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第 三 部

 

九 つ の 罪( 続 き )

 

 

「一方彭越は」

 張良は気を取り直して、話を続けた。

「とにかく梁に固執した男です。彼には天下を統一するような気概はありません。秦のような広大な帝国は彼の常識から外れたものであり、旧来の戦国諸侯国こそが彼の理想なのでありましょう。つまり、彼には項王亡き後の梁の領有権を保証してやることです。きっと言うことを聞くでしょう」

「ふむ。して韓信は、どうする?」

「同じです。彼にも土地の領有を正式に認めることです。広大な領地を。しかしそれでいて、その権力が大王を超えるものではないことであることが重要です。それによって、彼は安心するでしょう」

「餌で釣り上げるようなものだな。結局は韓信と彭越を同列に置くということか?」

「然り。皮肉ですな。欲の少ない韓信と、欲の塊のような彭越。この二人の得るものが同じだということは……。しかしこの二人を動かすには同じ口調では駄目です。彭越には協力を促すように、韓信には強要するように言わねばなりません」

「逆ではないのか……ますます皮肉だ。しかし、韓信に臣下としての立場をわからせることは、彼自身にとっても良いことだろう。子房に任せる」

 

 かくて、韓信には陳(泗水と睢水が分かれるあたり。現在の淮陽)から以東、海に至るまでの地を与え、彭越には睢陽から北、穀城(現在の東阿)までの地を与えることが正式に宣言された。

 

 彭越はこの報を聞いて手放しで喜び、参戦を決意したという。

 しかし、韓信はそうはいかなかった。

 

 韓信の手には、使者から託された書簡がある。それはいわゆる命令書であったが、彼はそれを一読して、深いため息をついた。

「書簡には、なんと?」

 様子をみて不審に感じた曹参は、韓信に尋ねた。韓信はそれに対して苦笑いで応じ、曹参にそれを渡した。読んでみよ、というのである。

 

「これは、命令書に違いないが、同時に私を糾弾する書簡である。凝っていてよくできた文章だ」

 曹参が目を走らせてみると、書簡には以下のように記されていた。

 

「……積年の漢と楚の争いの中で、足下の功績は甚だ大きく、充分に賞賛されるべきものである。しかし漢王たる余は長引く戦乱の中で、足下の働きに対して充分な恩賞を与えることを怠ってきた。そこで、今余は足下の功績をいちいち列挙し、それに対する恩賞を与えようと思う。

  足下は漢中において大将軍の任を与えられ、その権限に基づき、関中反転の計を指揮した。すなわち足下自身が断りもなく焼き尽くした桟道を修復すると見せかけ、古道を用いて秦の地を征服したのである。これにより雍王(章邯)を囲むことに成功したが、桟道を修復する作業には多大なる費用、また多くの人命が失われた。しかし、功績の甚大なるを鑑みて、これは不問に処す。

  足下は大将軍として函谷関から東方へ進出する兵をよく指揮し、首尾よく河南、殷、韓のそれぞれの王を討ち破った。このとき足下が韓を制圧する際、旧韓の王家の復権を援助したため、韓は王国の体を維持し、漢の直轄の郡となることはなかった。しかしこれは張良の意に沿ったものであると認められるので、やはり不問に処す。

  余が彭城の占拠に失敗し、三万の楚兵に追われることになった際、足下は余の逃走を助け、素晴らしき才幹で楚軍を撃退した。これは甚だ賞賛されるべき功績で、余が今に至り存命であることも、ひとえに足下のこのときの働きによるものである。しかしあえて言えば、余が敗走を始めてから行動を始めるのではなく、事前にそうならないよう戦略を練るのが足下のそもそもの役目であった。だが、余が足下に命を救われたのは事実であるため、今になってこのことをとやかく言うつもりはない。

  滎陽にて軍容を整えた余は足下の献策に基づき、京・索の地で楚軍を迎え撃ち、その西進を止めることに成功した。このときの指揮官としての足下の働きは筆舌に尽くし難く、まことに見事だったと言えよう。しかしながら、このとき敵将鍾離眛を討ち逃したことは、足下らしからぬ失態である。だが、これも足下の軍功の大きさに比べればほんの小さなことなので、目をつむる。

