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第 三 部

 

抗 争 の 終 わ り

 

 

 未明には八百騎いた味方が、淮水を渡り終えたころには百余騎しかいなかった。いなくなった者たちは、討ち取られたのか、方々に逃げ出したのか、それとも単にはぐれただけなのか、項羽にはまったくわからなかった。目の前の光景が現実かどうかさえ、頭の中ではっきりしない。

 しかし、耳を澄まさなくても漢軍の閧の声は聞こえてくる。確かに自分は追いつめられているのであった。

 

――天運に見放された。

 対等の条件で戦えば、絶対に負ける気がしない。にもかかわらず、こうまで自分が追いつめられているのはなぜか。

 

――天がわしを滅ぼそうとしているのだ。

 項羽はこれまで常に実力を誇示し、そのことによって天下を支配しようとしてきた。

 彼の武勇は天下随一のもので、そのことは彼自身のみならず、この時代の誰もが共有する認識であった。

 

――実力のない者に、このわしを滅ぼせるはずがない……わしを滅ぼそうとしているのは、天以外にありえぬ。

 そう考えたのは項羽の自尊心の高さゆえであろうか。彼は同時代の他の人物によって自分が滅ぼされるとは、決して考えようとしなかった。

 

 しかし、実際に項羽を追いつめたのは、対陣を続けて楚軍を飢えさせた劉邦の軍略であり、四方を制圧し楚を孤立させた張良の戦略であり、さらには項羽の性格を見抜いてその軍の大半を砦から引きずり出して殲滅した韓信の戦術であった。

 

 それゆえに項羽が滅びるのは天命によってではなく、己の武勇を信ずるあまり、知恵の部分をないがしろにした報いであるといっていいだろう。

 

「項王の首には千金と万戸の邑がかかっているんだぞ。逃すな!」

 迫りつつある漢兵たちの叫び声が聞こえた。

 逃れようとした項羽は、このときひとりの農夫に出会い、道を尋ねた。

「左の方角に向かうがよい」

 農夫はそう言い、項羽はその言に従った。

 

 が、思いがけず沼地に馬の脚をとられることになった。

 農夫は項羽を騙したのである。すでに付近の住民は漢によって買収されていたのであった。これにより項羽は漢軍に追いつかれ、従うのはわずか二十八騎のみとなる。

 

 項羽を滅ぼそうとしているのは、やはり天などではなく、人の意志であった。

 

「呉中で兵を起こして以来、八年になる……。今までに七十あまりの戦いを経験し、わしは常に勝利してきた。そしてわしは天下を得たのである……したがって今ここに困窮しているからといって、それはわしの戦い方のまずさが原因ではない。天がわしを滅ぼすのだ」

 項羽はわずかの部下を前に最後の自己主張をした。ついに死を覚悟せざるを得ない事態となったが、どうせ死ぬのであれば最後まで自分らしく死にたい、ということであろう。

 

「今わしはそれを証明するために、諸君のためにこの囲みを破ってみせよう。三回戦って、三回とも勝ち、敵将を斬ってその旗を折ってみせる!」

 

 項羽はそう言い放つと部隊を四つにわけ、円陣を敷くと四方に向かって突撃させた。

 

「君らのために、まずあそこに見える一将を斬ってみせるぞ!」

 項羽は自ら先頭に立ち、愛馬である騅を疾風の如く走らせた。すると包囲していた漢兵たちは一様に恐れ、剣や鉾を落とし、地面にひれ伏した。

 そして項羽はその言のとおり、漢の一将を斬ってみせたのである。

 

 ちなみにこのとき、漢の楊喜という人物が勇気を振りしぼって追撃したが、項羽に一喝され、それだけで辟易して数里の距離を後退したという。

「辟易」という語には、相手の勢いに圧倒されて尻込みするという意味があるが、このときの故事がこの語の由来である。

 

 

 この戦いで項羽らが討ち取った漢兵は数百人、対して彼らが失ったのはたった二騎のみであった。

 

「どうだ」

 項羽は従う者に向かい、胸を張ってみせた。

「大王の仰せのとおりです」

 

 項羽が自分の戦いぶりのまずさゆえに、現在の困窮があるわけではないと言った、そのことである。

 しかし、この段階に至って局地的な戦いに勝利しても、大勢を覆すことにはならない。そのことは項羽自身もわかっていた。あくまでも自分の生き様を最後まで貫こうとしたのである。

 

 この後、項羽一行はやや東に進路を取り、烏江という地にたどり着き、そこから長江を渡ろうとした。そこに船を用意した烏江の亭長にあたる人物が待っていた。

 

 その亭長は言う。

「大王、早く船にお乗りになり、江東の地で再起をおはかりください。この近辺で船を持っているのは私だけです。漢軍が来ても、彼らには乗る船はありません。お急ぎを」

 項羽の脳裏に先刻農夫に騙されて沼地にはまった記憶が呼び起こされる。この亭長もまた、自分を欺こうとして……。

 

「お急ぎを!」

 亭長の目に必死さを見た項羽は、また心を動かされた。元来、感じやすい男であった項羽は、このような必死に自分を救おうと努力する者を見ると、優しくなるのである。

 

「君は、長者だな」

 そう言って、項羽は微笑んだ。

「わしははじめ江東の子弟八千人を引き連れてこの川を渡った……しかし、今その中で生きている者はひとりもいない。たとえそれでも江東の父兄がわしを哀れみ、王として迎えてくれたとしても……わしには彼らにあわせる顔がないのだ。また、彼らがわしのことを責めず許してくれたとしても……わしはそれほど厚顔な男ではない。自分の心の中に恥を感じずにはおれぬ」

「それは……」

 

