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第 一 部

 

彭 城 潰 乱( 続 き )

 

 

 これより前、劉邦の戦車が通過する直前、韓信は兵卒を前に胸の内に秘めた作戦を披露している。兵の数は親衛隊を中心にしたおよそ四十名。心許ない数ではあったが、今は数よりも質を重んじるときであった。

 

「私がこの地点に陣を張ったのは、ここがいちばん隘路になっているからである。北は山、南は川に面し、いずれも急斜面になっている……騎馬では到底迂回できない。私の推測では、十中八九、ここを項王が通る」

 

「…………!

 兵たちは声を失った。いずれの顔にも恐怖の色が浮かぶ。しかし、構わずに韓信は話を続けた。

 

「項王はその性格上、先頭を駆けてくるだろう。これは性格の面だけではなく、今までの戦場での行動を分析してもわかることだ。しかしなぜここを項王が通るか? 答えは獲物が大きいからである。項王の最大の目標は漢王の捕縛だ。……すなわち、この道を漢王が通る」

「将軍には、なぜそのように断言できるのです?」

 誰もがもつ疑問であった。

 

 兵の質問に韓信は誇るふうでもなく答えた。

「私は彭城での軍規の乱れから、漢の敗北をあらかじめ予想していた。いや、予想という言葉は当てはまらない……確信していたのだ。そこで私は前もって敗走経路を漢王に示しておいたのだ」

 

 兵たちはざわついた。敗北を前提に作戦をねる大将など、不謹慎ではないか、と言いたいのである。

 

 韓信は悪びれる様子もなく、またも淡々と話した。

「あのような勝利の浮かれ騒ぎの中、漢王が敗北を受け入れるはずがない。我が軍はそのうち負けますので王は逃げてください、などと言っても信用されるはずがないだろう。そこで私は漢王にではなく、御者の夏侯嬰を説得したのだ。もし我が軍と漢王の身になにか悪いことが起きれば、この道を通って逃れよ、と」

 

 兵たちはまだ信じぬようであった。本当に劉邦はここを通るのか。

「信じるか信じないかは、もはや問題ではない。私とて、一抹の不安はある。夏侯嬰が私の話を覚えているか、あわてて忘れてしまいはしないか……しかし、信じるしかない。では、作戦の話に入ろう」

 

 韓信はその長剣で地面に図を描きながら話し始めた。父の形見の大事な剣であるはずだが、その扱いはぞんざいである。

「我々は隘路を塞ぐように横に五重の陣形をしき、漢王の姿を確認したら左右にわかれ、これを速やかに通す。通し終わったら素早く陣形を戻し、追いすがる楚軍に備える……ここまではよいな? 楚軍の姿が視界に入ったら諸君はそれぞれ弩(ど・いしゆみのこと。矢を人力ではなく、引き金を使って射るクロスボウのような兵器)を構え、ありったけの矢を射てその進撃を止めよ。あらかじめ言っておくが、このたびの作戦は楚軍を撃ち破るものではない。漢王が安全に落ち延びるための時間稼ぎである。追撃の速度を緩めてやれば、それでいいのだ」

 

 韓信は力を込めて語ったが、誰にもわかりきったことであった。先頭を駆けてくる者が項羽だと知り、たった四十名で勝てると思う夢想家はこの中にはいない。

 

「矢の連射によって楚軍の足を止めたあと、山側から攻撃を仕掛ける。隘路によって縦に伸びた軍列を側面から討ち、分断するのだ」

 

 不審に思った兵のひとりが尋ねた。

「兵の数が足りませんが……?」

「兵は二人、いや三人いればよい。私はやはりこうなることを予測し、山側から道を塞ぐ程度の巨岩を転がす仕掛けを作らせておいた。諸君はそれを動かすだけでいい。それだけで、確実に道は塞がり、楚軍は分断される。岩を落とす地点は、なるべく楚軍の先頭に近い位置がいい。できれば項王その人がひとり取り残されるのが理想だが、さすがにそれは無理であろうな」

「岩を落として項王に直接当てる、というのは……もっと難しいですな。しかし、いつの間にそんな仕掛けを?」

 

 韓信は苦笑いした。

「苦労した。兵たちはどの者も浮かれ騒ぎたいと思い、私が命令を下しても聞く耳を持つ者はいなかった。やむを得ず、協力してくれた者には将来、将軍に推すことを確約した」

「そんな約束をして大丈夫なのですか?」

「さあ、どうかな。おそらくその者たちはすでに皆死んだだろう。私には説得している時間などなかったので軍の中でとびきり欲深そうな、酒宴に興じている者だけを選んで、偽りの約束をした。時間がないときは、その方がてっとり早い」

 

 韓信はすこしいらついた表情を浮かべた。自分の行動に嫌悪感を抱いたのかもしれない。

「欲深な者は、欲につられて仕事をする。その先の運命まで、私が責任を持つことはない」

 

