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第 二 部

 

京 ・ 索 の 会 戦( 続 き )

 

 

 劉邦が自分をどのように考えているかは、韓信にとっては大きな問題ではない。自分は軍事を司るよう命じられている。それはすなわち信用されて任されていることだ、としか考えなかった。

 

 任されたからには与えられた条件で最大限の結果を出すことだけを考え、それによって生じるであろう、後の政治的な動きについては興味を示さない。世間知らずなようでもあるし、身の処し方がやや不器用だとも言えそうである。

 

 かつて栽荘先生が韓信のことを燕の太子丹に不器用な点が似ていると称したのはこの辺のことを言ったものかもしれない。

 

 しかし兵権を与えられた韓信は、このときも存分に能力を示した。

 滎陽の東にある邑が京、南のそれが索と呼ばれる。このふたつの邑の間には迫り来る敵の様子が一望できるほどの平野部が広がり、韓信はこの平野部を楚を迎撃する決戦場と定めた。

 

 広い平原では騎兵や戦車が効果的である。韓信はそれをわかっていたが、陣の前衛を歩兵中心に固めた。なおかつ全軍を真四角の方陣に固め、その外側にはすべて歩兵を配している。騎兵や戦車は一箇所には集めず、一見無作為であるかの様に不規則な形で随所に散らし

 そして韓信自身は方陣の中心に身を置

 これが司令部であり、親衛隊を中核とした韓信直属の部隊が位置する。

 後方には韓信に守られるように漢王劉邦がおり、戦車の台上に屹立している。その脇には参乗の樊噲が、御者台の上には夏侯嬰がいつもと同じように侍る。張良は劉邦の戦車の横に騎馬で位置していた。

 さらにその後ろは盧綰の率いる一隊が殿軍としてしんがりを受け持つ。両翼は右翼に重鎮の周勃、左翼に若手の灌嬰(かんえい)がそれぞれ率いる隊が担当した。絹商人あがりの灌嬰の下には、もと秦の騎兵隊を精鋭として配置した。

 

 斥候から得た情報によれば、楚は軍を結集して滎陽に攻め入らんとしており、その数は十万に及ぶ、ということだった。これに対して漢軍は四万程度でしかない。圧倒的不利な条件でありながら、韓信がこの地で楚軍を迎え撃とうと決めた理由は、斥候の伝えたもうひとつの情報にあった。

 

「楚軍は、十万の兵をふたつに分け、二段構えの策をとっている」

 この情報を韓信は比較的早い時期に入手し、策を練ることができた。

 

 楚の目論みは、第一陣と第二陣に分かれた時間差攻撃で漢軍を段階的に追い込もうというものであり、常に一人で二人以上の敵と相対する楚兵の勇猛さを考えれば、効果的な作戦であった。第一陣が漢軍と互角以上の戦いをすれば、第二陣は予備兵力として温存が可能である。いくら楚兵が勇猛だといっても、ひとたび戦いになれば損耗はつきもので、できるだけそれを抑えたいという項羽の気持ちがあらわれた陣形である、と韓信はみた。

 

「項王の個人的武勇は凄まじいが、将としては凡庸である。……麾下の兵の勇猛さに頼りすぎている」

 韓信はそう言い、ふたつに分かれた楚軍を各個撃破する決心を固めた。

 

 情報は時の経過につれて、明瞭になっていく。このたび項羽は自ら出征し、第二陣の中軍に属していることが判明した。そして、第一陣の将の名がわかったのは戦闘開始のほんの数刻前である。

 

 第一陣の将は、鍾離眛であった。

 

――眛……。ついに我々も剣を交えることになったか。この日が来ないことを願っていたが……。願わくば、私の前に姿を現すな。

 

 韓信は思ったが、作戦を開始するにあたって、そのような思いを頭の中から払いのけた。

――なるようにしかならない。

 そう思うしかない。

 

「前衛の部隊はかねてよりの指示どおりに動け。両翼の部隊は合図を聞き逃すな。我々はこれより楚軍を迎え撃つが、これは今後の漢の命運をかけた戦いであると言ってもいい。この戦いに敗れれば、我々は滎陽はおろか、関中までも失うであろう。そのため、諸君には心して当たってほしい。また、諸君には覚悟してもらいたいが……確実にこの中の何名かは命を落とす。それが今の我々の置かれた立場というものである。だが、悲観するな。我々は弔うことを忘れはしない。……では諸君、準備はいいか」

 

 韓信の作戦前の演説は、決して兵たちを煽動するような熱い口ぶりではなかったが、逆にそれが緊張感を高めた。熱し過ぎず、冷め過ぎず、漢軍は適度の精神状態で楚軍を迎え撃つことになった。

