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第 一 部

 

漢 の 韓 信

 

 

 鴻門での会見の結果を受けて、項羽は咸陽への入城を開始した。

 総勢四十万の項羽率いる楚軍が、雪崩を打ったように関中へ侵入し、先々の都市を飲み込んでいく。沛公軍の面々は、少し離れた覇上という地からその様子を眺めることしかできなかった。

 

 項羽の征服の仕方は凄まじく、有益なものはすべて接収と称して略奪し、そして取りあげるものがなくなると、都市ごと火をつけて焼き払った。

 秦の民衆はこれに失望したが、やはりできることは何もなかった。

 やがて咸陽に到達した項羽は、士卒たちが財物を漁り、宮女を追いかけ回すのを止めようともせず、なすがままに任せた。

 

 この略奪、蹂躙こそが勝利の証であった。敗者には何もくれてやらない。温情を施しでもしたら、のちのち彼らは叛逆する。情けは無用、徹底的に破壊し尽くし、人民どもを屈服させることが重要なのである。

 これが戦国時代の論理であった。項羽はこの論理に忠実に基づいて行動し、まず始めに秦王子嬰を有無を言わさず殺すと、広大な咸陽宮および阿房宮から金銀財物を奪った。奪い尽くすとこれに火を放ち、後々の利用価値など考えず、残さず焼き尽くした。

 

 火は大火となって燃え広がり、あえて消火しようとする者もいなかったのでその後三か月に渡り燃え続けたという。

――残さず焼き尽くすくらいなら、沛公にくれてやってもよかったのではないか……。

 韓信は眼前の炎を眺めながら、そんなことを思う。

 

――どだい項羽の目的は、秦を自分の手で滅ぼすという名誉欲しかない。次の世をどう築いていくか、などという考えはまるでないのだ。

 

 関中は峻厳な山々に囲まれ、守りやすい。そのうえ中原を見下ろす高台に位置しており、攻めやすい。当時の中国大陸の中心から大きく西に偏った位置にありながら、秦が天下統一を果たし得た要因として、その地理的優位を除外することは不可能である。

 

――項羽は、それをわかっていない。この地を抑えずして、どうやって天下を望むことができよう。天下を望みながら、その方法を知らぬ、ということだ。

 

 韓信が楚を見限ろうと決心したのは、あの日鴻門で樊噲の姿を見たときがきっかけになっている。主君のためにあれほどの気迫をもって突入をはかった樊噲の姿……。

 

――あれほどの忠臣は見たことがない。私もあの武人のように誰かを守ろうとして戦いたいものだ。もしかすれば沛公とは私をそのような気にさせてくれる存在なのだろうか……。

 すくなくとも項羽は、そのような存在ではなかった。

 項羽は自分の身は自分で守れるからである。よって他者の意見もあまり聞かない。守る価値がないというよりは、その必要がないのである。

 

――関中がどれほど重要か説いたところで、項羽は聞く耳を持つまい。すでに咸陽が焼け野原になった今となっては、もはや説いても無意味なことではあるが……。

 そう思い、韓信は陣中を去り、楚軍を見限った。

 しかし士卒たちはみな略奪に我を忘れ、軍隊らしい規律など無きに等しい状態であったので、韓信の逐電に気付いた者は誰もいない。

 

 

 燃え盛る炎の熱が、わずかな地上の水分を蒸発させ、それが上昇気流に乗って空に蓄えられた。

 やがてそれが限界を超えると、蒸発した水分は再び液体となり、雨となって咸陽に降り注いだ。

 乾いた黄土が雨に塗れ、色の濃さを増していく。

 しかし、それでも咸陽の炎は消えることがなかった。

 消えない炎は、あたかも人間の行為の罪深さを象徴しているかのように思え、韓信は逃げ出したくなる。

 しかしどうにかそんな感情を抑え、目の前の現実を受け止めようと、彼は心の中でもがいた。

 韓信自身は知る由もなかったが、そのときの感情は、韓信の父が城父の戦場で無数に横たわる兵たちの死体を目の当たりにしたときの感情と似ていた。

――雨にも消えない炎は、ここに暮らしてきた人間たちの怨念であろうか。

 

 たとえそうだとしても、韓信にはどうすることもできない。

 彼はそれらの怨念を静める術さえも知らなかった。

 圧倒的な無力感にさいなまれながら、韓信は咸陽をあとにし、劉邦のもと、覇上にむけて歩を進めた。

 

