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第 三 部

 

三 国 は 鼎 の 脚 の 如 く( 続 き )

 

 

「……人の意見を聞くことが、まず第一。第二にはその意見をもとに計画を練ること。これが物事を成功に導く手段でございます。間違った意見を尊重し、適切な計画をたてることなく、長い間安泰であった者は、稀です。大王、決断は知ることの結果であり、逡巡は物事の妨げなのですぞ」

「わかっている」

 

「細かな計算を充分たてているつもりでも、天下の大きな見通しを持たぬことは、木を見て森を見ないことと同じです。また、知識を得ておきながら、決断して行動に移す勇気を持たぬ者に幸福は訪れぬ、といわれています」

「ふむ」

 

「猛虎の逡巡は、蜂が刺すのに劣る。進まぬ駿馬は、鈍い駄馬の歩みに劣る。勇者の気後れは、凡人の決断に劣るのです」

「…………」

 

「功業は成功しにくく失敗しやすいもの。機会というものは、つかみにくく失いやすいものなのです。時は来れり。おそらくは、いまこそが一生に一度の機会なのですぞ。これを逃せば、二度と機会は訪れますまい」

 

 蒯通は、韓信が小さな恩義にこだわり、決断しないことに憤りを感じていた。もし自分が韓信の立場であったら……ためらうことなく決断する。

――乱世の武人であるという、自覚が足りないのだ。

 

 蒯通は韓信の悩む姿を見るにたびに、そう思う。およそ天下に覇を唱えようとする人物などは、人のことを人と思ってはならない。世界を敵に回す覚悟が必要なのだ。

――しかし、残念なことに、この男にはそれがない。能力は有り余るほどなのだが……。

 

 だが、それを理由に韓信を責める気にはならない。そもそも蒯通は、韓信に覇王となる意志がもとよりないことを知っていたからだ。本人の意志とは無関係に、勝手に話を進めているのは自分の方であった。

 

――私の思いは、果たされることがないだろう。

 

 蒯通は、半ば諦めている。それでもこうして説得を続ける自分が、不思議でたまらない。

 

 もともと蒯通は縦横家として、君主の意を酌み、その王業を助けるために弁を武器として諸国間を渡り歩くべく身をたてたのであった。しかし、思い返せば、自分が弁をふるった相手は君主たる韓信に対してばかりで、その意味ではまったく王業を助けているとはいえない。

 

――斉王自身が項王や漢王相手に対抗意識を燃やしてくれなければ、私が彼らを相手に弁論する機会は、訪れない。

 ということは、自分は武人ではないが、あるいは韓信のように乱世に名を轟かしたいだけなのか。天下の趨勢を変える弁士として活躍の場を得たい、ということなのか。

 

 そう考えてみると、自分が韓信を相手にくどくどと長広舌をふるう理由が、次第にわかってきた。

――私は、斉王の活躍を、妬んでいる。……いや、妬んでいるとはいっても、彼を憎んでいるわけではない。私は、彼に憧れているのだ……そうに違いない。

 

 はたして自分は単に王業を助けたかっただけなのか。もしそうであれば最初から項王や漢王に仕えていれば、その目的は果たせたはずだ。しかしあえて自分はそれをせず、韓信を選んだ。それはなぜか?

――彼が若く、可能性を秘めていたように見えたからか……。いや、彼の年齢は項王とさほど違いがない。だとすれば、自分が彼に惚れ込んだ理由は、彼の若さだけではないはずだ。

 

 項羽や劉邦にあって、韓信にないもの。それは他者を威圧するような鋭気に満ちた態度であった。反対に韓信にあって、項羽や劉邦にはないもの。それは冷静に現実を見据える目であった。

――初めて彼の姿を見たとき、既に彼は漢の大将として数々の武勲を誇っていたが、外見の印象からはまったくそれを感じさせない、普通の青年のように見えたものだ。

 

 見る者によっては、韓信には覇気が足りなく、冷めた感情で物事を判断する傾向があり、頼りなく感じたことだろう。しかし、実際は彼のそのような性格が数々の武勲を生じさせたのである。

 

