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第 三 部

 

九 つ の 罪

 

 

 臨淄に留まっていた曹参のもとへ韓信から使者が送られ、それにより曹参は事態のあらましを知ることになる。

 このとき、使者の第一声は次のようであった。

「予測に反し、賊徒郭尹は首都臨淄ではなく、遠征隊を襲撃せんとしたが、我々は犠牲を払いつつもこれを撃滅し、郭尹の首は討ち取ったり。よって臨淄の宮殿、城市の厳戒態勢はこれを解くことを許可する」

 

 使者の報告に曹参は内心で安堵した。郭尹が斉の子弟をそそのかし、多数の兵力で臨淄を襲撃されれば、正直守りきれる自信はなかった。せいぜい籠城し、持ちこたえ、韓信の帰還を待つことしかできなかっただろう。

 

「郭尹は、そちらに現れたのか……。だとすれば、あまり政治的な野望はなかったのかもしれぬな。戦車隊を解散させた斉王への単なる仕返しであったか」

 使者は頷きながらも深刻な面持ちで答えた。

「そうに違いありませんが、危険なことは変わりありません。万が一斉王が郭尹によって討ち取られることがあったりしたら……」

「個人的に武を競い合って、斉王に勝てる者はおるまいよ……あの方にとっては、項王でさえも敵ではない。私はそう見ている」

「はあ……」

 

「ところで、犠牲というのは、どれくらいだ?」

「……数は少のうございます。しかし、その中にもとの西魏の公女が」

「……魏蘭が! 彼女が死んだというのか」

「左様にございます」

 

――これは、いかん! 

 曹参が見るに、韓信は武人としては一級である。しかし、そのことと人として成熟していることとは、違う。

 確かに韓信は礼儀をわきまえ、謹み深い男であったが、彼はそれを他者にも求める傾向が強く、無法者の部類を人一倍嫌う。

 このため、たとえて言うと韓信は切れ味の鋭い抜き身の剣のようであった。剣の輝きにだけに惹かれ、いたずらに近寄ると大怪我をする。そういう存在である。

 

 その危険きわまりない剣を収める鞘のような存在が、魏蘭であった。鞘をなくした剣があたり構わず人々を斬りつける、そのような事態が曹参には連想されたのである。

 

「斉王は魏蘭どのを眼前で失いましたが、気丈にも涙は見せず、終始ご立派でございました」

 使者はそのように評したが、これは暗に韓信が薄情だったことを伝えたかったかのように曹参には聞こえた。

「いや、悲しくないはずがない。あるいは悲しいという感情を飛び越え、呆然自失の状態に陥っているのかもしれぬ。いずれにしろ、このことで斉王のお人柄を忖度するのはよせ」

 

 曹参はそう言って使者を下がらせ、自身は自室に引きこもった。そして、生前の魏蘭の姿を頭の中で回想すると、涙があふれてきた。あまりの衝撃のために泣けなかった韓信のかわりに泣いたのである。

 

「……このたびの楚遠征の計画は中止……。あるいは、無理もないことか」

 国境付近で韓信の到着を待っていた灌嬰は、やはり使者の言上を聞き、そうこぼした。

 

「斉王のご様子は、どうだ?」

「正気を保っておられますが、さすがに覇気は感じられません……。どこか、力が抜けた感じでございます」

「そうだろうな。楚を相手に戦うどころではない。斉王はおそらく、謀反を起こした郭尹よりも、魏蘭を守りきれなかった自分自身を恨んでいるに違いない。あの方は……そういうお方だ。なんともおいたわしい限りじゃないか」

 灌嬰には痛いほどよくわかる。韓信という男は、常に人を当てにしない。よって郭尹の叛乱も魏蘭の死もすべて他人のせいではなく、自分のせいだと考えるだろう。

 そして、そう考えなければ自分を慰めることもできないに違いない。

 灌嬰はそう考えたが、使者は別の見方をしたようである。

 

「しかし魏蘭どのは、女性でありながら……勇ましく戦ったことは賞賛に値しますが、私としてはもっと自分を大事にすべきだったと思います。斉王のご寵愛を受けていたのですから……」

「確かにそうかもしれぬ。結果的に命を落とし、斉王を悲しみの底に落としたことを考えれば、君の言うことは正しい……が、魏蘭のことを斉王が愛したのは、おそらく魏蘭がそのような性格であったからだろう。知ってのとおり、斉王は堅物で、身辺にあまり女を近づけない。いわゆる女性らしい女性には興味がないのだ」

「しかし、斉王はことあるごとに魏蘭どのが前線に立とうとすることを戒めておられました」

「そうだ。だがもし魏蘭がおとなしく言うことを聞くようであれば、斉王は魏蘭のことを愛さなかっただろう。そこが複雑な、男女の心理というものだ。斉王が魏蘭を愛したのは、彼女が美しかったからではなく、彼女が共に乱世を戦った戦友だから。……考えてもみよ。魏蘭は確かに美女であったが、世の中には彼女以上の美女はいくらでもいる。もっとも、容姿に限っての話だが」