  魏王豹が老母の看病と称して背信した際、余は足下に事態の収拾を命じたが、足下は黄河を挟んで正面から魏豹と対陣すると見せかけ、市場で瓶を買い集め、これを急造の筏にして後背から渡河し、見事魏豹を虜にした。実はこのとき、余は魏豹に裏切られることをそれほど恐れていたわけではない。ただ、魏豹のような男が裏切りに成功すると、第二、第三の魏豹が漢軍の中に現れる。余はそのことを恐れたのである。このとき、足下のとった処置は最善であった。すなわち魏豹を殺さず、裏切りに失敗した男の見本として残したことである。ただし余はこのとき魏豹の娘とされる人質を足下に預けたが、足下はこれを自身の幕府に招き入れたまま返さず、なにを思ったのか愛妾として扱っていた節がある。このことは機会があれば、ぜひ問いただしてみたいところである。

  井陘口において足下は陳余率いる趙の大軍と戦い、これを見事破った。足下はこのとき新たな趙王として張耳を推挙し、余はそれを認めた。そしてもとの王である歇を殺さず捕虜とし、余はそれも認めた。しかし、敗軍の将である李左車を赦したことは、聞かされていない。足下は敵将の生殺与奪の権を握っているので、誰を生かし誰を殺すのも自由であることは確かであるが、それにしても敵軍の中心的な立場にある人物を無条件に赦すとはどういうことか。李左車を中心に漢に敵対する輩が集結するかもしれぬ、ということを足下はこのとき考えるべきだった。しかし、現在に至るまで李左車はなんの動きも見せていないので、結果的に足下のとった処置は問題がなかった、とみなすことにする。

  修武の地ではさまざまなことがあったが、余は足下に趙の相国の任を与え、斉へ赴かせた。無数の武勇を誇る足下が率いる軍の前に、斉の七十余城はいずれも屈服し、田一族は事実上、潰えた。また足下は介入をはかる楚軍を撃退し、猛将竜且を斬ることで、さらに武勇の数を増やした。しかし、余が派遣した酈食其を救出できなかったことは、足下の輝かしい武勇に一点の曇りを生じさせる出来事だったと言えよう。しかし、これについて余は足下を責めはしない。弁士に過ぎない酈生と勇者の足下のどちらを生かすべきかとなれば、余は間違いなく足下を生かす。

  聞くところによれば、足下のもとに項羽の使者が訪れ、足下を誑かして楚に帰順させようとしたらしいが、賢明なる足下はこれを謝絶し、余に対する臣従の意を明らかにした。余は常々足下の意志を固く信じており、これから先もそれは変わらない。しかし、あえて言わせてもらえば、このとき足下は使者を斬り、その勢いをもって軍を動かし、楚を討つべきであった。斉の国内の問題に頭を悩ませていることはわかるが、余の最終的な目標は、漢という国号で天下を統一することであり、斉国の継続的な存続ではない。よって斉が多少不安定な状態にあるといっても、まずは最大の敵である楚を討つことを最優先に考えるべきであった。しかし、このことについて張良や陳平は口を揃えて言う。足下が心を変え、敵対しようとしないことこそ、漢の最大の強みなのだと。したがって余もそう考え、足下の判断と行動を支持することにする。

  これに先立ち、足下は斉の国民を服従させるには自分に与えられた権力が不足だとし、王を称した。これにより、漢王たる余と斉王たる足下は身分上同格となった。しかし足下が以前と変わらず臣従の態度を示していることに余は感謝し、満足している。願わくば、それが未来永劫続くことを望んでいるが、このたび足下は余が命じたにもかかわらず、会戦の場に現れなかった。あるいはこのことは足下の心変わりの結果ではないのか。このような疑念が余の頭に浮かばぬよう、足下は努力すべきであり、またその義務がある。しかし、寛大な余はこのことも不問に処す。