 例えば韓信は、勝つためには自尊心など捨て、平気で負けるふりをした。劉邦はまだしも、項羽などには絶対あり得ない行動である。

 そして韓信は、再三にわたって自分を囮にして、敵将を討ち取った。常に危地に身を置き、それによって勝利を得ようとする行動は、項羽はまだしも劉邦にはない。

 しかもそれらはいずれも、敵に勝利し、かつ自分が生き残るための最も有効な手段だったのである。このように、韓信はすこぶる冷静な判断を下す男であった。

 

 その韓信は、狡猾な敵将を相手に、それ以上の狡猾さを発揮して撃ち破った。また、偏った知識に凝り固まった敵将を、それを上回る知識の高さで撃ち破り、傲岸かつ腕力自慢の敵将を、それをあざ笑うかのような知恵で撃破した。

 蒯通はそばでそれを見ていて、そのたびに痛快な思いをしたことを思い出さずにはいられなかった。楽しかったのである。

 

――この人物であれば、確実に王となれる。私はそれを助け、天下に絶対的な覇王を生み出すのだ。

 蒯通は無意識のうちに、それを自分に義務として課したに違いない。

 

――しかし、私はどこかで思い違いをしていたのかもしれぬ。常に現実的な判断を下す韓信は、覇王となって時流に乗った生き方をすることを拒んでいる。思えば彼は、将来に夢を馳せるあまり、現実と夢の区別がつかなくなるような若者ではなかった。これは韓信より、私の方が夢見がちな性格であった、ということか?

 

 蒯通はそれに気付いたが、それでも韓信の返答に一縷の望みを託している。藁にもすがる思いであった。しかし、それも将来に夢を馳せていることに変わりがない。

 

 

「学者というものは、似たような考え方をするものらしい。かつて酈生は私に、『漢の世になっても、それに属さず、独立を保て』と助言を残した」

 

 韓信は蒯通を前に重い口を開き、話し始めた。

「このことは内密に頼む。酈生は漢の功臣として死んだ。その彼が私に謀反を唆したという記録を残したくない」

「承知しております」

 

 蒯通には、もとより会話の内容を他言する意志はない。それもそのはず、彼が韓信に訴えているのは、他ならぬ謀反の勧めであったからだ。説得に失敗し、ことが曹参や灌嬰などに漏れると、自分の命が危ない。

 

「酈生は私に独立したほうが、孤高を保てると遺言を残したが、思うにそれは私の個人的な性格を考慮した上での発言で、戦略的なものではない。……彼が私に独立を勧めたのは、私が基本的に他者との濃密な関係を嫌うことを察してのことだと思うのだ。つまり、無理をして人の上に立つよりは、誰とも関わらず、世捨て人のように生きろと……」

「…………」

 

「私は、どちらかというと他者と向き合うよりは、自分と向き合う方が好きだ。私の周囲には愛すべき人物が多数いるが、残念ながら世の中には、そうでない人物の方が多い。君も知っていることと思うが、私はかつて無法者にいわれのない侮辱を受け、その者の股の下をくぐったことがある……このうえもない屈辱だった。……私は王となったからには、あのような無学な、人を侮辱することを楽しみとしているような……とにかくあのような人物を、この世から一掃したい、と思っている。だが、人道的な観点から判断すると、それは間違いだ。強権を武器にそのような人物を有無を言わさず抹殺することは、人道に反する。それを私が行えば、私自身が彼らを批判する資格を失ってしまうのだ」

 韓信が昔の屈辱について言及するのは、極めて珍しい。自ら語ることがなかったので、多くの人は韓信が昔のことを気にも留めていないと考えがちであったが、本当はそのようなことはなく、彼は忘れていなかった。

 蒯通は韓信の恨み節ともいえそうな今の発言内容に驚きを感じざるを得ない。

 

「漢王に関しても、また然り……。かつて君と私は、漢王の私に対する扱いに関して賭けをしたことがあったな。あの時の勝負は曖昧な結果に終わったが、今に至り、私は断言することができる。……賭けは君の勝ちだ。漢王の私を見る目は猜疑に満ちている」

「そうでしょう。だからこそ私は……」

「ただし」

 韓信は語気を若干強めた。おそらく自分に言い聞かせているつもりなのだろう。蒯通はそう思い、口を閉ざした。

 

