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第 一 部

 

鴻 門 の 会( 続 き )

 

 

 翌朝、劉邦は百余騎を従えて会見の場の鴻門に姿を現した。

 しかし幔幕(まんまく)の中に入れるのは、劉邦その人以外は張良のみで、残りの兵士たちは遠く軍門の外で待たなければならない。

 

 劉邦と張良はおずおずと幕の中に入り、続いて項伯、范増の二人が幕の中に入っていく。昨晩項羽に献策した三名のうち二人が会見に同席することとなったわけだが、残りのひとりの韓信はいつものように幕の外で警護の任を命ぜられた。

 

 最後に項羽が幕の中に入った。

 表情は険しく保っているが、実はこのときまで劉邦をどう処すべきか、迷っていた。

 

――不遜な態度をとるようであれば、斬る。

 幕の中に入ったと同時に、項羽はそう心に決めた。

 

 ところが劉邦は項羽が幕に入った瞬間、地べたに這いつくばるようにひれ伏し、傍で見ているほうが気恥ずかしくなるほどの大げさな素振りで許しを請い始めた。

 

「お許しを!」

から始まり、

 

「臣(わたくし。自分を相手より下に見立てた一人称)は将軍と力を合わせて秦を攻め、将軍は河北に戦い、臣は河南で戦いましたが、まさかまさか自分のほうが先に関に入ることになろうとは、想像もしておりませんでした。ここで将軍とふたたび相見えることになろうとは……臣などは河南の地でのたれ死ぬ運命だとばかり思っておりましたが、たまたまこうして悪運強く生き残り、関中に入ることができた以上は、将軍が到着されるのを待ち、すべてのご判断をお任せしようと考えておりました次第です。臣が聞きましたところ、臣が宮殿の財物を掠め、宮女を犯しているという噂があるようですが、それはすべてでたらめです。おそらくは小人が臣のことを中傷し……」

と、項羽が黙っていれば際限もなく謝罪の言葉を垂れ流し続けた。

 

 項羽は、完全に気勢をそがれた。

「もうよい。君の言う小人とは君の軍の左司馬で曹無傷という男だ」

 

 このひと言を聞いた劉邦は、

――曹無傷め!あの野郎……あとでどうしてくれよう!

と内心で毒づいたが、決してそれを表情には出さなかった。

 

「その曹無傷とやらの中傷がなければ」

 項羽は劉邦の肩に手を置き、

「どうしてわしが君を疑ったりしよう」

と言って、自ら劉邦を席へ案内した。

 

――たいした男だ、沛公は……。私が沛公の立場であれば、あそこまで自分をおとしめることができるだろうか。いや、とても無理だ。項羽が単純な性格で、泣き落としに弱いと知っていても、やはり無理だ。ああいう男は生き残るためにはどんなことでもするに違いない。ある意味では項羽などよりよほど恐ろしい存在ではないか……。

 

 幕の外で聞き耳を立てていた韓信はこの会見は項羽の負けだ、と予想した。

 

――この調子なら今日は波乱はなさそうだ。

 韓信はそう結論づけたのだが、ここまでは会見の第一段階に過ぎなかったのである。

 

 

 態度を和らげた項羽の命により、酒宴が催され、各人はおのおの与えられた席に座った。

 上座は項羽と、項伯である。次座は范増、三座に劉邦、末座に張良が座り、酒や料理が供され

 

 項羽は物も言わず、喰い始め

 いっぽう劉邦は食事が喉に通るはずもなく、儀礼上箸を取り上げてはみたものの、もしや毒でも混入しているのではないかと思い、気が気ではない。

 張良に至っては末座で畏まっているばかりで、食べようともしなかった。

 

 自然、話題のない酒宴は盛り上がらず、項羽がただただ酒を飲み、肉を喰らう音ばかりが場に響く。

 

――おろかな男よ。狡猾な劉邦は項羽の性格を知って、弱点を突いたのだ。項羽は無関心な風を気取り、喰ってばかりいるが……情にもろい男よ。敵対する相手には容赦ないが、自分にすがる相手には手を出せない。まったく始末に負えん。

 范増は無駄だとは思いつつ、腰に下げてある玉の飾りを振って音を出し、項羽の注意を誘った。今がそのときだ、殺せ、というのである。

 

