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第 四 部

 

破 局 の 訪 れ( 続 き )

 

 

 まず最初に跪かないことを宣言した韓信は、問いつめるように言葉を継いだ。

「このたびの襲撃は、いったいどういうことか、ご説明いただきたい……。漢は斉に宣戦布告した、ということか。それとも我が斉兵の一部になにか礼を失した行為があり、それを誅罰なさっているのか。……楚が滅び、天下の覇者となり仰せた漢王に対して甚だ不遜ではあるが、ご返答によっては、しかるべくの対抗措置を取らざるを得ない。お覚悟はよろしいか」

 

 常になく断固とした韓信の物言いであったが、劉邦はこれに対して反応しない。

 かわって返答したのは御者の夏侯嬰であった。

「落ち着け、信。まずは馬から降りて跪くのだ。そして今の礼儀を失した言動を詫び、赦しを請え。話はそれからだ」

 

 韓信はしかしこれを黙殺し、なおも劉邦に向き直った。

「大王、ご返答を」

 

 慌てた夏侯嬰が声を荒げた。

「信!」

「夏侯嬰っ! 車馬を管理する太僕(職名)に過ぎないお前が軽々しく私の名を呼ぶな! 今の私は斉王だぞ! お前こそ車を降りて跪くのだ!」

 韓信は目を怒らせ、夏侯嬰を一喝した。これも常にないことである。

「落ち着けったら! 確かに今の君は王で、俺などは及びもつかない存在だ。だが、昔のことを忘れたわけではあるまい。君の才能を第一に見抜いたのは、この俺なのだぞ。その恩を忘れたわけではないだろうな」

「ああ、そのとおりだ。確かに君には感謝している。私が今斉王として君臨していられるのは、連座によって罪を着せられた私を君が救ってくれたからだ。しかし! それを恩に着せて私の前で野放図な態度で振る舞うな。君ほどの重鎮がそのような態度を見せると、馬鹿な者の中にはその形だけを真似ようとする奴が出てくるものなのだ。跪け!」

「…………!」

 

 二人の間に一触即発の空気が流れた。夏侯嬰はそれまで握っていた手綱を離し、腰の剣に手をかけた。

 それを見た韓信も剣を抜き、振り払って構えた。剣が空気を切り裂く「ひゅぅ」という音が、あたりの静寂をぬってこだまする。

 

「よさぬか」

 その静寂を破ったのは、劉邦の声であった。

「嬰、剣の柄から手を離せ。斉王が話している相手はお前ではなく、このわしだ。王同士の話し合いだ」

「は……」

 

 夏侯嬰は結局韓信に跪くことはしなかったが、それを機におとなしくなった。そのかわりに劉邦は車を降り、地に両足をつけて立ち、韓信と向き合う。

 韓信もこれにならい、馬から降りた。最低限の礼儀である。

 

「まずは、大王……。なぜこのようなところにいらっしゃるのかお聞きしたい」

「項羽の葬儀に参加してきたところだ。今は、その帰りよ」

「ほう……では、灌嬰は見事項王を仕留めたのですな……。それはそれで結構。天下はあなたのものになったわけだ。その覇者たるあなたが、なぜ私の軍を襲う?」

 

「信よ」

 夏侯嬰に向かって軽々しく呼ぶなと怒ってみせた韓信の名を、劉邦はさりげなく、しかもぬけぬけと呼んでみせた。

 

「単刀直入にいう。お前はつけ上がっているぞ。確かにお前の軍功は大きく、指揮能力は余人の追随を許さぬものだが、そんなお前でも万能ではない。そこでわしはお前の軍を破り、お前から兵を奪った。それを証明するために」

! 意味の分からないことを……。臣下の兵を主君が武力をもって奪うという話など、今まで聞いたこともない。武勇を自慢し、証明したいのなら敵に対してすればいいではないですか」

「お前は、敵よりも恐ろしい。今はそのことにお前自身が気付いていないだけだ。わからぬか? わしがお前なら……迷わず天下の覇者の地位を狙う」

「馬鹿馬鹿しいことを! 大王は大王のままでも天下を狙ったではないですか。私は……その手助けをしただけだ。私自身にはそんな気はない」

「お前がどう思おうと、関係ない。重要なのは、お前の意志ではなく、能力なのだ」

 

