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第 四 部

 

逆 臣 と は

 

 髪や体を洗い、こびりついた血のりを流し尽くしたつもりでも、臭いが残っているような気がする。

 あるいは顔に浴びた血潮の生ぬるい感触。

 それを忘れ去ることは不可能に近い。ついさっきまで意識を持ち、流暢な調子で言葉を継いでいた眛が、あっという間に血と単なる肉の塊と化したことを受け入れることは難しかった。

 

 韓信にとって旧来の友人である鍾離眛を失ったことは、確かに悲しいことであり、衝撃的なことであった。しかしそれ以上に気になったのは、死ぬ間際の彼の言動の不可解さであった。

 

――そもそも眛が助けてくれ、と言ったのだから、私は彼を匿い、助けようとしたのだ。それを今さら……。

 

――武人としての誇りが、いつまでも自分の世話になることを拒否したのだろうか。それとも彼は常に自分に劣等感を感じており、自分はそのことに気付かなかった、ということだろうか。考えられることではある。おそらく眛が言ったとおり、近ごろの私の目は濁っていたに違いない。

 

 そう考えれば、悪いのはやはり自分ではないか、という気がしてくる。

 自分の行為や言動が彼を追いつめる結果になったのではないか、と。

 しかし一方で反発も覚える。

 眛に限らず、世の中には烈士に類する人物が多すぎる。彼らは、苦難や屈辱に耐えて生き抜こうとせず、いとも簡単に死のうとする。往々にして自分の命を顧みない者は、他人の命をも顧みることがないのだ。

 つまり、すぐ死ぬ奴は、すぐ人を殺そうとする、だから今の世の中には戦乱が絶えない、そう考えるのである。

 

 しかし、殺した人間の数では、同時代で韓信に匹敵する者は少ない。これはつまり、自分も他者の命を軽んじていることでは世にはびこる烈士と同じである。

 自分が彼らと違うのは、自らの命を惜しんでいる点であった。

 

――あるいは、私は彼ら以下の存在かもしれない。

 自分には雄々しく死んでみせる勇気などない。

 そのくせ敵対する者を無慈悲に殺す能力だけは持っている。

 

 かつて項羽を初めて見たときのことが、思い出される。あのとき自分は項羽のことを内心で「殺し屋」と呼んだ。しかし、いま思い返してみると、その言葉は自分にこそ当てはまる。

 

――そんな風に自分のことを卑下するのはよせ……私の悪い癖だ。考えてもみろ……いくら主義主張のために美しく死んでみせたとしても、しょせん世の中は生者のものだ。死んでしまえばそれ以上主義主張を世に唱えることは出来ない。人というものは……生きていてこそ意味をなすものなのだ。

 

 死んではなにも出来ない。

 死者になにが出来よう。

 韓信は、そう頭の中で繰り返し、自分を慰めるしかなかった。

 しかし、いくら考えてみても今後自分が生き続けてなにを成そうとしているのかは、わからなかった。だったら死んでも同じではないか、という思いさえ頭に浮かんでくる。

 

――いや……生きながらえれば、きっとなにかはあるに違いない。

 結局韓信の考えは、そこに落ち着いた。

 

「大王。天子の出遊の時期が近づいております。このようなときですが、そろそろご準備を……」

 思いに浸る韓信に対して、家令の一人が、そう告げた。すでに劉邦が雲夢沢に赴き、諸侯と会同することは、韓信にも伝えられていたのである。

 

 

「天子? ……出遊……? そうであったな。……ちっ、なんとも間が悪い」

 出遊などとは、平和を象徴するような言葉であるが、韓信には、いささか時期尚早にも思われた。天下が完全に治まったとはいい難く、諸地方に叛乱の種火がくすぶっている状態だというのに、いい気なものだ、と思ったのである。

 まして当然ながら、このときの彼はとても遊ぶ気にはなれない。

 

「このたびは……ご病気とでも称して、欠席されてはいかがですか」

 心配した家令がそう告げた。言われずとも、理由を付けて欠席することを韓信も考えないではなかった。

 

 そもそも諸地方の叛乱の種火の中で、いちばん大きなものは、他ならぬ楚なのであり、誰がいちばん危険なのかというと、韓信なのであった。もちろん自分でそう意識しているわけではない。皇帝からそのように見られている、ということが、わかるだけである。

 

――行けば、もしかしたら一個戦隊が待ち受けているかもしれぬ。出遊を理由に私をおびき寄せ、一気に処断しようと……。

 だが、それにしても口実はない。

――ひょっとすると眛を匿っていたことが、彼らに知れていたのかもしれんな……。

 考えられる限り、自分の後ろ暗いことといえば、そのことだけである。しかし、そのこともすでに解決した。鍾離眛は死に、結局命令のとおり韓信は眛を捕らえた形となったのである。