 しかしもはやその気のない項羽は、案の定聞こえぬ振りをして喰ってばかりいる。仕方なく范増は座を立って、幕の外で待機していた項羽の従弟の項荘を呼びつけた。

 

「項荘、居るか……耳を貸せ」

 幕の外に現れた范増と項荘の姿を認め、韓信はわけもなく緊張を感じた。

 

――む……范増老人。なにか企んでいるな……。この老人のことを失念しているとは、私もうっかりしていたものだ。

 しかし、二人が話している内容は、韓信には聞こえない。

 

 韓信にできることは、なにもなかった。

 

「できません。……とても、そんな……」

 項荘は消え入りそうな声で范増に訴えた。しかし范増は目を怒らせ、

「やるのだ! やらないというのならお前の一族をみな虜にしてやる。簡単なことだ。座を盛り上げましょうとかなんとか言って、剣を持ってひらひらと舞えばいい。その隙に劉邦を刺すのはわけもないことだろう」

と項荘を恐喝した。

 

「よしんばそれが成功したとして、将軍はそれを了承しているのですか。将軍が沛公を許すと言っているのに、私が刺し殺すなど……不義ではありませんか」

「将軍は知らん。だが心配するな。従弟のお前がやることなら将軍はとやかく言わない。もし万が一のことがあれば、わしが弁解してやる」

 

 項荘はまだふんぎりがつかない。

「しかし、なぜそこまでして……」

「将軍は情に流されやすいお方だ。劉邦は今後のために除かねばならぬことがわかっていても、その場の感情で決断を鈍らせておられるのだ。楚の天下のためには将軍が誤った判断をしたら臣下がそれを正さねばならぬ。今がまさにそのときなのだ。決断しろ、荘!」

 

 項荘が頷くのを認めると、范増は幕中に戻っていった。

 

 やがて幕中に入った項荘は、ひとしきり項羽と劉邦の長寿を祝う言葉を述べ終わると、

「陣中のこととてなんの座興もないのは寂しいこと。ここは私がひとさし剣舞をご覧にいれて宴の余興といたしましょう」

と言って、腰から剣を抜いた。

 

――まずい!

 末座の張良の目が光った。劉邦もそう感じ、酒器を持った手が震え、酒がこぼれた。

 

 

 剣はゆっくりと宙を舞い、空を斬っていく。しなやかな項荘の手がそれを追い、次いで足が流れるように運ばれていく。優雅な身のこなし。緩やかな律動で舞う項荘の姿は、時の流れを忘れさせるかのようであった。

 ひゅぅ! 

 剣が風を切る音が劉邦の耳元に届いた。驚いた劉邦が顔を上げると、項荘の目が鋭く自分を見据えている。

 

――殺される

 そう感じた劉邦は恐怖のあまり尻の穴が緩み、座った状態であるにもかかわらず、よろめいた。手をつきながら体を支えるのがやっとである。

 

 

「相手もなくひとりで舞う剣舞などつまらぬもの。私が相手をしよう」

 そこで剣を抜き、立ち上がったのは項伯だった。

 

 項伯は項荘の調子に合わせて舞い始め、項荘がつつ、と劉邦に近寄る仕草を見せると、項伯が舞いながら身を呈して劉邦をおおいかばう。それが幾度となく、繰り返された。

 

――この調子では沛公が死ぬまで剣舞が続く。

 張良はそう思い、幕の外に出て軍門まで走った。

 

 

 

 軍門の外には劉邦の配下たちが待機している。この日、劉邦の供をして配下の指揮を任されていたのは参乗(貴人の車に陪乗して守る者)の樊噲であった。

 

 樊噲は劉邦の旗揚げ以来の忠臣で、体つきは大きくて肉付きがよく、胸回りが非情に厚い。両耳の下から短めに生えた顎髭が無骨な印象を与え、外見的には熊のような男だった。

 あまり複雑なことを考えるのは苦手であったが、今日という日が劉邦はおろか、自分の運命を決める日であることが、この男には感覚的にわかっている。いざという時にはあの軍神のような項羽と刺し違える覚悟をしていた。

 

「樊噲!」

 自分のいる軍門を目指して走ってくる張良の姿が見えた。ただごとではなさそうなその姿に、彼は胸騒ぎを覚えた。

「張子房どの。幕中の首尾はどうだ」

 

 樊噲の問いに張良は息を切らしながら答えた。

「どうもこうもない。殺される寸前だ……。樊噲、今こそ……今こそ沛公危急の時なのだ!」

 

 樊噲はそれを聞くなり、盾を持ち、剣を抜いて猛然と軍門に突入した。楚の衛士たちがそれを止めようとしたが、樊噲は走りながら衛士たちに盾をぶち当てて残らず地に突き倒した。

 

「行ったぞ! 誰か止めろ!」

 幔幕の周辺の警護に当たっていた韓信の耳にその声が届いた。見ると猛烈な勢いでこちらへ向かってくるひとりの武人の姿が見える。

 

――あれは、劉邦の忠臣に違いない。なんという迫力!

