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第 四 部

 

破 局 の 訪 れ

 

 

 定陶。

 かつて項梁が命を落とした地。このとき、定陶は梁に属する。

 韓信は、あちこちに潜む楚の残党に進路を阻まれながら、ようやく済水のほとりに位置するこの地にたどり着き、兵に休息を与えた。梁は彭越が支配する友邦の地ではあったが、用心深い韓信が随所に軍塁を築き、警戒を怠らなかったことは言うまでもない。このため、兵たちにとって本当の意味での休息はなかった。

 定陶にたどり着いたと言っても、もちろん堂々と城門の前で休むわけではなく、必要以上に目立たぬよう遠くに城門を望む位置に軍を留め、なおかつ敵の目の届かない山陰に身を潜めて、休息をとるのである。必然的に野営する形になるわけだが、それも遠征軍としては仕方のないことである。

 

 あたりが夕闇に包まれ、星が見えてくるころになると、遠目に見える定陶の城壁の上に灯がともった。橙色に浮かび上がったような城市の姿は幻想的であり、兵たちの中には夜の町に遊ぶ平和な日々を連想し、涙を流す者もいる。

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 しかし韓信の頭の中には、そのようなものはない。

 彼の頭の中には、かつてこの城市で松明の明かりの下、演説をした章邯の姿があるばかりであった

「……賊は誅罰されるものであり、討つにあたって我々は礼儀など必要としない。ただ、殺せばよいのだ!」

 

 恐れを抱きつつも、圧倒的な章邯の存在感にちひしがれた自分。

 あのとき自分は知らず知らずのうちに章邯に憧れを抱いたのかもしれない。

 

「大秦万歳!」

 秦の兵卒たちのあの一体感。どうやってあれほど彼らを統率することができたのだろうか。軍の指揮能力に自信がないわけではないが、自分には兵を熱狂させるなにかが足りないのかもしれない。

 

 韓信はぼんやりと輝く定陶の灯を見ながら、そんなことを考えた。しかし考えても答えが見つかるわけではない。

 そもそも彼には熱狂する兵の気持ちがわからなかった。

 というのは、彼自身が誰かに熱狂するほどの忠誠を誓ったことがないからである。

 

 例えば彼は、冗談でも「大漢万歳」などとは言ったことがなく、ましてや「大斉万歳」などと叫び、兵を鼓舞しようとしたことはなかった。

 だとすれば、自分はなんのために戦ってきたのか。

 漢王のためか? 少し違う気がする。

 では項王を倒すためか? それも違う気がする。確かに項王は自分を重用せず、身内の者ばかりを厚く遇した。しかし、だからといって殺したいほど憎いというわけではない。

 

 やはり自分は戦いたかったから戦った、ただそれだけなのだ。戦い自体に目的はなく、なんの主義主張もなしに道具のように人を殺す、ただの職業的殺し屋なのだ。

 そんな自分が身分不相応にも王を称し、望みもしないのに人の上に立つことになった。

 その報いは主君からのいわれのない不信の目。

 あげくはたったひとりの愛した女性を失うという目も当てられない悲劇。

 しかし、それらはすべて自分がさしたる理由もなしに戦いを好んだ結果、招いた出来事なのだ。したがって、誰を責めようもない。

 

――あの城壁……。

 かつて生爪を剥がしながらよじ登った城壁が見える。

 あらためて見ると、城壁は相当に高く、一般的な人の背丈の十倍はありそうだった。また、この時代の城壁の多くは土を固めたものに過ぎないが、その構造は頑丈であり、土だからといって指を突き刺したとしても、穴が開いたりすることはめったにない。

 

――我ながら、よくあの壁を乗り越えたものだ……。

 人間は生命の危機を感じると、本能的に潜在的な力を発揮するというが、あの時の自分がまさにそうであった、と韓信は思わざるを得ない。

 次々と討ち取られていく仲間を尻目に、彼らを助けようともせず、生き残ることだけを考え、あたふたと逃げ回った自分。自分の命が危機に晒されているとき、当時の主君である項梁を守ろうなどとは露ほども考えなかった自分がそこにいた。

 

――項梁に心酔している者ならば、守ったかもしれぬ。しかし、あの時の私は……いや、今でも私には自分の命を賭けてまで守ろうとする者はない。

 項梁が劉邦であったとしても、自分は見捨てただろう、と韓信は思うのである。

 

――あるいはあの時私の隣にいたのが蘭であったら……。

 守ろうとするに違いない。自分が死を賭してまで守ろうとする相手は、彼にとって、蘭しかいなかった。

 しかし、その蘭ももういない。

 

――なんとも死に甲斐のない人生ではないか。

 あるいはそれは生き甲斐よりも重要なことだったかもしれない。特にこの時代の武人にとっては、自分がなんのために、どうやって死ぬかということは、どのように生きたかということより大切なことなのである。

 

「……士というものは、自分の死も劇的に演出するものだ」

 かつて酈生は韓信に残した書簡の中で、そう語った。

 死を目前にすると、その人物の本性が現れる。自分の信じた生き方を貫こうとすれば、死を前にして恐怖をあらわすことは許されない。それは自分で自分の生き方を否定することであり、どれだけ美しく生きたとしても最後に醜態をさらすことになるのであった。

 少なくとも当時、士を自称した人物はそう信じたのである。

 

 だが韓信はすでに蘭を失い、自分の死に様を表現することもできない。

――私を残して先に逝くとは……君は私にどう生きよ、というのか……。

 