 

 楚軍の進撃する姿が彼方に見え始めた。見通しのよい平野部では、伏兵など用意できず、お互いに正攻法で競い合うしかない。正面からぶつかり合って激しく火花を散らす。武人が武人らしく戦う絶好の機会であった。

 

 しかし、韓信は自分に武人らしさなど求めておらず、このため柔軟な思考でこの難局を乗り切ったのである。

 

 

 楚軍の陣形は漢軍と同様に方陣を組んでおり、幅と厚みのある密集隊形であった。同じ陣形をとっている以上、兵の質が高い楚軍の方が有利である。

 にもかかわらず、韓信は楚軍の先鋒の姿が視界に入るやいなや、ためらいもなく前衛の部隊に突進を命じた。

 

 両軍の前衛同士がはげしくぶつかり合う。しかしそれも長くは続かず、質でも人数でも劣る漢軍は押され始めた。

 

 漢軍の前衛部隊は中央から切り崩され、左右に分断されるように陣形がふたつに割れた。中央突破を許したのである。

 ふたつに割れた部隊はそのまま再結集することなく、抵抗も散発的である。これをいいことに楚軍は漢軍の中央を奥深く突き進み、ついには中軍に位置する韓信の陣に肉迫した。

 

「漢の司令官だ! あれを討て」

 楚兵たちの叫び声が韓信の耳にも入る。中央を深くえぐられた漢軍は、このとき進退極まったかのように見えた。

 

 しかしこれこそ韓信が仕組んだ罠だったのである。

 

 韓信は前衛部隊を突出させて敵に当たらせたが、実はこの行為こそが擬態であった。あえなく敗れたかのように前衛部隊を左右に分断させた韓信は、この間にひそかに方陣をT字型に変形させた。周勃・灌嬰の両翼を前進させて横に広がる形にしたのである。

 

 そして左右にわかれた前衛部隊は、それぞれ両翼の部隊に吸収されていく。これによって陣形は変則的なY字型となった。

 

「合図の鼓を鳴らせ」

 韓信は命を発した。それを受けてさらに陣形の変化は続く。韓信の属する中軍は、楚軍の進撃を緩やかに吸収するようにさりげなく後退する。

 

「第二の合図だ。鼓の律動を早めるのだ」

 この合図を機に、両翼部隊は後退する中軍とは逆に前進を始めた。

 この結果、陣形は完全なV字型に変形したのである。

 楚軍は漢軍の中央に深く侵入したつもりでいたが、実際は左右を漢軍に取り囲まれていたのだった。

 

 韓信は楚軍がそれにようやく気付いたと見ると、両翼からの攻撃を強化し殲滅にかかった。そしてある程度楚兵の抵抗力を削ぐと、さらに陣形を変化させ、楚軍の軍列を完全に包囲した。

 

 陣形はO字型になったのである。

「よし。うまくいった。……後方の部隊が救援に駆けつける前に、取り囲んだ一軍を撃滅せよ」

 

 韓信の命によって一斉攻撃が開始された。情け容赦のない弓矢の斉射、脱出をはかる楚兵たちへ突き立てられる長槍、戦況は漢軍の圧倒的優勢となった。

 

 後方にいた劉邦は、指揮を執る韓信の背中を見つつ、

――信め。……思っていた以上に、やりおるわい。

と、感じざるを得なかった。

 またその隣の張良は、

――謀略なしの、正攻法だったはず……。不利な条件ながら我々は今、楚を撃ち破ろうとしている……。なかなかどうして……

と、舌を巻いた。

 

 しかし当の韓信は、作戦の成功を確信したわけではなく、また安心していたわけでもない。

 

――時間をかけすぎると、後ろから項王が来る。

 そう思った韓信は、親衛隊に進撃をともにするよう命じた。状況は漢による楚兵虐殺の場となっていたが、韓信はそれでも満足せず、敵将を捕らえることで一気にこの場の雌雄を決することにしたのである。

 

 

――こんなはずでは、なかった。

 

 包囲の輪が小さくなっていく中、鍾離眛は退路を断たれ、追い込まれていく。

 

 次第に兵との間隔が狭まり、密集の中に身を置きながらも、究極的な場面で感じられるのが孤独であることは、彼自身にも驚きだった。

 

 漢の指揮官が韓信であることは、彼にもわかっていた。今、この場に及んで思い出されるのは、過ぎし日の韓信とのやり取りであった。

 

(おまえのような臆病者が将になったとして、兵がついてくるものか)

 その臆病者に滅ぼされかけているのは、自分であった。

 

(私が将になったならば、味方の兵を死なせない。そのくらいの気構えはあるつもりだ)