 樊噲の走った道の後には砂塵が巻き起こり、それが渦を巻いて竜巻が起こっているかのように見えた。たったひとりの突入がまるで百騎程度の騎馬集団の進軍のように錯覚させる。

 

「来るぞ。せき止めろ」

 楚軍の警護兵たちは樊噲の鬼気迫る姿にたじろぎながらも、防御の姿勢をとり始めた。

 

 しかし、それを見た韓信は、

「やめろ。通してやれ」

と言って兵たちをとどめた。

 それに楚兵たちは韓信が例によって臆病風にふかれたものと思い、反発した。

「通していいわけがあるまい。あの様子では将軍に斬りかかるぞ!」

 韓信はそれでも意見を変えず、兵たちに向かって言った。

「黙って斬られる我らが将軍ではないだろう。将軍は、武勇の人。あの烈士にも負けることはないはずだ」

 

 実はこのとき韓信は、項羽が樊噲に斬って捨てられれば、それはそれでよいと考えたのである。

 

 それでも防御しようとした兵は存在したが、彼らはすべて樊噲の盾で押し返され、吹っ飛んだ。樊噲はその勢いのまま幕を斬り破り、中へ突入を果たす

 

 突然の闖入者の出現を受け、とっさに剣の柄に手をかけた項羽は、

「何者だ」

 と凄んでみせた。このとき懸命に樊噲の後を追いかけてきた張良がようやく追いつき、

「この者は沛公の参乗、樊噲でございます」

と息を切らしながら説明した。項羽はこれを聞いてどういうわけか喜び、

「ううむ! これこそ壮士。酒を与えよ!」

と言って、杯になみなみと注いだ酒を樊噲に与えた。

 

 項羽は敵味方を問わず、このような勇壮な男を自分以外に見たことがなかったのである。

 

 樊噲は上機嫌の項羽に酒を与えられ、豚の肩肉を供せられ、それを軽く平らげると項羽に対して意見しだした。

「将軍は功ある沛公に恩賞を与えないばかりか、小人の中傷を真に受け、沛公を殺そうとしている。将軍は間違っておりますぞ。……私がこんなことを言えるのは他でもない。……死を恐れぬからだ」

 

 項羽はとっさに返答ができず、

「まあ座れ」

などと、およそ彼らしくない言動をしたという。

 

 おそらく項羽は劉邦を許すと決めたのにもかかわらず、范増が殺そうとするのを快く思っていなかったに違いない。樊噲の乱入を潮に幕中の殺人劇を終わらせようと思ったのだろう。

 

 しかしそんな項羽の思いなど知る由もな

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い劉邦は、状況が一段落したのを見計らうと、なにも言わず席を立った。

 

 誰もが厠へ行くものと思った。

 が、劉邦はそれきり戻らなかった。

 彼は恐怖のあまり、遁走したのだった。

 

 張良はあとを取り繕い、項羽に白璧(はくへき・宝石の一種)一対、范増に玉斗(ぎょくと・玉でできた酒器)を土産に贈り、鴻門の陣営を辞した。

 

 項羽はそれを受けると幕を抜けて去ったが、ひとり残った范増は贈られた玉斗を地に投げつけて叩き壊し、さらに剣で打ち叩いて粉々にしながら嘆いたのだった。

 

「ああ、楚は小僧どもばかりでどいつもこいつも言うことを聞かない。項羽をはじめ一族はみな、劉邦の虜になるだろう! なぜ項羽も項荘もやつを殺せなかったか!」

 

 韓信は范増のその姿を幕越しに垣間見て、思った。

――項羽や項荘が沛公を殺せなかったのは、無理もない。彼らは武人だからだ。武人が謀略で人を殺すことを潔しとするはずがない……范増老人のような人生を達観したような者ならいざ知らず……。

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