 

 使者はそれを聞いて納得したのか、引き下がった。灌嬰はその後ろ姿を見送りつつ、思考を重ねる。

――しかし、まずいことになった。斉王の精神の回復にどれだけ時間がかかるのか……。漢と楚の抗争終結の鍵は、斉王が握っているというのに。このまま動かないということになれば、漢王は怒り、斉王が背信したと思うだろう。一方項王はこれを見て、斉に戦う気なしと判断すれば、攻め込むか、懐柔するか……いずれにせよ、事態はよりいっそう混迷を深める。……魏蘭よ、なぜ死んでしまったのだ。君さえ存命ならこんなことには……。

 長く国境守備の任にあたり、魏蘭と接する機会の少なかった灌嬰だったが、にもかかわらず、悲しみがこみ上げてくる。

 

――あの凛とした姿を二度と見ることができないとは、残念なことだ。

 

 

 臨淄に戻ってきた韓信の姿は、一見普段どおりであるが、よく見ると目もとに疲労の色が浮かんでいた。彼は、ほとんど寝ていなかったのである。

 

「やあ、曹参どの……ご苦労。私は……さしたる理由もなしに、戻ってきてしまった」

 出迎えた曹参は、いたわりの言葉をかけた。

「あのような事件のあとでは、仕方のないことです」

「うむ。少し休もうと思う。休んだところで気持ちが安らぐとは思えないが……」

「鋭気をお養いください」

 

 曹参に言われるまま、韓信は居室に入って一人きりになり、思考を巡らせた。

 

――なぜ、私は戻ってきたのだろう?

 というところから彼の思考は始まる。

 

――女の死を理由に戦意喪失する指揮官に、兵が従うはずがない。

 そのことを知っているのに、自分は戻ってきた。

 

――臨淄に戻ったとしても、蘭が待っているわけではないというのに……。

 自分でも説明がつかない。臨淄に戻れば、自分を癒してくれる何かがあるわけでもなかった。

 

――私が戻ってきたことで、あるいは漢は敗れるかもしれない。

 漢王の苦悩する顔が頭に浮かぶ。迷惑をかけて申し訳ない、という気持ちが浮かんだことは確かだった。

 

――しかし、いまはどうにでもなれ。知るものか。

 彼は腰の剣を外し、床に投げ捨てるように置くと、そのまま横になった。天井を見上げ、さらなる物思いにふける。

 

――蒯通が去ったとき、私は悲しみにくれて涙を流したというのに、蘭がこの世を去ったときは、一滴も涙が出てこなかった。……私は生来酷薄な男なのだろうか?

 これも自分で自分自身に説明できないことのひとつであり、容易に解けない謎のようなものであった。

 

――あのとき、泣いている暇がなかった、といえば確かにそうだ。しかし、いま蘭の顔を思い浮かべてみても、涙は浮かばない……。それは、最後まで彼女が私を裏切ることをしなかったからかもしれない。

 

――あれは誰だったか……。かつて私のことを評した者がいた。人を信用しないくせに、人からは信用されたがっていると……。蒯通が去ったときに泣いたのはその証拠か。思いが通じなかった相手に失望したから泣いた、ということか。では……人生の半ばまで生きることもできず死んでいった蘭のために、流す涙はないということか。……やはり、私は自分のことしか考えられない酷薄な人間に違いないな。誰が私をこのようにした? 父から受け継いだ血のせいか? 母の教えか? それとも栽荘先生が私をそのように育てたのか? ……いや、いずれにしても私の人生は私自身のものだ。誰を責めることもできない。私自身の生き方が間違っていたのだ……。

 

――蘭はかつて、私のことを人生の半分も知らない男だ、と評した。しかし、いま考えてみると、それは蘭自身もそうだったと思う……。蘭、私は君がうらやましい。私の残りの人生は、きっとつまらないものに違いないからだ。だってそうだろう? 人生とはほとんど……苦難に満ちている。君がいたからこそ……それにも耐えることができたというのに、残りの人生をどう過ごせというのか? 野望、謀略、裏切り、変節……私は人生を満たすこれらの苦難を君なしで乗り越えていかねばならない。……私は君がうらやましい。君はこの先そんなものと無縁でいられるのだから……。

 

 行軍の間、ひとしきり考える余裕もなかった韓信は、このとき初めて蘭の死を現実のものとして受け止めることができたようだった。

 その証拠として、彼はこのとき久しぶりに熟睡できたのである。

 

 しかし、事態は韓信に休息を許さない。このとき劉邦は、韓信の到着を待ち続けた結果、すでに固陵の地で楚軍に敗れていたのである。

「信の奴め! ……わしを見捨てて生き残れると思ってのことか。……許せぬ。誰のおかげで今まで……」

 劉邦は癇癪を起こし、身の回りの食器や調度品を手当り次第に打ち壊し始めた。兵たちはその様子に恐れおののき、平身低頭するばかりである。

 