 韓信はかつてそんなことを言った。その言葉の通り、味方の兵を数多く死なせたのは、彼ではなく、自分であった。

 

(眛、お前の目はひどく濁っているぞ)

――だからどうしたというのだ。目が濁ったとしても、それはこの乱世の中で人の死を大量に見てきた証拠だ。お前のように現実から目を背けてきたわけではない。

 

 人は死ぬ直前に過去のことを大量に思い出すものだという話を聞いたことがある。

――なんということだ! 今の自分こそが、それではないか。

 

 眛の心の中に、諦めに似た感情が浮かび始めたとき、部下の叫び声が耳に入った。

「将軍! 敵将と思われる騎馬の一団が、こちらに向かって突進してきます!」

 

 眛は我に帰った。死の淵から引き戻された感じがした。

「断じて来させるな! 逆に包囲して討ち取るのだ」

 

 

 漢軍に包囲され、絶望的な劣勢に立たされた楚であったが、それにもかかわらず進撃しようとすると彼らは抵抗した。

 

「カムジン、前を行け!」

 韓信はカムジンを先頭に立たせ、行く手を阻む楚兵たちをひとりずつ矢で射たせた。カムジンの短弓から放たれた矢は、正確に、無慈悲に楚兵の心臓を貫き、次々にその命を奪っていく。

 

 そして、やがて司令官らしき男の姿が韓信の目に入った。

 

「眛……」

 それは焦燥しきった鍾離眛の姿であった。

 

「韓信! わざわざおでましか。私に討ち取られに来たのか」

 

 韓信は強がりをいう鍾離眛の目を見ることができなかった。

「今に至ってそのようなことを言うな……。状況はすでに決している。降伏しろ、眛」

「降伏……情けをかけるな! ……斬ってみせろよ、信! どうせお前には斬れまい……。お前は昔からそういう奴だったからな! だが私は違うぞ! 遠慮なくお前を斬ることが……私にはできるのだ!」

 

 言い放った鍾離眛は剣を抜いて韓信に斬ってかかった。

 

 それを見たカムジンがとっさに韓信の前に立ちはだかり、短弓から矢を放った。

「うっ! ……」

 矢が眛の右肩に突き立った。はその激痛で剣を落としたが、痛々しい所作でなんとかそれを拾い上げようとする。

 

「やめろ、カムジン。……いいんだ」

 

 韓信はカムジンを抑え、さがらせたが、鍾離眛は再び突進し、韓信に剣を突き立てようとした。

 韓信はしかし剣を抜かず、手にしていた長槍をさかさまに持ちかえると、その柄の先で眛の腹を突いた。衝撃に耐えられず、眛はその場に転倒してしまった。

 

「汚いぞ、信! 剣で勝負しろ。……家宝の剣が泣くぞ!」

 しかし韓信はそれに答えず、全軍に撤収を命じた。後方に項羽の軍が到達するのを確認したからである。

 

 項羽はすでに散開した漢軍を深追いすることはせず、壊滅寸前となった鍾離眛の軍を救出して軍を返した。

 互角以上の兵数が予備兵力としてあるとしても、この戦いは項羽にとって、負け戦であった。戦いは流れが大事であり、その流れを覆すのには倍以上の兵数が必要だったのである。

 

 かくして項羽率いる楚軍の撤退により、漢は滎陽以西を勢力圏として確保することができたのだった。

 

 

「なぜ? 将軍。なぜ斬らなかった……のですか?」

 

 カムジンは韓信に質問したが、はかばかしい答えは得られなかった。

「うむ。最初は斬るつもりでいた。しかし、相手は鍾離眛だ。……彼とは無二の親友だ。幼いころから人慣れしなかった私の唯一の友……その彼を、私が……どうして斬れよう?」

地図陽

 まだ若く、戦争の理不尽さも深くは知らないカムジンには、無二の親友が敵味方に分かれていることの意味がどうしても理解できなかった。

 カムジンはさらに質問しようとしたが、表情に暗い影をおとす韓信に、それ以上なにも言うことはできなかった。

 

 

 一方の鍾離眛。彼は誰にも聞こえないよう気をつけながら、小声で呟いた。頭で考えるだけではなく、声に出さないと気が済まない。そんな感じだった。

 

「信……どうして斬らなかったのだ。お前が私を斬ってくれたなら……私は恨まないだろう。しかし生かされた以上、再び戦場でまみえることになったら、私はお前を斬らねばならない。私はそれが……どうしようもなく嫌でたまらないのだ。お前が私を斬ってくれたら……そんな思いとは無縁でいられたのに」

 

 鍾離眛は右肩に深手を負い、介抱されながら、ひとり涙をこぼしてつぶやいたという。

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