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第 一 部

 

漢 の 韓 信( 続 き )

 

 

 韓信にとって夏侯嬰などは、話の相手にもならない。頭の作りが違うようであった。

 しかし内心でそう思っていても、態度には示さない韓信である。生涯御者として馬と劉邦の世話をして過ごしてきた夏侯嬰に対し、韓信は粘り強く、相手が理解できるまで自分の考えを聞かせてやった。

 

「項王が敵を破る度に敵地の住民まで巻き添えにしたり、今回のように徹底的に宮殿を焼き尽くしたりするのには、わけがあります……。項王は、基本的に他者を信頼していないばかりか、人同士はわかり合えないものと考えており、自分の思いが他者に通じないことを嘆いている節があります。どれだけ高尚な意識をもって敵地の住民を鎮撫しようとしても、それが通じることはない。なぜかと言うと、彼らにとって項王は敵だからです。私が思うに、項王には今の行動に至る原体験があるに違いないのです。それがどういうものかは存じませんが、それ以来項王は敵地を鎮撫することを無駄な努力と考え、徹底的に弾圧するようになったと思われます。我々は、項王と反対に民心を安んじ、支持を得ることに重きを置かねばなりません……」

 

 夏侯嬰には、韓信の言うことの半分も理解できなかったが、それでも自分と頭の作りが違うことだけは理解できた。

 

――面構えばかりではなく、なかなか頭のほうも切れる奴だ。

 夏侯嬰はそう感じ、漢王劉邦に韓信を取り立ててやるよう奏上した。推挙したのである。

 

 この結果、韓信は治粟都慰(ちぞくとい)という軍糧や財貨を管理する官に任じられた。

 

――ああ、先生、やはり駄目だ! 世の中には私という者を正しく見極めてくれる者がいないようです。この私が治粟都慰などと……。料簡違いも甚だしいとは思いませんか。ただでさえ惜しい命を捨てる覚悟をしてまで乱世に身を投げ出したのに、財物などの管理をせよ、などとは……。食料や金の管理がしたいのなら最初から商人になっていますし、兵の中にはその能力に長けた者もいるでしょう。なぜ私が……。

 

 韓信の不満は爆発寸前のところまで来ていた。

 

 軍糧や財貨の管理の仕事は、いわゆる後方職務である。劉邦の軍のなかで、この職の最高責任者に当たる人物は、蕭何であった。漢軍の最重要人物のひとりである。

 

 劉邦は平民として生まれ、若いころは家業の手伝いもせず、沛の街をぶらついて歩く単なるごろつきであったが、劉邦の王としての性質をいち早く見出し、ここまでもり立ててきたのが、蕭何その人であった。

 蕭何はもともと沛の県吏であり、謹直な人柄と職務に忠実なことで、人々の信頼を得ていた。あるときには県令から中央の役人に推薦されたこともあるくらいである。

 また、沛の街が戦乱に巻き込まれようとしたとき、民衆の中には劉邦ではなく蕭何を首領として戴こうと主張した者もあったという。

 

 しかし、蕭何はそのいずれも固辞し、劉邦を影で支え続けた。咸陽が落城した際、他の者が宮中の財宝に目を奪われる中、ひとり法典や史書を確保しに走ったという事実は、彼の謹直さを物語ると同時に、将来の漢の世を見据えた行動であった、といえるだろう。

 

――しかし、蕭何は文官ではないか。私は武官として身をたてたいのだ。

 韓信の辛気くさい表情が、さらに鬱屈したものに変わっていった。

 

 しかし、それを気に留めたものは少ない。士気の低下した軍組織の中では、誰もが自分自身のことしか目に入らず、他人に気を配る余裕を持つものなどほとんどいなかった。

 だが万事に気配りの利く蕭何だけは違った。蕭何は顔色まで青ざめて見える韓信の姿を目に留めて、ひどく気にかけるようになった。

 

――見るからに悩める青年がいる。あれはなんという者か。

 心配するのと同時に興味を覚えた蕭何は、ある夜韓信を呼び寄せ、話し相手をさせた。

 

「君の顔色を見るに、ずいぶんと悩んでいる相が出ている。その様子では、桟道の上から身を投げかねないぞ……。思っていることがあるのなら、今のうちに話してみるがいい。わしが君の力になれるかどうかはわからぬが、人というものは思いを言葉にするだけでも胸のつかえがとれるようにできているものだ。どれ、聞いてやろう。なにが悩みだ?」