 亭長は言葉を失った。それでは項羽は川を渡らない、というのか。

「天がわしを滅ぼそうとしているのに、川を渡ったところで運命は変えられぬ」

 亭長の目に涙が浮かんだ。項王は、ここで死ぬつもりだ、そう思ったのであろう。

 

「亭長。せっかくの君の好意だが、わしは受けることができぬ。せめてもの償いとして……わしの馬を君に授けよう。わしはこの馬に乗って五年、向かうところ敵なく、一日に千里を走った。よって……殺すには忍びない。君が世話をしてくれたら助かる」

 こうして項羽は愛馬の騅を手放し、以後は徒歩で行動した。従う者たちも皆馬を捨て、自分たちの運命に愛馬を道連れにすることを避けた。

 

 ここで彼らは再び漢軍の追手と遭遇し、激しく戦闘を交える。既に手元には戟や戈などの長柄の武器はなく、おのおの剣のみで接近戦を挑まざるを得なかった。

 しかしここでも彼らは漢兵数百人を斬り、楚兵の戦闘力の高さを証明するに至る。だが、この戦いで項羽自身は十数箇所の傷をこうむった。

 

 彼は、戦場で苦しみを感じたことはなかった。まして傷の痛みを感じたことなど皆無に等しい。

 彼はほとんど負けたことがなかった。しいてあげれば、かつて韓信という若造に腹を蹴られたことがあったが、それも実際には彼に深刻な痛みを与えたわけではない。

 

 傷の痛みは、自分の運命がここで尽きることを実感させた。物事に感じやすい項羽は、自分の滅びゆく運命をいとも簡単に、あっさりと受け入れた。

 

――どうも、このあたりで最期のようだ。

 初めての傷の痛みを、じっくりと味わうように気持ちを落ち着かせる。常に勝利してきた彼にとって、敗者の気持ちは一生に一度しか味わえないものであった。

 貴重な体験を無駄にはできない。この一瞬、目に見える光景を頭の中に焼き付けるのだ。

 

 そう思い、周囲を取り囲む漢兵たちを観察しようとすると、圧倒的優位にたちながら、自分を恐れ、攻撃をたじろいでいる彼らの姿が見える。

 臆病者どもめ! 彼は漢兵たちの不甲斐なさに心の中で笑った。

 

――やはり、わしを滅ぼすのは、漢ではない。天がわしを滅ぼすのだ。

 項羽の自覚は、死の間際に確信に変わる。このうえは、それを敵兵に向かっても証明したい、と考えた。

 

 その方策を考えながら、視線を動かすと、ある男の顔が視界に入った。見覚えのある顔。それは幼き頃、会稽の地でともに遊んだことのある男の顔であった。

「お前は……ひょっとして呂馬童(りょばどう)か?」

 

 

「間違いない。馬童……久しぶりだな。近ごろ顔を見ないと思ったら、漢にいたのか……」

 項羽は決して呂馬童という青年を責めたわけではなく、むしろ死を前にして旧友に会えたことを喜んでいたのである。

 

 しかし、一方の呂馬童はそう思わなかった。項羽を前にして足の震えをとめることができない。

「俺が、漢軍に入ったのは……当然のことだ」

 呂馬童は恐怖心を抑えながら、やっとのことでそう言った。

 

「当然……? わからんな。どういうことだ」

「俺は……幼いときから、お前のことが恐ろしかったのだ!」

 

 これを聞いた項羽は、なんとも残念な表情をした。

「それは……実にすまないことだ」

「今さら遅い……おおい! ここにいるのがまさしく項王だぞ!」

 呂馬童はそう叫び、応援を呼んだ。仲間がいなければ、恐ろしくてたまらない。昔も今も変わらず、目の前の項羽という男が恐ろしくて仕方なかった。

 

「馬童よ」

 項羽は悠然と構え、来援する敵兵に対抗しようとする構えも見せなかった。

「聞けば、わしを捕らえた者には千金と、万戸の封地が報奨として与えられるそうだな」

「そうだ」

「旧友の誼である。わしは自分の体をお前のために恵んでやることにした。もはや恐れることはない。わしの首を劉邦のもとへ届け、以後の生活を保障してもらうがいい」

 項羽はそう言い放つと、呂馬童の目の前で剣を自分の首に当てると、いきなり頸動脈を斬った。

 

 激しい血しぶきをあげながら、どう、と倒れ込んだ項羽の遺体に数人の漢兵たちが群がった。彼らは報奨金や封地を目当てにして互いに項羽の遺体を確保しようとし、その争いの中で何人かの死傷者まで出した。

 

 結局激しい争いの中、項羽の遺体は五つに切り裂かれた。

 

 頭部を指揮官の王翳という人物が確保したほか、騎司馬の呂馬童が右半身、郎中の呂勝と楊武が片足づつを確保した。左腕に当たる部分は、先に辟易して数里後退した郎中騎の楊喜がものにした。

 彼らはそれぞれ封地を与えられ、それぞれに侯爵の地位を与えられたのである。

 

 項羽は最期まで自分が滅びるのは、実力によるものではなく、天に与えられた定めとし、漢兵の手にかかることを拒み、自害を果たした。

 敗勢が決まってからも自らの生き様を証明しようと、武勇を最期の瞬間まで見せつけ、それによって漢兵の数百人が命を落とした。

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 雄々しい最期ではあったが、彼の見せた最後の抵抗は、軍事的に無意味なものであり、道連れにされた漢兵たちは、ほぼ無意味に殺されたといって差し支えない。彼らは、項羽という男の自分を飾ろうとする欲に付き合わされただけなのである。

 さらに項羽の遺体に群がって報奨を得ようとした者たちの姿は、戦時下にも尽きることのない人間の欲を象徴するかのようであり、醜態そのものであった。

 

 しかし、人間社会を動かす原動力は、往々にしてそのような欲なのである。

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