしあたり……例の魏豹の娘などはどうであろう」

「…………!」

 

 

「お顔の色がすぐれませんね。どうなさったのですか?」

 

 蘭の問いかけに、韓信は応じる言葉を見つけることができなかった。

「悩み事でも?」

「……ある人が、君のことを……人質に出せと……漢王のもとに……」

「いつになく歯切れの悪い物言いですこと。それを言ったのは酈食其さまでしょう。先ほど私に直接話してくださいました。私にはそんなに悩む必要があるとは思えませんが」

「まったく、あの爺さんときたら! あの人は思いつくとすぐ行動に飛び移るのが悪い癖だ。この間も漢王に叱られたばかりだというのに」

 

 蘭はくすっと笑い、韓信をなだめるように穏やかな口調で話し始めた。

「悪い人ではありません。あの方は将軍のことを、ずいぶんと気にかけております。将軍は智勇兼ね備えた名将にして、漢の至宝たる存在だ、とまで申しておりました。それゆえ漢王との微妙な関係が気になると……」

「酈生のことはいい。肝心の君の気持ちはどうなんだ? 私は君を行かせたいとは思っていないが、心を鬼にして行けと命令すれば、君は断る立場にはない。非情なようだが、公私の区別はつけなければならぬ」

「おそれながら、将軍のいまの言いようは間違いでございます。いったい公とはなんでございましょう。将軍が漢王ににらまれたくないから私を人質に出す、ということを示しているのでございましょうか? にらまれたくない、というのは私的感情でございます。公ではなくて私の領域です」

「では君の考える公とは、なんだ」

「将軍にとっての公とは、将軍自身が理性を保ち、精神と感情の平衡を保ち、それによって軍の士気を維持することにある、と私は考えます。漢王は確かに自立できるほどの勢力を将軍に持たせることを危惧しておられるようですが、それによって将軍が戦いに敗れることを望んでおられるわけではありません。つまり、将軍は軍を常に勝てる状態に保つことが公であり、何よりも優先して務めねばならない責務なのです」

「つまりは、私が君を手放すと、私が気落ちして理性を失い、その結果、私の軍は弱くなると……そう言いたいのか?」

「いやな女だと思われたくはないのですが……その通りでございます」

「そんな風に君のことを見たりはしない。たぶん……君の言う通りだろう。しかし……ということは君は行く気がないのだな?」

「私が行けば、それなりに効果はあるのでしょうが……行きたくありません。つきましては私に考えがございます。聞いていただけますか?」

「聞こう。聞かせてくれ」

「では……先日将軍は井陘で趙を激戦のうちに破り、趙王を虜になさいました。これにより趙は王座が空位となったわけですが、将軍はそれをそのままにしておいでです。これをどうお考えになられますか」

「私も好きでそうしているわけではない。趙の国内は現在無政府状態であり、早く手を打たないと諸地方に反乱が起きるだろう。しかも、それを機に楚に武力で干渉される恐れがある。だが燕との交渉を先にしてしまったので、後手に回ってしまったというのが正直なところだ……しかし、趙を王国のまま保つか、漢の直轄郡の一部にするかは私の決めることではない。漢王の沙汰を待っているのだ」

「滎陽は窮地に陥っている、と聞いております。漢王は実際それどころではないのかもしれません。時間が経てば経つほど状況は悪化しかねません。沙汰を待つのではなく、将軍から行動を起こすのがよろしいでしょう」

「……まさか、君まで私に王を称せ、というのではないだろうな」

「……違います。張耳さまを趙王に推挙するのです。そうすれば将軍が自らの王位襲名を考えていないことを漢王に印象づけることができましょう。趙国内の早期安定にもつながります」

「なるほど……そうだな。酈生が兵を連れて帰るときに伝えてもらうことにする。しかし、漢王はそれを了承するだろうか?」

「極端な話をすれば、了承するかしないかは問題ではありません。要は将軍に王を称す意志がないことを伝えることができればそれでいいのですから。でも……了承するでしょう。張耳さまは趙にゆかりの深い方ですし、漢王ともご関係の深い方ですから」

「君も幕僚らしい口の聞き方をする……どうも私はそう言うことを考えることが苦手で……君の言う通りにしよう。今後もよろしく頼む。軍事にしか頭の回らない私を、どうか守ってくれ」

 

 蘭は、韓信のこの言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。軍服を着て戦場に臨んだ蘭であったが、井陘の戦いにおいて、韓信は蘭に戦地に立つことを禁じ、後方の非戦闘員の護衛を命じた。

 女である自分に人を殺させないという韓信の心遣いであることはわかるが、やはり重要な局面で力になれないことを蘭は残念に思うのである。なんとか韓信にとって必要な人間でありたい、と思い続けた彼女の願いが叶った瞬間であった。

 

 かくして韓信は張耳を趙王に立てることを酈食其を通じて上奏し、漢王はこれを認めた。蘭は政略的な眼力を証明することとなったのである。

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