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第 三 部

 

夢 か ら 覚 め て ……( 続 き )

 

 

 軍が林の中に入ったころ、前方を行く郭尹配下の兵たちの動きに変化があった。

「む……動いたな!」

 林間の隘路に軍列が入ったのを機に、彼らは勝手に歩みを止めた。そして一瞬の間をおき、反転して韓信の側に向かってきたのである。

 しかし、これに対する韓信の反応は素早かった。

 

 韓信は軍を引き連れて臨淄を発つ前に、留守番の曹参を相手にちょっとした会話を交わしている。

 

「曹参どの。私が留守にしている間、臨淄の防衛はしっかり頼む」

「大王は楚の心配をなされよ。大王の居城は私が責任を持ってお守りします」

 曹参の返答は力強いものであったが、韓信はそれを聞いても浮かない表情のままだった。

 

「うむ……。君の言葉は心強い。しかし、私の勘は……今回の出征に一波乱あることを告げている。十中八九、なにかが起こる」

「……なにか、とは……叛乱か?」

「そうだ。鋭い。さすがだな……。手短かに言おう。校尉の郭尹の行動が怪しい。彼は今回病と称して出征しなかったが、部下たちはきっと彼によってひそかな命令を言い含められているに違いない。おそらく隊列が伸びきったところで、彼らは叛旗を翻す」

「……ふむ」

「しかし私が思うに、これは陽動にちかい行動だ。私が彼らの相手に苦慮し、足止めをくっている間に、病と称した郭尹が首都に入って王宮を制圧する。そして郭尹は檄を飛ばし、それによって他の斉兵たちもこぞって郭尹に味方する。そしてよそ者の王である私は斉兵のなかに孤立する、という算段だ」

「深い洞察ですな……。それで、その時はどうするのです」

 

 曹参にはこのとき韓信が少し表情を変えたように見えた。ほんの少しの変化であったが、驚いたことに韓信はどうも一瞬笑ったようであった。

「郭尹はしらじらしいと言えるほどの従順な態度をとり続けた。疑り深い私には、それが怪しく思えて仕方なかったのだ……。彼に裏の意志があることを悟った私は、他の斉兵たちがいざというとき彼に同調しないよう、工作する必要性に気付いた」

「工作……どうやって?」

「……彼らの忠誠心を金で買った。王の地位を悪用し、宮中の富を利用して彼らを傭兵として雇ったのだ。そして、それは成功した。彼らが裏切ることはない。ひとりぐらい反発する者がいるとは思ったのだが」

「……まったく気が付きませんでした。いつの間にそんなことを……」

「私には、直属の親衛隊がいる。カムジン亡き後、久しく活躍の場がなかった彼らだが、今回は暗躍してもらった。斉兵たちに金をばらまいて口説かせたほか、それぞれの分隊に指導的役割として潜り込ませている。……いやはや、こうなっては私もよほどの悪人だな。人の心を金で買うなど……」

「悪しきことを悪しきこととして反省する態度があるうちは、人として正気でいることの証拠でございましょう。金で忠誠心を買ったことは、方便です。前恩賞を与えたとお考えになればよろしいでしょう……。それに、郭尹の叛乱を実際に抑えれば、必然的に兵の心服度は増すはずです。お心を強く持つことです」

「ああ……そうだな。くれぐれも郭尹の来襲に警戒し、宮中の門はすべて閉ざしておくことを忘れないでくれ。私が戻ってくるまで何ぴとも中に入れるな」

「お言葉のとおりに」

 

 このときの韓信の読みは、自分が郭尹の立場であったら、という視点に立ったものであった。

 しかし、軍事的な能力、また経験でも韓信より劣る郭尹は、それがために韓信の予想の範囲外の行動をし、その読みは微妙に外れることになる。相手が素人に近いことによって生じた誤算であった。

 

 

 韓信の前には横三列に並んだ兵たちが、等しく弩を構えている。このときの一列は十二人ほどで、道幅はそれでほぼ埋め尽くされた。総勢三十六名の弩兵が向かってくる郭尹軍に対し、迎撃の態勢を構える。