 一座はしんとなった。

 

「さあ、この話は、これで終わりだ。作戦の続きである。巨岩によって道を塞ぎ、楚軍の分断に成功したあと、我々は取り残された前方の軍に対してのみ、中央突破を仕掛ける。突破に成功したあと、戻ってきてもう一撃を加える。これで前後に分断された敵は左右にも分断される。そこでまず、右に寄せた敵を、川に落としてしまえ。落ちただけでは落命はしないだろうが、おいそれとは登ってこられぬ。この時点で兵数で当方が楚に上回る。そこで残りの山側の兵を取り囲み、釘付けにせよ……カムジン、残念だが今回は馬の出番はない。お前も皆と同じように弩を持て。短弓は腰にでも下げておくのだ」

 

 カムジンをはじめ、兵たちはなるほど、と相づちを打ったが、なにか忘れているような気がしてならない。そう、項王がそれを黙って見ているかどうかであった。

「残るは項王である……。厄介な相手だが、諸君が中央突破にかかると同時に、その相手は私がつとめよう」

 

 このときの韓信は珍しく多弁であったが、それは尋常でない決意の証のようであった。

 

 

 劉邦の車列が通り過ぎると、左右に開いた陣は再び閉じた。

 

 そして、

――来る。

――項王が来る。

 という緊張に満ちた意識が兵たちの間に蔓延していく。

 

 ひとり冷静なのは、韓信のみであった。

「来たぞ。相手は百騎以上はいるようだ」

 

 韓信は剣をたかだかとかざし、兵たちに号令した。

「先頭の葦毛あしげ)の馬に乗っているのが項王だ。諸君、落ち着いてあれを狙え」

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 そして勢いよく剣を振り下ろした。

「射て!」

 

 弩から発射された無数の矢が先頭の項羽めがけて放たれた。

 弩は弓と違って矢の勢いに個人的力量の差はない。同じ速度で標的めがけて放たれた矢の数々は、それがひとつの固まりであるかのように見えた。

 

 矢が項羽軍の先頭集団に達し、何人もの兵士が、馬ごと転倒した。

 

「ひるむな。応射せよ!」

 項羽の命により楚軍からも矢が放たれたが、馬上からの射撃は密度が薄い。しかも隊列を横に組んで盾を密に並べていた韓信の軍には、目覚ましい打撃を加えることはできなかった。

 

 項羽は、ちっ、と舌打ちをしながら体勢を整え、全軍に命じた。相手は、たかだか四十人あまり、数で制して突破をはかれば必ずや、打ち砕ける。

 

「縦深隊形をとり、中央を突破せよ」

 陣形を細長い針のような形にして、相手の陣を左右に分断するつもりであった。

 しかし、これが裏目に出た。

 

 突撃を開始した直後、項羽の後方から轟音が響き、振り向くとそこには味方の姿はなく、自分の背丈の五倍以上ある巨岩が何個も積み重なっているばかりであった。

 

 項羽は岩によって、後方の部隊を失ったのである。

 岩のいくつかは、楚軍の兵士を巻き添えにして、川に落ちていった。

 そしていくつかは楚軍の兵士を下敷きにして、隘路の上に留まった。

 そしてその上にさらに岩が積み重なり、乗り越えられない壁となった。

 

「前方に残った楚兵は何騎ほどだ?」

 韓信の問いに傍らの兵は、すかさず答える。

「二十騎ほどであります!」

「……よし。上出来だ。数ですでに上回ったぞ」

 

 韓信はそう言い、兵たちに合図をした。合図と同時に戦鼓が鳴り、今度は漢兵の突撃が開始された。

 

 混乱した楚軍の中に、鋭く漢軍の兵士が斬りかかっていく。細い道の中で楚軍は中央を突破され、左右に切り裂かれた。さらに返す一撃で川側に追い込まれた楚兵たちが谷底へ突き落とされた。

 

 項羽は、乱れる隊列を戻そうと、残った山側の兵たちの支援に向かった。

 が、その先に立ちはだかった者がいる。

 

 韓信であった。

「項王……。私を覚えておられるか。かつて楚軍で郎中の職にあった、韓信です」

 

 項羽は、韓信を見据えていった。

「覚えている。ごろつきの股の下を恥じらいもなくくぐった臆病者だ。今度はわしの股の下をくぐりに来たのか?」

「くだらぬ話を……。嘲りで私には勝てませんぞ」

 

 韓信は斬ってかかった。

 項羽はそれを剣で受け、韓信の倍以上の力で打ち返した。

 韓信の剣はそれを受けただけで、手からこぼれ落ちそうになった。しかしひるまずに身を翻して、再び斬りかかる。

 激しい剣の応酬が二度三度繰り返された。二人の距離が縮まり、剣の押し合いによる力比べが始まる。韓信は押されないように耐えるのが精一杯だったが、いっぽうの項羽には余裕があった。