 

 韓信は、あきれた。あきれてものも言う気がしない。

 しかし、だからといってひれ伏すのも嫌だった。筋の通らない指示に従うことほど、彼にとって面白くないことはない。

 

「お言葉ですが」

 韓信は右手に持ったままの剣を強く握り直し、劉邦の目を見据えて言った。

 

「後方の兵を強奪することで私の勢力を割いたとお考えになるのは、間違いです。奪われた兵はせいぜい五、六万に過ぎません。それしきの兵力の喪失で私の軍が弱くなることはない。三十万が二十万、いや、十万でも私がその気になれば……」

「わしを殺すことができるというのか? 恫喝か、それは? だからこそわしはいくらでもお前の兵力を削ぎたいのだ。いっそ二度と兵の指揮がとれぬよう、お前の頭脳を破壊してやりたい。しかし、それはお前を殺すことだ。わしがそれをしないのは、ひとえにお前のこれまでの功績に感謝しているからなのだ」

 

 韓信の顔にますます怒りの色が浮かんできた。

――よくも、ぬけぬけと……。

「私は大王に殺されるべき存在だというのですか? 何故? 私は今まで一度たりとも叛逆をほのめかしたことはなく、私がこれまでしてきたことは、すべてあなたを利する結果となったはずだ。そのような者に対して、いきなり武力を行使して兵を奪うとは……甚だ心外だ。兵が欲しいのなら、差し上げましょう。ですが……なぜ口で、言葉にしてそう言ってくれなかったのです?」

「お前は臣下としての自分の立場をわかっておらぬようだな。本来臣下というものは、主君に生殺与奪の権を握られているものなのだ。そもそも項羽を倒し、天下の覇者となりえた主君たるこのわしが、兵を奪うのにわざわざおまえの許可を得る必要があるというのか!」

 劉邦は、主君の権威を自分に植え付けようとしている。

 それが理解できない韓信ではないが、おとなしく従う気にはどうしてもなれないのであった。死を命じられれば、死ぬしかない、そんな存在に自分がなるのは認められない。

 

「今、大王は項王を倒し、天下の覇者となりえた……その事実は認めましょう。臣下は覇者の命令を聞かねばならない……それもわかります。しかし、大王は大事なことをお忘れになられている。……功ある者をそれにふさわしい態度で迎えなければ、忠誠は失われる。いったい私の忠誠はどこに向けられるべきか? 大王は私の忠誠が不要なのか!」

「お前の忠誠はうわべだけのものだ。お前は、わしが死ねと命じても死ぬことはない。しかし、今までわしの窮地を救ってくれたのは、そのような死士たちがいたからなのだ。お前の功績は、彼らに及ばぬ」

「仮にそいつらが生きていたところで、私と同じ働きが出来たかどうかは疑問ですな。よいか大王、あえて言わせていただきます。事実上、項王を倒したのはこの私だ! あなたの言う死士が具体的に誰かは知らぬが、彼らに項王を倒すことができたというのですか」

 韓信の本音がついに出たかのような発言であった。

 

「信! そんなことを言うな! 臣下の功績は、主君に帰せられるものだ。そんなことぐらいお前にも理解できるだろう。子供でもわかることだぞ!」

 夏侯嬰がまた騒がしく叫んだ。韓信には、嬰が自分を心配して叫んでいることがわかる。

 しかし、それをありがたく感じるだけの気持ちの余裕が、このときの彼にはなかった。

「うるさい、黙れ、嬰っ!」

 

 韓信は感情をあらわにした。そもそも駆け引きをしようとしていたわけではない彼の気持ちが、そこに表れている。

「よせ。功臣たちが相争う姿を兵の前で見せるな。……信、お前の言いたいことはわかる。確かにお前に死なれては、天下統一の業はならなかった。わしとて感謝はしているのだ……。しかし、あえてわしはお前に言わざるを得ない」