 

――彼らに私を処断する口実を与えないよう、眛の首をじかに見せてやれば……眛には悪いが……。しかし、眛はそうしろ、と言った……一時しのぎに過ぎぬ、とも言ったが……。

 

「いや、病気を称するのはまずい。私には、こそこそと逃げ隠れする理由はないよ。気乗りはしないが、明日の朝には出かけることにしよう」

 結局家令たちに準備を任せ、韓信はその夜、いつもより早く眠りにつくことにした。

 鍾離眛の首は、道中での腐敗を防ぐために、家令たちの手によって白木の箱に収められた。

 

 その夜、韓信はまた、蘭の夢を見た。

――君が夢に現れると、ろくなことが起きない。

 

 そう思いつつも、喜びを感じる。あるいは眛を失った傷心をいたわるために蘭が夢枕に現れたのかもしれない、と思ったりもした。

 が、夢の中の蘭とは、会話が成立しない。

 また、夢の中の自分が何を語っているのかも定かではなかった。

 韓信は寝ているにもかかわらず、その状況にもどかしさを感じ、夢の中の自分に対して彼女に手を伸ばして触ることを命じた。

 

 しかし、夢の中の自分はいうことをきかない。

 蘭は生前の印象的な微笑をたたえながら、近寄っては来てくれる。しかし、彼女に触れることはどうしても出来ないのであった。

 

 それでも諦められない彼は腕をのばすことを命じ続ける。

 ついにそれに成功した、と思ったとき、彼は目が覚め、すべてが夢であったことを理解したのだった。腕は現実の世界で動かせただけであり、ただ虚空をさまよっていたに過ぎなかった。

 

 彼が残念に感じたことは言うまでもない。

 しかし、彼はそんな自分に対して自嘲的に笑い、冷静にその事実を頭の中で分析するのであった。

――蘭が夢に現れた翌日には、よくないことが起きる。これは蘭の魂がまだ生きていて、私に危険を告げている、ということなのだろうか……? いや、そんなことはあり得ない。……馬鹿馬鹿しい。思うに、危険を感じているのは私自身なのだ。私は本能的に危険を察知し、夢の中の蘭はそれを象徴しているに過ぎぬ。

 

 しかし、危険を察知したからといって、とるべき対策はなにもない。

 皇帝の出遊を迎えるだけのために、まさか軍を引き連れていくわけにもいくまい。そのような行為は、かえって疑惑を招く可能性が高かった。必要最小限、近侍の者しか、今回は連れて行けない。

「……私は、雲夢で捕らえられるかもしれないな……しかし……その時はその時だ」

 

 運を天に任すことに決めると、少し気分が楽になった。

――項王は死ぬ間際まで天命を信じ、行動したと聞くが……なるほど自分を納得させるには都合の良い思考法だ。

 

 韓信はそう考えた後、夢を見ることのない、深い眠りに落ちた。

 

item2

 雲夢沢は陳のはるか南、当時淮陽と呼ばれた地域に属している。

 戦国時代に陳国が滅亡して以来楚の領土であったが、この時代に韓信が治める楚は、もっと東に領土を移している。よって当時の都である下邳からは遠く、行程に約十日前後の日数を要する。

 

 しかしこのとき劉邦は諸侯に現地集合を命じたわけではなく、先にその手前の陳に集まれ、と命じている。諸侯が比較的集まりやすい場所に集合場所を設けた形であった。

 

 にもかかわらず、韓信が鍾離眛の首を携えて陳に到着したときには、誰もまだ来ていなかった。一番乗りだったわけである。

 皇帝一団もまだ到着していない。

 

――もしや誰も来ないということはないだろうな……。

 自分の留守を狙い、諸侯会同して楚に攻め込もうという魂胆ではないか、と疑った韓信は、気が気ではない。先日の夢のことも気にかかる。

 

 しかし、翌日には皇帝が諸将を従えて到着し、とりあえず安心した韓信は、これを出迎えようと御前まで近づき、拝跪した。

 この時期の拝跪の仕方は、簡便である。両手を胸の前で組み、組んだまま頭の上にかざした後、跪いて一礼する。

 秦の時代はもう少し複雑な儀礼が定められていたが、劉邦が関中を制圧した際に自ら簡略化したのであった。

 この二、三年後、儒家の思想に基づいた典礼が細かく定められ、儀礼は複雑なものになっていく。そのことが結果として皇帝の権威を高めることにつながっていくわけだが、まだこの時点では、韓信のような者にとって皇帝と直接話をすることは、難しくない。

 