 

 韓信は長柄の鉾を構えた。

「奴らが射程内に入るまで、落ち着いて待て……。充分に引きつけて仕留めるのだ。やみくもに狙いを変えるな。自分の正面の敵を正確に射てば、それでいい」

 

 兵たちの顔に緊張の色が浮かぶ。しかし、眼前の敵が射程に入るまで、ほんの数秒しかかからなかった。彼らに緊張を落ち着かせるゆとりはほとんどなかったと言っていい。

「射て!」

 韓信の号令が飛び、弩から一斉に矢が射出された。狭い林の中の道に、射抜かれ、横転した兵馬の列が後方の部隊の前進を阻む。道を塞がれ、立ちつくした彼らの前にさらに矢が集中し、それによってまた道には横転した人馬が溢れた。

「斉に生まれた者は、斉人にのみ忠誠を尽くす! そう思う者は、我々に味方せよ!」

 

 郭尹の配下のひとりはそう叫んだが、それに呼応する者は誰もおらず、さらには彼自身もそのひと言を最後に矢に倒れた。

 やがて前方からの弩の射撃と、味方の死体によって前進を阻まれた彼らは、やむなく後退を始めようとした。

 

 しかし、後方にも逃げ道はなかった。金で雇われた斉兵たちが彼らの逃走を阻むかのように、一斉に弓矢で攻撃し始めたのである。

 こうして林の中は斉軍による同胞同士の殺し合いの場と化したのだった。

 

 惨劇はしばらくの間続いたが、一万人弱の郭尹の配下の軍が滅び尽くすまで、ほんの一時間もかからなかった。韓信の圧勝である。

「無益なことを……」

 韓信はその様子を見て呟いたが、周囲の者たちは皆一様にその手際の良さを褒めたたえたという。

 しかし韓信はそれをあえて無視するかのように、言い放った。

「まだ終わってはいない。首謀者の郭尹自身が未だ健在だ。道を塞いでいる遺体を片付け、進路を開けろ……我々はこれより臨淄へ引き返す」

 

 多くの者がこれを意外に感じたようであり、そのためか指示は徹底しなかった。韓信は説明の必要を感じ、先ほどの指示にもうひと言付け加えた。

「郭尹に戦略を考える頭が少しでもあれば、私が不在のうちに臨淄を攻めるだろう。今頃、宮殿は戦火に燃えているかもしれない……さあ、急げ」

――ああ、そういうことか。

 周囲の者は納得し、作業に取りかかった。しかし約一万に及ぶ遺体の山を道からどかすというのは、想像以上に時間のかかる作業である。次第に日が傾き始めた。

 

 この日は朝から曇天で、薄暮の頃になると視界が悪く、そのことが余計不安をかき立てる。韓信は少しいらいらとした様子で、その辺に落ちている小枝を拾っては折ったりするなど、意味のない行動をしながら時間を潰していた。

 

――いつもの将軍ではないような……。

 蘭の視線は韓信に注がれている。落ち着きを失った韓信の姿を見つめると、先ほどまで感じていた胸騒ぎが、よりいっそう高まるのを感じた。

――ああ、この感じ……。不吉な予感! 波乱はこれで終わりではなく、続きがあるに違いない……理由はないけど、そんな感じが……。

 蘭は無意識に腰につけた(えびら)から矢を引き抜き、波乱に備えた。

 

「まだか。日が落ちる前に終わらせるのだ」

 韓信の声に焦りの色が感じられる。しかし作業は依然としてはかどらず、彼の軍は遺体の山によって二つに分断されたままであった。

「早くしなければ、臨淄陥落の恐れがある。そうなっては、郭尹の思うつぼだ」

 

 韓信がそう言ったときである。突如林の中から戦車が車輪の奏でる轟音とともに出没した。

「敵襲だ!」

 作業に没頭し、戦闘態勢を整えていなかった兵たちは一様に慌て、次々に逃げ出した。だが戦車は彼らを蹂躙するように突進を続け、乗員による矢や鉾が彼らをなぎ倒していく。そして林の中からは次々と戦車が姿を現し、その数は五騎に及んだ。