 以上のように足下のこれまでの功績は甚だ大きい。しかし、戦乱の世とあって、これまで余は足下の功績に報いることができずにいた。よって正式に足下の斉国の領有を保証することとする。すなわち、陳から東の海に至る地は、すべて足下のものである。

 しかしこれは、足下が遅れることなく次の会戦の場に現れ、正しく兵を指揮した場合に限ってのものである。つまり、足下の行動が余に再び疑念を抱かせるようなものであったなら、次は不問に処すことはないと思え。

 足下の正しき行動を期待する。  漢王劉邦」

 

 

 文書の末尾には印が押されていた。印が押されてある以上、この文書が私的な手紙などではなく、公式な命令書であることを意味している。

 しかし、この時代の命令書とは要点だけを端的に記しているものが多く、韓信も曹参もこのような、くどくどと長い文章を綴ったものは、見るのが初めてであった。

 

「……どう思う?」

 韓信の問いに曹参は率直に答えた。

「あなた様の功績に対して賞賛していながら、それにいちいち注釈をつけていますな。漢王があなたを信頼するかどうかは、次の戦いの結果にかかっている……今に至るまであなたは功績を重ね続けてきたが、漢王はそれに満足しているわけではない……そういうことでしょう」

「そうだろうな……しかし」

 

 韓信は手で地面の砂を一握りすくいあげ、それをひとしきりもみ砕いたと思うと、勢いよく放った。いらつく心を落ち着かせようとする素振りであった。

「私は、都合よく振り回されているだけのように思える。今さら斉国の領有を認められてもな……失った者が帰ってくるわけではない。斉の地をもらったところで、そこに蘭が待っているわけではないのだ」

 

 曹参は、言葉を失った。蘭の死に関して、韓信がその気持ちを吐露したのは、これが初めてであったことに気付いたのである。

「……お察しいたします」

 そのひと言しか返しようがなかった。

 

「うむ。しかし、本当に私の気持ちを察してもらいたい相手は、君ではなく漢王だ。私は、あの方に忠誠を誓ったことで……蘭や酈生を失い……カムジンを殺さねばならなかった。しかも私はもとより……斉王になりたくて戦ってきたわけではないのだ。戦いに勝つことは確かに自分の虚栄心を満たす。しかしそれが欲しくて戦ってきたわけでもない。私はただ……戦いに勝つことで他人から嘲りを受けないことを望んだ。しかし、結果はこうして漢王に軽んじられる存在と成り下がっている」

「…………」

「出会った頃の漢王は、私が寒がっていると服を着せ、暑いときには汗を拭いてくれたりもしてくれた。腹をすかしていると見れば、食事を用意し、道で出会ったときには車に乗せてくれた。しかし、あの方は……お変わりになり、そのような気持ちを示すことをしなくなった」

「領地を保証していらっしゃいます……それは、汗を拭いたり、服を着せたりすることよりもはるかに大きな恩賞でございましょう」

「それはそうだが、しかし漢にこの地をもたらしたのは、漢王の力によってではない。酈生と……はばかりながら、私の力だ。いや、私と酈生はそもそも漢王の命によって行動したのだから、その功が漢王に帰せられるべきだということはわかっている。だが、そうとわかっていても言わずにはいられないのだ」

 

 臣下も韓信のような地位になってくると、結果だけが重視される。功績は功績のみ評価され、それに伴う苦労や、失った犠牲などは無視される。

 

 大樹は自分の周辺に子孫を残すべく種を飛ばすが、種が成長して自分と並ぶような高さに育つことを期待しているわけではない。自らの作る影が日の光を遮り、子孫の成長を阻害することを知っているからだ。

 このため成長半ばで枯れ朽ちる子孫は、親である大樹の養分となって短い一生を終えるのである。人々は大樹の咲かせる美しい花や、美味なる実にのみ感銘を受ける。しかし、その裏に犠牲が伴っていることに気付く者は少ない。

 