「漢王が恐れているのは私の指揮能力であって、私個人ではない。例えば私と漢王が二人きりで対面している際に、漢王は死の恐怖を感じたりするだろうか? 韓信に殺される、と思ったりするだろうか?」

「……どうでしょう。私には、大王がその腰の剣で漢王をひと突きにするとは、思えません。しかし、漢王もそう思うとは断言できますまい」

 

「いや、私には断言できる。漢王は自分が殺されないとわかっているからこそ、私の勢力を削り、印綬を強奪するなどの行為を平然と行う。本気で恐れているのであれば、そのようなこともできはしないはずなのだ。つまり、私は漢王に一方では恐れられながら、一方では、なめられている」

「では……」

「しかし、なめられるのは、当然のことだ。私は彼の臣下なのだからな。つまり漢王は、私のことを恐れながら、まだ私のことを臣下として扱ってくださっている。臣下たる私としては、それが屈辱だとしても甘受するのが当然だろう」

 

 蒯通は、ここに至り、韓信の言いたいことが理解できた。彼は、あえて鉾を収める、と言いたいのだろう。蒯通は全身の力が抜けていくのを自覚した。

 

「私は屈辱を受けたとしても、仕返しをすることを恐れる。自分で言うのもおかしいが、私は……計算高い男だ。仕返しをしようと思えば、緻密な計算でそれをやりきることができる。小は淮陰の無法者から、大は漢王に至るまで……。だが、仕返しは仕返しを呼び、結果、私は天寿をまっとうできないだろう」

「では大王は、漢王に忠誠を尽くすと……? 自立はしないと?」

 

「そうだ。侮辱を受けたとして、それに武力で対抗するのは、私の良心が許さない。正しいと思えぬ。ためらう理由がある以上、実行すべきではない、というのが結論だ。たとえ漢王が私のことを恐れ、邪険な扱いをしようとも、私自身が自重すれば、決定的な破局は免れる。漢王が自ら破局を招こうとするならば仕方ないが、あえて私の方からそれを招くことはない」

「大王の名は後世に忠臣として伝わることでしょうな。しかし、それは悲劇的なものでありましょう」

 

「……裏切り者として名を残すよりはましだ」

 

 蒯通は絶望した。彼の意見は取り入れられなかったのである。失意のうちに座を立とうとする蒯通であったが、そんな彼に韓信は別れ際、ひとこと言葉を添えた。

 

「蒯先生……」

「は……」

「ありがとう。君が意見してくれたおかげで、私は深く考え、自分を見つめ直すことができた。今後思い迷うことがあれば、私は君の言ったことを思い出し、それをもとにどう行動すべきか決めるだろう」

 このときの韓信の発言は、本人にとっては単純な謝意の表明のつもりであったに違いない。

 しかし、蒯通にとってはこれが別れの言葉のように思えたのである。

 

 

 斉は幼い子供まで猜疑心が強く、民衆の端々に至るまで謀略に満ちた国である。首都の臨淄はかつて学問の都であったが、その影響からか民は純朴ではなく、中途半端な知識を持ち、口答えすることが多い。また、刃傷沙汰も多く、城市には無頼漢がはびこり、治安がいいとはいえなかった。これについては諸説あるが、かつて斉の最大有力者であった田文(孟嘗君)が諸国から食客を集め、それによって繁栄を得たが、一方で愚にもつかない無法者も斉に集結したことによるものだとされている。

 この時代の無頼漢たちは、その子孫であるらしかった。

 

 このためにわかに王を称した韓信にとって、斉を治めることは楽な仕事ではない。もともと人が感情を優先して行動することを本質的に嫌う彼は、統制された国家を望んだ。すなわち、法によってすべてを管理し、城市には軍隊が巡回するような国家である。

 しかしそれが行き過ぎると民衆の反発を招き、暴動や反乱を招くこととなる。このため曹参や魏蘭が助言を与えるとともに、統治策に修正を加えたりして、どうにか斉は運営されている、というのが現状であった。

 

 韓信は自分のあずかり知らぬところで事件がおき、それが重大な結果を招くことを極端に恐れた。このため城市でささいなことがあっても、韓信のもとに通報が届くような仕組みづくりをしている。警察国家のような傾向があり、韓信自身もそれが最良の策だと信じて行っていたわけではない。