 

「どうした。その程度の剣技では、わしを倒せはせぬぞ。お前の剣は長年使っていないようだな。刃こぼれしている。剣を研ぎ直して出直してくるがいい」

 項羽は韓信の耳元で言い、さらに押した。

 韓信は押されつつも身をよじり、項羽の腹に渾身の蹴りをいれて、飛びすさった。

「項王! 私は項王と剣技を競い合うために来たのではない。見よ、こうしている間に我が兵があなたを取り囲んでいるぞ!」

 

 項羽はそれを聞き、はっとしてあたりを見回した。すると独特の短弓を構えた若者の目が自分を見据えているのがわかった。

 

 カムジンが狙っていたのである。

 

 すでに山側の楚兵たちは討ち取られ、他の漢兵も遠巻きに弩を構えていた。

「韓信……貴様……!」

「卑怯だ、とでもいうおつもりか? 一騎打ちがしたいのであれば誰かほかの武人とでも相手をしてもらうがいい」

 

 韓信は答え、兵に号令した。

「射て!」

 

 項羽は剣で降り掛かる矢をはらい、馬に飛び乗り、逃げるしかなかった。しかし逃げようとしても巨岩に阻まれ、それ以上道はない。

 項羽は馬の鼻先を谷の方角へ向け、そのまま谷底へ向かって突進していった。

 

 

「将軍、追わないのですか?」

 

 兵に問われた韓信は、疲れたように深く息をして、つぶやくように言った。

「行かせておけ。どのみちあの急斜面では追う我々の方が危ない。最初に掲げた目的を忘れるな。この作戦はそもそも、漢王が安全に逃れるための時間稼ぎである」

「驚きました……矢が一本も命中しませんでしたな。狙いは外れてなかったのですが」

「たまたまだ。あるいはこれを神がかりのように評する者もいるかもしれんが、私は信じぬ。振り回した剣に矢がたまたま当たった、それだけのことだ」

「これからどうするのです?」

「……敗兵をまとめつつ、滎陽へ向かう。そこで軍を立て直し、もう一度、項王と一戦するしかあるまい。どこかで楚軍の進軍を止めなければ、漢は関中を失うであろう」

 

 これを聞いた兵たちは、将来また項羽と戦う羽目になるのか、と気落ちする一方で、進んで韓信と行動をともにすることを決めた。

 彼らは、項羽と戦っても生き残ることができた。

 韓信の下にいれば、もう一度項羽と戦っても生き残れるかもしれない。ほかの将軍の下で戦っていては、死ぬかもしれなかった。

 

「さあ、ぼつぼつ向こうの楚兵たちが、岩をよじ登ってくるかもしれぬ。我々もそろそろ退散するとしよう」

 

 韓信は兵を率いて、その場を立ち去った。

 

 苦心して巨岩を乗り越え、楚兵たちが道の向こうに顔を出したころには、すでに項王はおろか、生きている者の姿は見えなかった。

 

 

 項羽の愛馬、騅(すい)は斜面に足を取られ、何度か転倒した。すでにその自慢の葦毛は泥にまみれ、ところどころから出血し、輝きを失っている。

 項羽はそれでも騅をいたわり、決して見捨てるようなことはしなかった。

 

「騅……脚は折れていないだろうな。もうひと踏ん張りだ。あと少しで上にあがれる」

 

 項羽は自分の体以上に、馬に愛情を込めて接した。それもそうであろう。項羽は、あれだけ至近距離から矢を浴びせられても、なお無傷なのである。

 彼はその愛馬以上に強かった。強運の持ち主だった、とも言えるかもしれない。

 

 しかし、それは体の外面の話である。内面では、屈辱が残った。心に負った、大きな傷である。

 

「韓信め……よくもわしの腹に蹴りを喰らわせたな。身分卑しき者が……」

 

 もともと感情の量が多い男である。挫折の感じ方も人並みではなかった。彼はひどく気持ちが沈んだが、しかしそんなときに心を落ち着かせる方法を知っていた。

 

 天命を信じることである。

 

 次の戦いに勝つことを想像するだけで、彼は気が紛れた。これが想像ではなく事実であれば、なおのこと気持ちが楽になるというものだ。

 

「見よ、わしは生きている! 天がわしにまだ死ぬときではない、と告げているのだ。小生意気な韓信や、身の程知らずの劉邦などに天の意思がわかろうはずもない。彼らを討ち滅ぼし、天下を治めるのは、このわしだ!」

 

 項羽はそう言って自分を励まし、ついに馬を引きながら斜面を登りきった。

 そのとき、雷鳴が轟き、激しい雨が降り注いだ。

 

 それはあたかも天の意思が項羽の感情に共鳴しているかのようであった。

 

 

(第一部・完)

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