 過去の出来事から未来への不安を連想していくうちに、すっかり夜もふけ、韓信はまどろんだ。冬の寒さの中でも平気で眠気を催す自分が恨めしい。

 

 その夜、韓信は蘭の夢を見た。

 

 

 夢に現れた蘭の姿は、あるときは見慣れた軍装だったかと思うと、次の瞬間には一糸もまとわぬ裸身であったりした。

 

 夢の中の彼女は、脈絡もなく目の前で弓を放っていたり、なにかを語りかけてきたりする。しかし、その話の内容がどのようなものなのか、韓信は自分の頭にどうしても理解させることができない。

 彼はそれにもどかしい思いを抱いたが、その思いさえ現実のものではない。すべて夢の中のことなのである。

 さらに彼を苛立たせたのは、美しいはずの蘭の裸身が、わずかに不鮮明だったことである。現実の世界では、彼はほんの数度、しかも暗がりでしか見たことがなかったため、頭の中にそれを細部にわたって焼き付けることができなかったからであった。

 夢から覚めたとき、彼が思ったのは深い後悔と、おぼろげに感じられる不安であった。

 夢の中の蘭は、具体的になにを告げているのかわからなかったが、どうも注意を促していたように思われる。たとえ夢でも彼女に再会できたことを喜ぶより、韓信にはそのことの方が気にかかった。

 

 既に夜が開け始め、辺りには気の早い鳥の声が響いていた。城壁の灯は既に消えている。彼がそれに気付いたとき、鳥の声に混じって後方から兵の怒号が聞こえてきた。

 

「何ごとだ」

 夜警を担当していた兵たちにそう尋ねてみたが、混乱しているようで返答は要領を得ない。

 前方にいた兵士たちにとって、このとき自軍内に何が起こっているのか正確に判断することが難しかったようである。三十万という大軍の弊害がここにあった。

 

 後方の部隊からの伝令が韓信のもとに駆けつけたのは、それから数刻してからである。その伝令が息を切らしながら韓信の前で跪き、告げた。

「後ろから、襲撃を受けました」

 

 報告内容の意外さに韓信は思わず声を荒げた。

「後ろだと!」

 楚の残党か、それとも彭越の手の者か?

「いったい、どこの敵だ」

 

 伝令は答えて言った。

「漢軍です。敵は漢。しかも漢王直属の部隊です」

「漢王が……!」

「すでに後方の部隊は包囲され、兵は奪われつつあります」

 

 これを聞いた韓信の目が、怒りに燃えた。

「……寝ている者たちを起こせ! 中軍の陣形を組み直し、鶴翼の陣を敷け。後方に迫る敵を包囲しつつ、敗兵を収容するのだ。これ以上兵を奪われるな!」

 韓信は全軍にそう指示を出し、自らも馬に乗り、駆け出そうとした。

 

「対抗するのですか」

 漢王の軍を相手に戦うということに、斉兵の誰もが尻込みをした。韓信自身も決して乗り気だったわけではない。しかし、楚が事実上滅びた今、劉邦は増長し、思いのままに振る舞おうとしている。斉の元首として自分は、それをどこかで止めなければならない。

「当然だ」

 そう言い残し、韓信は数名の部下を引き連れ、敵陣近くまで突進していった。

 

 

 韓信の軍に目立った将はいない。常に韓信自身が直接軍の指揮をとり続けたため、その必要がなかったためである。

 当初、斉兵の多くは韓信に馴染まず、なかなか言うことを聞こうとしなかったが、韓信の軍事における指示は微に入り細を穿つもので、彼らがかつて仕えた田栄や田横とはまるで違った。

 もともと名族の出だった彼らは、兵を酷使し、必要以上に叱責する。そのおかげで現場はぴりりとした空気に包まれることは確かだったが、肝心な場面では、具体的な指示はなかった。

 窮地に立たされ、どうすればいいか迷っているときに彼らが受ける指示は、「命を捨てて戦え」という非常に抽象的なものでしかなかったのである。

 

 一方韓信は、そのようなときには細かく指示を出した。右に逃れよ、左に逃れよ、と。そしてその指示に従えば、自分たちの命が助かるばかりか、形勢を逆転し、最終的に勝つことができたのである。

 

 このため韓信に対する斉兵の信頼は高まっていた。しかし、一方でこのことが韓信のいない場所では斉の兵は弱いという結果を生んだ。皮肉なことに、兵が自分の頭で考えるということをしなくなったのである。

 このときの混乱も、そのことが生んだ弊害と言ってもよく、韓信の目の届かない後方でそれは起き、彼が駆けつけると事態は収束に向かったのである。

 

 韓信が姿を見せると、兵たちは安心して落ち着きを取り戻し、統率された動きを見せた。斉兵を包囲している漢兵たちを大きく両側から取り囲み、さらにに包囲する態勢をとったのである。

 だが、相手は友軍だということもあり、激しく攻めたてるということはしない。包囲しかえすという行為によって、無言の圧力を加えたのである。

 

 漢は包囲している斉軍後方部隊を攻撃することができない。攻撃すれば、韓信に攻められるからである。いっぽう韓信も漢軍を攻撃できない。攻撃しようとすれば、漢軍は報復として包囲している斉の後方部隊を殲滅しようとする素振りを見せたからである。これにより戦場は膠着状態となり、双方ともに動きがとれなくなった。

 

 そのような睨み合いが小一時間も続いたころ、漢の側に動きが見えた。劉邦が車に乗り、その姿を現したのである。

 韓信もこれを見つけ、睨むように劉邦を見据えると、挑戦的な口調で言い放った。

 

「漢王。混乱のさなかとあって、馬上から失礼する」

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