「なにを」

「お前が先刻夏侯嬰に向かって言った内容と同じことだ。お前ほどの重鎮が軍功を鼻にかけて、わしの前で野放図な態度で振る舞うな。馬鹿な者の中には、お前のそのような態度を形だけ真似ようとする奴らが出てくるものだからだ」

「…………」

 

 なにも言い返せない。韓信は自分の立場を理解せざるを得なかった。軍功随一の自分は、軍功随一であるがために、見せしめにされている。

 劉邦の言う「馬鹿な者」とは、彭越や黥布のことを指すのだろうか。それとも趙王張耳や燕王臧荼(ぞうと)。あるいは韓王信……。彼らを統御するために自分は屈辱を受けながらもそれに耐えることを強いられているようであった。

 

 あるいは、自分は滅ぼされるかもしれない。彼らが増長し、権利を主張し始めることになれば……。

――軍功随一の韓信でさえ、粛清される。我々など彼に比べれば、くずのような存在に過ぎぬ……。彼が殺されたのだから、我々もいずれ……。

 諸侯たちがそう考え、おとなしくしていれば、劉邦としてはやりやすいに違いない。

 

――私は、やはり道具に過ぎぬ。

 韓信はそう考え、これ以降、自分のこれまでの生き方を内心で否定するようになった。

 

 

「信のやつめ。あいつはすっかり変わりましたな。昔はあんなことを言う男ではなかったのに」

 夏侯嬰は去りゆく韓信の背を眺めながら、なんとも悔しそうに呟いた。

 

「いや」

 劉邦は感心したようにそれに答える。

「昔のあいつは、軍事を極めようとするただの学生のようであったが、すっかり頼もしくなった。このわしを恫喝してみせるとは、やはり奴もいっぱしの王のひとり、ということよ」

「それは……褒めているのですか? それとも……」

「どちらとも言えん」

 

 臣下の成長を喜ぶと同時に、その危険を考えざるを得ない劉邦の微妙な心理がそのひとことにあらわれていた。が、夏侯嬰はそれに気付かない。

 

「聞くところによると、韓信は例の……魏の公女を失ったとか。奴の性格が変わったのはそれが一因ではないかと思われます」

「魏の公女? あの魏豹の娘を失った? 死んだのか」

「斉国内のちょっとした内乱が原因で命を落とした、と聞いております」

「ふうむ……。では、もしかしたら奴は、単に捨て鉢になっているだけかもしれぬな。しかし、人というものは大事なものを失ってからこそ、真価が問われる。奴がどう変わっていくのか、今後は見ものだな」

? あまり意味がよく分かりませんが」

「あいつはもともと……何と言えばいいのか……面従腹背の男だ。表面的な態度は柔らかいが、心の底では誰も信頼していない。そんなあいつが愛した女が、魏豹の娘であった。おそらく魏豹の娘は、韓信の欠点を補い、奴が道を誤らないように導いたことだろう。わしも何度かあの娘を見たことがあるが、そのとき受けた印象が、そんなものだった。お前も彼女を見たことがあっただろう」

「私は、女は外見しか重要視しないたちですので……。しかし、それを失った韓信は?」

「導く者を失って道を誤るか、失った者の生前の教えを尊重して正しく生きるか、そのどちらかだろう」

 

 劉邦はそう言って識者ぶった表情をしてみせた。

――元来ぐうたらで、やくざのような生活をしてきた漢王などに、人が正しく生きる道などわかるのだろうか?

 夏侯嬰は、ひそかにそう思った。劉邦の付き人のような存在の嬰でさえそう思うのだから、もし韓信本人がこの言葉を聞いたとしたら、怒りをあらわにしたかもしれない。

 

「お前に、人の道のなにがわかるというのか!」

 と。

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 右手に握られた剣は、振り回す機会を与えられないまま、鞘に納められた。

 あるいは韓信が劉邦に叛意を示し、殺そうとしたとすれば、このときが最後の機会であったかもしれない。

 しかし、忠義のために命を捨てる死士とまではいかなくとも、常識的な意味での忠誠心をもっていた彼は、それがために思い切った行動はとれなかった。

 だがそのために、未来は彼の予見したとおりの方向に動いていくのである。

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