 

「まさか……こんな林の中に戦車とは……」

 韓信を取巻く兵たちは次々と逃げ出し、彼は取り残された形になった。

 狭隘な林の中に戦車を隠し、軍が分断された機を見て奇襲を放つ。郭尹がとった作戦がそれであり、この戦車隊の指揮官が郭尹本人であったのだ。

 

――これまでか

 四頭の馬が引く戦車の一台が既に眼前に迫り、韓信も観念せざるを得なかった。

 

 しかし、馬の鼻息の音が聞こえるまでそれが近くに迫ったとき、韓信は自分を押しのけるようにして前に立った武者の存在に気付いた。

「時代遅れの戦車などに、なにができる!」

 

 その武者は叫びつつ、続けざまに矢を五連射した。そのうちの四本の矢は正確に馬の脳天をそれぞれ突き刺し、残りの一矢は御者の眉間をつらぬいた。制御されなくなった戦車はこれによって横転し、乗員の二人は地べたに叩き付けられ、それきり動かなかった。

 

 武者は続いて二台めの戦車に狙いを付けている。落ち着いた所作であった。

 窮地を救われ、我に帰った韓信があらためて見ると、驚くべきことにこの武者は魏蘭であった。

 このとき動転していた韓信は、武者の叫び声が女の声であったことにさえ気付かなかったのである。

 

 

「蘭、危険だ。下がれ!」

 気を取り直した韓信は、蘭に向かって叫ぶ。しかし、蘭はそれを拒むのだった。

「いま、将軍のまわりには私しかおりません! なのにどうして下がることなどできましょう!」

 

 そして二台めの戦車に向けて、矢を放った。その矢はまたも御者の眉間に命中し、戦車は動きを止めた。乗員の二人は、戦車を捨て、こちらに向けて肉迫してくる。

 

「下がれ!」

 韓信はついに蘭の前に立ちはだかり、敵兵の突進を防ごうとした。剣を抜き、浴びせられる矢を叩き落とす。そのときになってようやく部下たちが態勢を整え、弩を連射して応酬を始めた。二人の敵はそれによって倒れた。

 

 しかし、息つく暇もなく三台め、四台めの戦車が襲いかかる。蘭はなおも迎撃しようとし、韓信は剣を再び鉾に持ち替え、乗員を串刺しにしようと兵を率いて前進した。

 

 思えばこれがいけなかったのかもしれない。

 韓信は突撃を部下に任せ、自身は防御に徹するべきであった。

 部下の兵に号令し、前方の二台の戦車を撃破しにかかった隙に、最後の五台めの戦車に後背をとられてしまったのである。

 

 密林の中で戦車がこれほど敏捷な動きをとれるとは思っていなかった。その点で郭尹が自身の戦車隊を誇りにしていた理由がようやく韓信には理解できたのである。

 しかし、いまはそんなことを考えている場合ではない。韓信の後背には兵はおらず、ただひとり蘭だけがいるだけであったのだ。

 

「蘭、逃げるのだ!」

 韓信は叫んだ。その声は確かに蘭の耳に届いたように思えた。しかし、蘭はあえてそれを無視し、自身に迫った戦車を迎撃しようと矢をつがえている。

「いま行くぞ」

 韓信は叫んだが……

 

 蘭は矢を放ち、それは三たび御者の眉間をつらぬいた。しかし、車上の乗長がこれに応射し、その矢はまるで吸い込まれるように、蘭の体に深々と突き刺さった。

 蘭は韓信の目の前で腹から血しぶきをあげてその場に倒れてしまった。

――ああっ! なんということだ!