 韓信は、このとき手にしていた鍾離眛の首が入った箱を前に置き、拝謁した。

 その箱が劉邦の興味を誘ったようである。

「信、それはなんだ」

 

 韓信は答えた。

「楚の宿将、鍾離眛の首にございます。逮捕せよ、とのご命令を受け……捕らえた証にございます」

 

 これを聞いた劉邦は、興味深そうに、ほくそ笑みながら言った。

「ほう……信、お前が殺したのか?」

「いえ……。彼は捕らえられた後、自害いたしました。ご確認なさいますか?」

 

 韓信は箱を開け、中身を見せようとしたが、劉邦は手を振って、それを拒絶した。

「必要ない。後で確認させるとしよう。とにかくその箱は魚の腐ったような嫌な臭いがする。とても臭い

 

 そう言うと劉邦は手招きで近侍の者を呼び寄せ、箱を持ち去らせた。

 それを確認した後、彼は何気ない所作で左手を軽く挙げてみせた。

 するとそれを合図とし、左右から二名の屈強な武士が現れ、物も言わずに韓信の両腕を押さえた。

 

 彼らはそのまま力任せに韓信を地に這いつくばらせたのである

「何をする! ……これはなんの真似だ」

 

 韓信は押さえつけられ、砂にまみれた顔で叫ぶ。

 だが二人の武士はなにも答えなかった。

 そして劉邦もなにも言わない。

 劉邦の後ろに控えた将軍たちもなにも言おうとはしなかった。

 

「最初から……私を捕らえるために、君たちはここに来たのだな!」

 周勃や夏侯嬰、樊噲などの将軍たちは皆、目を背けて韓信と目を合わさないようにしている。韓信は彼らのそんな様子に反感を覚えたが、その中に灌嬰がいたことを認め、観念した。

 

――灌嬰! お前まで……。

 見捨てられた気がした。

 しかし、冷静になって考えてみれば、これも自然な成り行きである。もともと劉邦の命を受けて韓信に従軍していた彼は、やはり劉邦の臣下であり、自分の臣下ではない。

 個人的に親しい関係ではあったが、公的な立場は違う。彼が劉邦と自分のどちらかを選ばなければならないとしたら、文句なく劉邦を選ぶだろう。自分が彼の立場であったとしてもそうするに違いない。

 

――これからの時代、義侠心では天下を変えることは出来ない。

 それは韓信が鍾離眛を匿いながらも、最後まで守りきることが出来なかったことにより痛切に思い知らされたことである。

 自分でも出来なかったことが、灌嬰に出来るとは思えなかったのだった。

 

 縄で縛られ、車に乗せられた後、両手に枷をはめられた。かくて虜囚の身となった韓信は、自嘲気味に自分の立場を言い表したという。

 

「ああ……やはり人の言っていたとおりだった……野の獣が狩り尽くされると、猟犬は煮殺される。大空を舞う猛禽が狩り尽くされると、弓は蔵にしまわれる。敵国を滅ぼし尽くすと、謀臣は亡き者にされる……天下は既に定まったのだから、私が煮殺されるのはやはり自然なことか……」

 劉邦はその言葉に対し、

「君が謀反をしたという……密告があったのだ」

と答えた。悪く思うな、というひと言でも付け加えたいかのような口ぶりであった。

 

「それは讒言です」

「だが証明する術はなかろう」

「確かに……。ですが陛下も私が謀反をしたという証拠をお持ちではないでしょう」

「証拠がないということが、お前の無実を証明することにはならん。密告書には、お前がいたずらに軍列を組んで市中を巡回し、市民を恐怖に陥れたと記されてある。そして、天下が定まった後、不必要に軍容を見せつけるのは、謀反の意志の現れだとも記されてあった」

「それはそいつの私見というものです。……要するに、私は憶測で逮捕されたのですな。つまり、謀反の可能性があるから、と。しかし言っておきますが、可能性なら誰にだってあるのですぞ」

「確かにそうかもしれないが、並みいる諸侯の中で、お前がいちばん実行力があることは間違いない」

「では、やはり私は可能性で逮捕されたのか。単なる可能性で……」

 

 それを最後に韓信は口を噤んだ。もはやあきれて物も言えない、という心理だろうか。

 

 会話が途絶えたのを機に、韓信を乗せた車は静かに走り出し、雒陽へ進路をとった。

 

 その後、黥布や彭越などの諸侯が陳に到着したが、彼らが揃って雲夢沢に行くことはなかった。急遽出遊の取りやめが宣言されたのである。諸侯たちは皆、この場に韓信がいないことにその原因があるに違いないと思ったが、それを口に出して言う者はなかった。

 

 韓信の受難は、彼らにとって決して対岸の火事ではなかったのである。

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