 

 関中に都を置くことが覇者の条件のひとつである、という意見はいわば定説で、韓信のみならず、項羽の周囲にもそれを主張する者は多数いたようである。

 

 しかし、項羽は自ら焼き尽くした土地に未練はなかった。

 劉邦を押しのけてまで関中に乗り込んだのは、関中王になりたいがためではなく、秦の歴史に終止符を打つのが、他ならぬ自分でありたいがためであった。

――咸陽は秦人の城だ。この項羽は楚人である。楚人たる項羽が秦を滅ぼしたのに、なんで秦の土地に住まわなければならないのか。

 

 項羽は楚に都を置きたかった。それをあらわした項羽自身の言葉がある。

 

「富貴となって故郷に帰らないというのは……錦の衣を着て夜歩くようなものだ。誰にも見てもらえない」

 この言葉が派生して「故郷に錦を飾る」という言葉が生まれた。

 

 しかし、これは項羽の単なる希望というもので、政治的判断に基づいたものではなく、付き合わされる者にとっては、たまったものではない。

 ある者が項羽を評して、笑い者にした。

「世の人々は、楚人は猿が衣冠を付けているようなものだと言うが、なるほどその通りよ」

 

 項羽は逆上し、その男を処刑した。

 軍卒の見ている前で大釜を用意して湯を沸かし、その湯の中に男をぶち込んだのである。

 

「煮ろ」

 自尊心を傷つけられた項羽の下した命令は、短く、残酷なものだった。

 

 しかしその男は煮られながらも項羽を罵ることをやめず、皮や肉が溶け始めても激痛に耐えて項羽をあざ笑い続けた。やがてその声が消えたころには、男の肉はなかば溶解し、釜の中には人肉の煮込み汁が残った。

 これ以来軍卒は項羽を恐れ、その意見に反対する者はいなくなった。

 

 もはや懐王でさえも項羽を掣肘する存在ではない。懐王は当初の命令どおり関中に一番乗りを果たした劉邦を関中王にするよう項羽に命じたが、項羽はこれを聞かず、独自の判断で諸国を分割し、それぞれに王を称させた。

 王が王を任命するのは過去に例がなかったわけではないが、明らかに自然ではない。このため項羽は懐王に義帝と称させ、王の上にたつ地位を与えた。

 しかし項羽は、義帝の命令を聞かず、名だけを借りて論功行賞を行ったのである。

 

 この結果、項羽は西楚王を称し、九つの郡を治める覇王となった。

 覇王とは王の中の第一人者と言うべき存在で、「王の中の王」とでも解釈すればいいだろう。以後、項羽は項王と記録される。

 

 斉は三分され、それぞれに王が置かれたが、宰相田栄は日頃楚に非協力的だったため、なんの沙汰も与えられなかった。無官となったのである。よって田栄は項羽を恨んだ。

 

 趙では項羽とともに関中入りを果たした張耳が王に任命された。

 もともとの趙王である歇(けつ)は代郡(だいぐん)に追われ、そこの王とされた。

 いっぽう張耳と仲違いした陳余は項羽と行動をともにしなかったので、王にはなれなかった。

 陳余は項羽を恨み、張耳をも憎んだ。

 

 韓は領地は据え置かれたものの、王の韓成は実際に領地に赴くことは禁じられ、そのまま項羽の監視のもとに置かれた。

 韓成は張良が擁立した王だったので、項羽や范増が警戒を解かなかったのである。

 

 関中は三分され、章邯、司馬欣、董翳の三名がそれぞれの王となった。秦の地は秦人に治めさせるのがよかろう、という判断である。

 しかし新安の大虐殺に生き残った彼らは、生き残ったこと自体が秦兵の遺族たちの恨みを買うこととなり、人民は彼らになつかなかった。

item2

 劉邦には漢中の地が与えられた。奥地である。

 別名巴蜀(はしょく)ともいわれるその地には、そびえ立つ山々が影をなして、日光のさす余地もないと言われる。

 

――もともと秦の地であるから、関中だと言えなくもない。

 などと言われ、体よく辺境へ追いやられた形となったが、鴻門の一件以来、劉邦は項羽を恐れ、「山奥でひからびて死ね」という命令にも背くことはなかった。

 

 韓信が劉邦のもとへ参じたのは、ちょうどそのころであった。

 

 

 剣を杖がわりに地に突きたて、威風堂々、韓信は劉邦軍に身を預けた。

 