 

 このときの韓信の言葉は、短い。馴れない者に対しては、いつもそうである。

「自らの不遇についてです」

 

 蕭何は笑ったりせず、話に付き合う。

「不遇とは……? もっと具体的に話したまえ」

「私は楚軍では郎中に過ぎませんでした。漢軍に身を置いてからは連敖、今に至っては治粟都尉。どれも私にとって適職ではありません」

「君がどんな男かわからないのだから、仕方ないだろう。人はみな経験を積んで一人前の男になっていくものだ。その過程で自分自身を知り、どのような職務が自分に合っているのか見つけるものだろう。君はまだ若いわけだし、これからの働き次第では出世も夢ではない」

「それは、わかっています。しかし悠長にそのような機会を待っているわけにはいきません。天下の状況は刻々と変化し、対応を誤れば、置き去りにされます。座して機会を待つわけにはまいりません。私は早く天下のために働きたいのです」

 

 韓信は、言いながら、かつて栽荘先生に叱責されたことを思い出した。

「座して機会を待つばかりでは、何も変えることはできない」

 

 それが栽荘先生の言葉だったが、いざ自分が待つことをやめて積極的になろうと思っても、結局は何も変わっていない、というのが現状である。

 

 そして蕭何が受けた韓信の印象は、生き急いでいる若者、といったものだった。

 しかし言っていることは正しい。漢軍は天下の中心から外れ始めており、このままいけば漢王は奥地に閉じ込められ、兵たちは離散し、天下は項羽のもとに定まる。その点は韓信の言う通りだった。

「治粟都尉として働くことも、決して天下のためではないとは言えないと思うが……。よろしい。君にひとつ機会を与えよう。天下のために先頭にたって働くような男であれば、治粟都尉の仕事も楽にこなせるはずだ。その結果をもってわしが君を漢王に推挙する判断基準とする。よいか」

 

 韓信は仕方ないとでも言いたそうな素振りを見せて、渋々頷いた。

 

「そう面倒くさそうな顔をするな。君がどんな男かわしは知らぬ。知る機会を与えてくれてもよいではないか」

「……何をすれば、よいのでしょうか」

「我が軍は今、軍糧に不安がある。というのも逃亡する兵士が多く、その者どもがどさくさにまぎれて軍糧を持ち去っているらしいのだ。方法は問わぬ。南鄭に到着するまでの間の軍糧を確保し、守り通すのだ。それができたら、漢王に推挙しよう」

「……はぁ、わかりました」

 

 韓信の返事は気のないものだった。

 

 

 

 桟道では車を使えないので徒歩で渡るが、苦労したのは荷物の運搬であった。

 荷車も使えないし、馬や牛も桟道を通ることができなかった。このため確保している軍糧を各人が担いだり、背に負ったり、あるいは手に持って歩くしかない。

 これは大変な重労働であったことは確かだが、逃亡を考えている者にとっては逆に都合がよかった。自分が手にしている軍糧が逃亡中の腹を満たしてくれることになるからだ。

 

 が、だからといって持たせないわけにもいかず、これをいいことに逃亡者が相次ぎ、その度に軍糧が目減りしていくのだった。

 

 蕭何からこの問題の解決を命じられた韓信は、翌日の朝には蕭何に策を示した。

「何? 桟道を焼く、だと!……それは軍師の張良が主張していたことと同じだ」

 驚いた蕭何は目を丸くした。

 

「そうですか。一晩考えてやっと出した結論だったのですが……すでに考えられていたこととは、世の中には頭のいい人もいるということですね」

 韓信は少し残念そうな顔をした。

 

「しかし、案を出した張良は韓に戻っていて、この場にはいない。漢王は張良がいないことで先が読めず、実施をためらっておるのだ」

 蕭何には目の前の男が策士と呼び声の高い張良と同じ意見を主張するのが興味深く感じられた。もしかしたら、この男も策士かもしれない。

「詳しく話せ」

 

「……軍糧を守るためには、兵卒に軍糧を持たせないことが最善ですが、現状を考えると、そういうわけにはいきません。また、信頼できる者だけに軍糧を運ばせるわけにもいかず、どうあっても軍糧は兵が運ばねばならない。では、兵が逃亡できないようにすればいい、と思ったまでのことです」

 