 

 韓信は狼狽したが、事態は彼に取り乱すことを許さなかった。倒れ込んだ蘭に向かい、乗長がとどめを刺そうと剣を抜いて迫っているのに気付いたのである。

 韓信はこれを阻止しようと鉾を振り回して、乗長の剣を叩き落とした。

 

 このとき剣を落とし、振り向いた乗長の男こそが、郭尹その人であった。

 

「郭尹、お前……」

「これは斉王様……。王自ら鉾を振るっておでましとは、どこまでも奇抜なお方だ」

「なにを言っている。ふざけたことを言うな」

「あなたが王となって以来、斉はすっかり様変わりしましたな。王家の血統は軽んじられ、伝統は失われた」

「……お前の戦車部隊を解散させたことを言っているのか」

「はは! それもございますが、いちばん象徴的なのは……ほれ、そこに転がっている兵でありましょう! 女を前線で戦わせる王は、天下広しといえどあなたのみでございましょうな」

 

 韓信はこのひと言で、郭尹を許すまい、と決めた。

「そうかもしれぬが、お前の自慢の戦車隊を壊滅させたのは、ほかの誰でもなく、彼女だ。侮辱するような言い方は許さん」

「女を侮辱するつもりはない。わからんのか。あなただ。あなたを侮辱しているのだ!」

 

 郭尹はそう言うと、剣を拾いあげ、斬りかかってきた。しかし、その姿は剣の重みに耐えきれず、逆に振り回されているようであり、どう見ても接近戦に慣れているとはいえない。韓信は鉾で郭尹の右足の太ももを突き刺し、動きを止めたところで左足も同様に突き刺した。

 

「馬鹿者め!」

 そして彼は珍しく逆上したような声をあげ、腰の長剣を抜き放つと、郭尹の首を一刀のもとに斬り落とした。

 

 郭尹の残りの戦車は兵たちによじ登られ、制圧された。結局狭い林の中では、その利点を発揮することができなかったのである。

 

 

 意識が薄らいでいくということは、こういうことなのだろうか。

 ひどく眠い。

 

 しかし、寝てはならない。ひとたび眠りに落ちれば、自分は目覚めることがないに違いないからだ。

 

 まぶたが重い。

 しかし、目を閉じてはならない。閉じてしまえば、再び開けることは難しい。

 

 つまり、私は死の淵にいる。

 

 目を開き、最後に見る将軍の姿を意識に焼き付けるのだ。ほんのわずかの間でも長く……。

 

 傷口が痛む。

 しかし、うめき声などをあげるのはもってのほかだ。私は、将軍の前では、常に美しく、可憐でありたい。

 

 手が握られた。その感触は柔らかく、温かい。

 

「蘭……」

 それは求めていた将軍の声だった。しかし、それに続けて発せられた言葉は、ひどく散文的で、それだけに切ない。

 

「矢は……君の腹部から背中まで貫通している。……出血がひどい。残念だが、私には治してやることができない」

 

 可哀想な将軍! 本当なら、泣き出したいほど困惑しているはずなのに! 

 

「……しかし、死んではならぬ! 君が死んでしまったら、私は……」

 いけません、将軍。あなたは王なのです。王者たる者、たかが女の死に心を揺るがされるべきではありません。それを伝えなければ……。

 

「……将軍……私は……もう助かりません。死ぬなという命令には……従えません」

「馬鹿げたことを! 今死んでしまったら、君と私の夢はどうなる! 夢の実現には、手を伸ばせば届くところにまで迫っているのだぞ!」

 

 ああ、将軍……お優しいお言葉を……。私はそれだけで幸せでございます。私はあなたの手の温もりだけで……。

「私は、君ともっと長くいたいのだ! 死なないでくれ」

 駄目な私……。本音を言えば、将軍は私の死に悲しみ、立ち直れなくなるかもしれないというのに……。でも、言いたくてたまらない。

 

「将軍……将軍ともう一度……普通の、市井の男女のように……でも……もう叶わぬ夢です……」

 まぶたが重い。ひどく眠い。もう目を開けていられない。

 言葉の途中で、蘭は静かに息を引き取った。

 韓信は、その言葉に答えてやることができなかった。

 

 魏蘭の死によって、韓信はその夢を断たれた。夢を見始めたときは二人であったが、覚めてみると一人きりだった、そんな出来事であった。

 

 時に紀元前二〇三年九月のことである。

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