 このとき曹参が受けた韓信の功績の印象がそれであった。韓信自身は自分の功績のために犠牲となった者を思い、自責の念に駆られているが、その功績があまりに偉大で美しいものであるため、他者はなぜ韓信が自分を責めるのか理解できないのである。そして、このときの他者とは漢王である劉邦を指すのだった。

「……では、このたびは命令書に従わず、遠征しないということにいたしましょうか」

 曹参はそう言って韓信の返答を待った。しかし、韓信はなにも言わない。

「もし、それがまずいということであれば、王ご自身は今回臨淄に残り、兵は私が引き連れていくことも可能です」

 

「……いや、それはよくない。命令を与えられたのは私であって、君ではないからだ。仮に私が君に任務を代行させたとしたら、私は忠誠心を疑われるばかりか、項王との戦いを前に逃げ出した男として、嘲りを受ける。君の気持ちはありがたいが、ここはやはり私自身が行かねばならないだろう」

 

 漢王ははたしてこのような韓信の性格を見込んで命令を発したのだろうか。曹参の見る限り、韓信はそれほど劉邦を尊敬しているわけではない。よって忠誠心も口で言うほど、あるわけではなかった。

 ただ韓信にあるのはどんな無理な命令も実現させる能力であり、本人もそれを自負しているのである。命令に対して「できません」と返答することは、自身の能力を否定することであり、劉邦にしてみれば、韓信のそのような性格を理解していれば、どんな命令でも押し付けることが可能なのである。

 

 しかし、このことは逆に韓信を信用していることの証でもある。かつて韓信は項羽の配下にいたが、項羽が韓信を信用して任務を与えることがなかったため、彼は漢に転属した。彼が漢に不満を持ったからとして、再び楚に帰属するとは考えられず、残された道は自立するばかりである。

 かといって放っておいては、やはり信用を形にあらわすことができない。劉邦の立場としては韓信を信じて命令を出すことだけが、自分が上位に立つための手法であるのだった。なぜなら、軍事的能力において、韓信は劉邦を上回るからである。韓信に忠誠を誓わせるには、軍事によってではなく上位者の威厳ある態度を示す方が効果的なのである。

 

――斉王は、野心の少ないお方であるから助かっているが……。斉王の自制により、漢は命脈を保っているといっても過言ではあるまい。しかし、天下に項王が存在しているうちはまだいい。項王亡き後、漢王は斉王になにを命令するのか。そのとき漢王はどうやって斉王の上に立とうとすることができるのか……。

 

 曹参は将来劉邦、韓信双方に不幸が訪れることを思い、頭を悩ました。しかし、彼にはどうすることもできない。

 このようなとき、魏蘭が生きていれば……少なくとも韓信をうまくなだめ、激発を抑えることは可能なはずであった。

――漢王と斉王の争いが起きれば、私は立場上漢王の側につかねばならぬ。斉王と袂を分かつのは心苦しいばかりだ……。いや、そんなことは言っていられない。斉王の力をもってすれば、漢王はおろか私自身も滅ぼされるに違いない。どうか……なにも起きてくれるな。

 

 

 楚を討つにあたって、劉邦は韓信・彭越の両軍を招集するのに先行し、黥布に淮南の地を制圧させている。黥布は劉邦の従弟である劉賈(りゅうか)とともに楚の南方地域に侵攻し、ついに旧都寿春を陥落させた。さらには楚の大司馬周殷(しゅういん)を説き、これを寝返らせることに成功すると、ともに北上して城父を陥とし、決戦の地に向かうべくさらに北上を続けた。

 これにより黥布は正式に淮南王を称した。

 

 韓信・彭越・黥布。この三人こそが、楚を倒し、漢の世を築いた元勲である。並び賞されることの多い彼らであるが、この中で武勲随一の者は、やはり韓信であろう。韓信は他の二人とは違い、長く劉邦の配下として働いてきた男であり、漢が国家として産声をあげたときから支え続けた男なのである。このため韓信は彭越・黥布のほかに、張良・蕭何と並び賞されることも多い。