 張良はそんな劉邦の姿を見て、嘆息せざるを得なかった。

――韓信……なにがあったかは知らないが……なぜ漢王の逆鱗に触れるような行動ばかりするのだ。私も君を見る目を改めなければならないのか? できることなら、そうあってほしくないことだ。

 張良も覚悟を決めざるを得なかった。彼が韓信をかばい続けるのには、限界が近づいている。

 

 

 しかし、このとき劉邦のもとに来なかったのは、韓信だけではない。項羽から梁の地をもぎ取り、何度も楚の補給線を断ち切り続けた彭越も来なかったのである。

 

 彭越の功績は、地味ながら非常に大きい。常に草莽に身を潜めるようにして、楚軍の後背を狙い、隙を見ては攻撃する。危なくなれば散り散りになって逃げ、いつの間にか結集して、再攻撃する。項羽にとっては蚊を追い続けるような作業の連続であった。事実、劉邦はこれによって何度も窮地を救われたのである。

 しかし、当の彭越にとって、自分の地道な活動が劉邦のためであったかというと、そうとは断言できない。済水のほとり、鉅野出身の彭越にとっての第一の目的は、あくまで自身の支配地の確保にあった。もともと梁の地を支配していたのが楚であったから攻撃したまでで、仮に支配者が漢であったなら、ためらわずに漢を攻撃したことだろう。

 劉邦にしても、もし自分が梁の地を支配していたなら、それを彭越に分け与えようとはしなかったに違いない。もともと他人の土地だから、勝手に横取りすることを許可したのである。

 そのような彭越に対して、無償の忠誠を求めることは、難しい。功績は並び称されるものの、劉邦の禄を食んだ韓信との違いはそこにある。

 しかし、逆に考えれば、これは韓信の方が不遜な行動をしていることになる。彭越は劉邦に忠誠を尽くす義務はないが、臣下の韓信にはそれがあるのであった。

 

――彭越は、わかる。しかし、韓信は……。

 という気持ちを劉邦が抱いたとしても、不思議ではない。このとき韓信は万難を排してでも劉邦のもとへ参上するべきであった。

 

「韓信や彭越を動かすには、もはや信用や忠誠で臨むべきではありません」

 張良は、考えたあげく劉邦にそのように切り出した。

 

「子房よ、それはどういうことか? わしは彼らを信用してはいけない、ということか? 忠誠を期待してはいけないと?」

「左様にございます」

 

 張良は、持論を展開し始めた。

「韓信、彭越の功績は多大にして、余人の及ぶところではありません。この二人は広大な領地を持ち、それぞれに独自の戦力を抱えております」

「……ふむ」

「なおかつこの二人は軍事的指揮能力にすぐれ、たとえ寡兵でも独力で楚と戦えるだけの力がございます。……これに対して我が漢軍は兵力の数では楚と対抗できるものの……」

「わかっている。その先を言うな」

「……残念ながら指揮官に彼らほどの才能を持った者がおりません」

「だから言うなというのに。斬るぞ!」

「お許しを。しかし、考えても見てください。大王が韓信と戦って勝てるかどうか。彼がひとたび天下に号令すれば、斉の兵はおろか、趙、燕、代それぞれの兵が彼に味方しましょう。彭越がその気になれば、人知れず諸城を攻略し、我が漢軍は関中との連携を裂かれるに違いありません。しかし、彼らは今まで何度となくその機会はあったはずなのに、それをしてこなかった。それはなぜでしょう」

「さあ……わからぬ。子房にはわかるのか?」

「推測ですが……大方の予想はつきます。韓信に関しては、天下を望む気持ちはありません。斉王を称した今でさえも、彼は自分のことを大王の臣下のひとりだと認識していることでしょう。しかし、その認識があるからこそ、彼は動きづらくなっています」

「まだ、わしにはよくわからぬ」

「つまり……彼は頭の良い男ですので、先のことがよく見えるのです。臣下である自分がこれ以上の戦果を挙げてしまえば、功績の面で主君たる大王を凌ぐことになる……忠実な臣下であったはずの自分が、いつのまにか大王の最も有力な対抗勢力になってしまうことを危惧しているのです。要するに自分は功績をあげた後、滅ぼされるのではないかと」

「わしが韓信を滅ぼすというのか? ……信の奴がそのように考えることはありそうな話ではあるが……現実的にはあり得ない。わしは武力で奴を制圧することができぬ」

「しかし、韓信は大王が命じるたびに、自身の兵を割いてよこしました。彼の忠義心がそうさせたのです。彼には申し訳ありませんが、その忠義心を利用すれば、大王が彼を滅ぼすことは可能でしょう」

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「……聞くだけでも嫌な話だ。わしは悪逆の項羽を討つために、最も忠義に富んだ男を滅ぼさねばならぬ、ということか?」

「そう決まったわけではありません。しかし、韓信自身は、それを恐れているのです」

 劉邦の表情にも、張良の表情にも後味の悪い木の実を噛み潰したような色が浮かんだ。

 実際にはそうではなかったが、自分たちが韓信を亡き者にしようと画策しているような気がしたからである。

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