 韓信は人に会う度に持論を展開し、自分を売り込もうとはかったが、しかし、応対した下級士官の中には韓信のいうことを理解できる者はおらず、いくら項羽の弱点や戦略的構想を話して聞かせてもまったく話が進展しなかった。

 さらには韓信自身が一兵も指揮したことがないことで、最初から軽く見られたということもあるだろう。

 結局彼に用意されたのは連敖(れんごう)という貴人の接待係の地位に過ぎなかった。

 

――栽荘先生、私はここでも浮かばれないかもしれません。私は、郎中や連敖などの地位が欲しくて乱世に身を投じたのではありません……先生、私はどうすれば世に出ることができるのでしょうか……。

 

 韓信の落胆は激しく、そのため気力も萎え、次第に捨て鉢な気分になっていった。

 しかし、それは韓信に限ったことではない。この時期、劉邦軍全体が士気の低下に悩んでいた。事実上の都落ちとして山奥の巴蜀へ赴かねばならない立場の軍としては仕方のないことだったろう。

 

 巴、蜀はともに独立した地名である。巴は現在の四川省重慶の周辺、蜀は成都の周辺にあたる。現在でこそ大都会の両都市ではあるが、紀元前のこの時代では、開発などは進んでおらず、流刑地として使用されることが多かったようである。

 咸陽から巴蜀に至る途中の漢中もまた地域名であり、南鄭(なんてい)という城市がその中心とされる。南鄭は周代より開発された歴史の古い都市であり、秦の代になってれっきとした漢中郡の郡都とされた。

 しかし咸陽から南鄭への道は山や川に遮られ、人がひとり通れるような桟道しか設けられていない。桟道は断崖に宙ぶらりんに設置され、場所によっては人がカニのように横歩きしないと通れないところも多く、また高所に築かれた桟道から下を臨めば、生きた心地もしない。

 

 劉邦に与えられた土地は、そんな所であった。しかし情勢を考えれば、嫌だと言って関中に留まることなど許されず、受け入れるしかない。

 劉邦は前途の多難さを覚悟しつつ、漢中行きを決めた。これにより、劉邦は今後漢王と称されることになる。

 これが紀元前二〇六年のことであり、この年が漢の元年とされた。

 

 桟道には馬や車を通す余地はない。漢王麾下の三万の兵士たちはいずれも徒歩で荷物を背に負い、不安定な桟道を風に煽られながら通るしかなかった。

 何人もの兵士が無惨にも谷底へ落ちていった。無駄死に、というよりほかなく、自然、逃亡する者が相次いだ。軍全体にやりきれない諦めの気持ちが充満し、ささくれができ始めた感情は互いに衝突した。

 こうして軍内は些細なことで揉め事が多くなった。

 

 ある日、韓信と同じ連隊に所属する兵のひとりが、普段からそりの合わなかった上官を故意に谷底へ突き落とした。新参者だった韓信は事情をよく知らされていなかったが、その上官は常々部下の兵士に対する態度が傲慢で、目に余るものだったらしい。手を下した者はひとりであったが、実際は連隊内の総意であった。

 そこで兵士たちは犯人をかばい、詰問されても容易に口を割ろうとはしなかった。

 事態を重く見た幹部たちによって処断が下され、韓信の所属するその連隊は全員斬首刑に処されることが決まった。連座制を適用されたのである。

 

 一同は急場作りの刑場に引きずり出され、順番に首を刎ねられていく。処刑の立会人として、夏侯嬰がその場にいたのを韓信は認めた。

 すでに十三名の仲間の首が斬られ、次に自分の番を迎えた韓信は、我慢できずに、低い声ではあるが、しかし力強く訴えた。

「……主上(漢王、すなわち劉邦のこと)は、天下を望まないのか。大業を成就させたいと思うのであれば、いたずらに壮士を殺すはずがなかろう。しかし主上が天下を望まず、この地でその生涯を終えるおつもりであれば、斬られても仕方あるまい」

 

 その声が夏侯嬰の耳に入った。

 軍が順風満帆なときは、気にも留めなかったかもしれない。しかし士気が衰えているときは、このような生意気な意見も力強く感じられた。夏侯嬰は興味を示し、処刑人をとどめ、韓信の前に立った。

 

「……お前、よく見るといい面構えをしているな」

 夏侯嬰はしばし考え、やがて得心したように頷くと、周囲に向かって命令した。

「この者を釈放せよ!」

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