 その意識はこの時代に生きる者の通念であり、韓信自身もそれを否定していない。

 しかし史実の中に韓信の増長をうかがわせるような発言の記録はなく、彼の自意識がどれほどのものだったかを推測することは難しい。

 ごくわずかな判断材料として、このとき各地から集結した漢軍を指揮したのが、やはり韓信だったことが挙げられる。劉邦は居並ぶ豪傑たちの中から韓信を選び、韓信も迷わずそれを受けたということである。この事実は韓信の実力が自他ともに認めるものであったことを証明するものであろう。

 

 臨淄を発ち、決戦場へ向かう道すがら、韓信は灌嬰をその軍に迎え、行軍を共にした。

「斉王……いよいよ、ですな。いよいよ項王を……」

 灌嬰は積年の抗争がついに終結することに興奮を抑えきれない。

 

「ああ。いよいよだ。私が淮陰を出てから何年の日々が経ったことか……。あっという間のことのように思える。しかし逆に長い年月だったとも思う。いずれにせよ、ついに我々の戦いの日々も終わりを告げる。……そう思うと実に感慨深い」

 韓信のこのときの表情は、灌嬰にはひと言で説明できない。喜んでいるようでもあり、寂しそうでもある。

「私は、自分自身のことがよくわからない……。もう無用に人命を犠牲にすることがなくなることは、やはり嬉しい。しかし、一方で私はまだ戦い足りないのではないかと……。戦いを指揮することしか能のない男から、戦いを取りあげたらなにが残る? おそらくそれは無であろう」

「斉王には、王として斉国の発展に責任がございます。この先もやることは多いでしょう。無であるはずがありません」

「……私などは国政に口を挟まぬ方が良いのだ。曹参がうまくやってくれる。あの者は寛大で、人の良いところも悪いところも受け入れる。そして緩やかに、社会全体を包むように統治していける男だ。狭量な私にはその真似ができぬ」

「大王、あなた様には曹参のような能力はないとおっしゃるのか?」

 

 灌嬰の見るところ、韓信は常に正しさを意識している男であった。それは確かに素晴らしいことである。

 しかし、今本人が語ったように、確かに狭量なところは存在するようであった。

「ない。実は私はこう考えている。他人には気を許すことができないと。社会は悪意の塊のようなものであり、その悪意は過去から脈々と受け継がれてきたものだと。つまり、ちんぴらから生まれた子はやはり成長してちんぴらとなり、やがてちんぴらの子を産む。世の中からちんぴらをなくすには、その血脈を絶つしかない。殺すしかないのだ」

 

 灌嬰は絶句し、ひとしきり考えた。この方は以前からこのような考え方をしていたのだろうか。あるいは魏蘭の死がきっかけとなり、一時的に極度の人間不信に陥っているのかもしれぬ。

「極端に過ぎますな」

 

 結局どう答えてよいかわからず、そのひと言だけを返した。もしかしたらこのひと言が韓信を怒らすのではないかと灌嬰は内心で恐れたが、意外にも韓信はこれを肯定した。

「そのとおりだな。だから私は王には向かないのだ。以前にも言ったが、私はこの戦いが終わったのち、漢王に斉国を献上するつもりだ。誰かに譲ってもいい」

「……また、そのようなことを」

「私は生前の魏蘭とひとつ約束を交わしていた。戦いが終わったら静かなところで、誰にも干渉されず、ひっそりと暮らそうと。残念ながら魏蘭はいなくなってしまったが、今でも私の思いは変わらない。私が王であれば、きっと世の中を正したくなる。理想を掲げて、その実現のために人の命を軽々しく絶とうとするだろう。おそらく私は、自分自身を止められないに違いない」

 

 韓信はそう語り、不思議なことに灌嬰はこの言葉に納得したのだった。

 

――私が仕えた韓信という人は、王座にありながら自身の増長を恐れ、ありのままに権力を振るうことを嫌った。……一言でいえば、自制の人だった。

 

 灌嬰はのちに知人に対してそう語ったという。

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