 蕭何は聞く。

「しかし、それでは我々は本当に巴蜀の山々に閉じ込められる形になってしまうぞ。お前は天下のために働きたい、と言った。桟道を焼いてしまっては天下への道が閉ざされてしまう」

 

 韓信の表情が、明るくなった。ここ最近では珍しいことである。

 

「桟道を焼く目的は、実は二つあります。ひとつは兵の逃亡の意思をくじくため、もうひとつは項王や関中の三王(章邯、司馬欣、董翳)に、我々に再び関中を目指す意志がないことを示すためです。桟道が焼かれたとあっては、彼らは安心するに違いありません。そこに油断が生まれます」

 

 蕭何はため息をついた。

「それこそ張良が主張していたことと同じだ……。しかし、焼いてしまったあとのことは考えているのだろうな。わしとしては漢軍がこのまま巴蜀にとどまることを良しとしているわけではない」

 

 韓信は力を込めて話した。

「もちろん、反転はします。あくまで、私の腹づもりですが。桟道が焼かれたとしても、山脈を迂回する麓の古道があります。そこを使えば咸陽まで旅程は数十倍かかりますが、馬や車も使える。反転するにあたって大々的に桟道の修復を宣言すれば、敵の目はそちらに注がれましょう。その間に本隊は古道を使って咸陽にひそかに侵入する……大雑把ではありますが、これが私の戦略案です」

 

 お前に戦略を考えろ、と言った覚えはない、と蕭何は思ったが、

――これ以上ない、妙案ではないか。

と認めざるを得なかった。蕭何は劉邦に奏上し、桟道の焼却の裁可をもらうことにした。

 

「それと、もうひとつ、気がかりなことがあるのですが……」

 韓信は表情に懸念を浮かべながら、もうひと言付け加えた。

「なんだ」

「軍中に見覚えのある顔がいます。注意しておきたいのですが……」

「好きにするがいい」

 

 このとき蕭何は、韓信が自分の昔なじみが軍中にいるので、親交を深めたいと言っていると思ったに過ぎなかった。

 

 

 韓信は行軍の最後尾に位置し、兵たちが全員桟道のある一定の地点まで渡り終えるつど、それを焼き続けた。寸断するだけでことは足りるが、すべて焼いたのは心理的な効果を狙ったものである。

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 そしてこれにより夜陰に紛れて桟道を逆行して逃亡をはかろうとする者はいなくなった。自然、軍糧も確保される。

 

 韓信は蕭何に対しては株を上げたが、その反面、逃亡を画策していた兵からは恨まれることとなった。

 そして兵たちの韓信を恨む感情が頂点に達したとき、韓信は彼らを前に言葉を発した。

 

「桟道を焼いたのは、漢王の命により、侵入者を拒むためのものである。漢王は項王に厚遇されているとはいえず、いつ刺客を送り込まれても不思議ではない。お前たちが、漢王の生命より自分の生命が大事だといって逃亡をはかるのならば、それもよし。そのような者は我が軍には不必要である。ただし、逃げるのであれば軍糧は置いて、身ひとつで逃げ出すのだ。軍糧は必要である」

 

 兵たちは、この言葉を疑った。人がひとり通れるような桟道の中にあとから刺客が紛れ込むのは不可能だ、と思ったからである。そもそも焼いたあとに逃げてもいいなどと言われても、今さら逃げようもない。

 兵たちは韓信を小馬鹿にした態度をとった。

 

しかし韓信はそれに動じず、言葉を継いだ。

「刺客は我々が咸陽を経つときから、すでに潜入している。その者は、今この中にいるのだ!」

 

 韓信の視線はある男の面上に注がれていた。

 兵たちの視線もその男に集中した。

 

「……お前は楚軍にいた男だな。范増の配下にいたことを私は覚えている。お前ひとりか? それとも仲間がいるのか? 言え!」

 韓信はその長剣を抜き、せまった。

 しかし男は押し黙り、何も答えない。

 

 やがて男の顔に脂汗が浮かび始めた。すると兵たちが韓信に同調して、その男を取り囲み、無言の圧力を加え始めた。

 

 圧迫に耐えかねた男はやがて意を決したかのように脇の下から匕首を取り出すと、目にもとまらぬ早さで自分の喉元を刺して死んだ。

 あっという間の出来事だった。

 その死が美しいか、それとも醜かったか韓信には判断がつきかねたが、劇的であったことは間違いない。

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