 しかし、彼がそのようにまるですべてを把握しようと努力したことには、理由があった。

 

 かつての邯鄲での出来事は、自分の統治能力への不信を呼び起こすとともに、大事な人物を失う結果になった。韓信はそれを再現させてはならないと思い、必要以上に民衆を監視する政策をとったのである。

 

 この日、韓信のもとに届けられた報告は、かつて耳にしたこともない、異様なものであった。

 

「市中に妙な話を神託として触れ回っている狂人がいる」

 というのが、その第一報である。韓信は、胸騒ぎがした。

 

――革命は、神託から起きる。それがどんなにくだらぬ内容でも……。

 

 神託が真実かどうかは、問題ではない。問題はそれを触れ回る者がどのような意志をもっているか、であった。実際に陳勝と呉広は架空の神託をたよりに、革命をある程度、成功させたのだった。韓信としては、単なる珍妙な出来事として捨て置くわけにはいかない。

 

「詳しく調べ、逐一報告せよ」

 韓信はそう命じたが、そのうち落ち着かなくなり、自分で確かめようと、ひそかに市中に出かけた。斉王だと市中の者に悟られぬよう、連れには蘭だけを選んだ。

 

「護衛は、必要ないのですか?」

 蘭は韓信の不用心な行動を案じ、そう尋ねた。

 

「目立たぬようにしていれば心配ないだろう。それにもともと護衛などいらぬ。私は、ある程度剣技には長じているから……。もし道ばたに項王が潜んでいたら死を覚悟するが、まさかそんなことはないだろう」

 

 韓信はこのとき冗談を言ったらしかったが、蘭としては落ち着かない。彼女としては、道ばたで韓信が命を落とすことが天下の趨勢にどんな影響を与えるのか、想像するだけで恐ろしかったのである。

 

「いざという時には、君のことも守り通してみせる」

 その言葉は、頼もしいことは確かだったが、韓信らしくないとも感じられた。不安を打ち消そうと、無理に発した言葉のように思えたのである。

 

「……ああ、あれのようです」

 蘭が指差した先には、世にも珍妙ないでたちをした初老の男が、やはり珍奇な舞を披露していた。額には鉢巻きをし、両手に松明を持ち、ほぼ全裸に近い格好で何やら聞き取れない言葉を大声で発している。

 よく耳を凝らしてみると、彼は世の行く末について予言をしているかのようであった。顔や体を白い塗料で塗りたくり、舞っている。

 それは……極めて原始的な神官の姿であった。

 

「……黄河は血の色に染まり、名は改められる。赤河と! 蝗は人肉を喰らい! 大地は血で染まる! 雨は降れども草木は枯れ、風は吹けども熱は冷めず! 飛ばぬ鳥は犬に喰われ、走らぬ犬は蟻に喰われる。三王は喰い喰われ、やがて空も血の色に……ひひ……おぇ

「なんだ、あれは。なにを言っている」

 

 韓信と蘭は揃ってあっけにとられ、しばらく物も言わずにその男の姿を見つめていたが、そのうち、二人ともやりきれぬ思いに耐えきれず、涙が流れてくるのを抑えられなくなった。

「ひひ……信……信ではないか。ぎゃは! 蘭……お前たちにいいものをやろう」

 

 その男はこちらに気が付くと近づいて、二人に水銀で練った仙薬を手渡した。

「不老不死の薬だで! それを呑めば千年の長寿。ぎゃは!」

 

 その男はそう言い残すと、振り向きもせず走り去っていった。

 手に残された水銀の塊は、ただのの塊に過ぎない。かつては薬として処方されたこともあったが、この時代にそれを信じて呑むことは、気違いを証明することであった。

 

「……蒯先生……!」

 韓信は涙にくれ、大地に膝をついた。

 蘭は嗚咽し、水銀の塊を地に投げつけた。

 

 韓信の決断は、蒯通の気をふれさせたのである。

 しかし、蒯通が本当に気狂いを起こしたのか、というとそうではない。

 謀反を使嗾した蒯通は、処断されることを恐れ、気違いのふりをしたのである。

 叛逆を使嗾した時点で既に気がふれていたのだと彼はその行動によって、主張したのだった。後難を恐れての行為である。

 

――私が、君を殺すと思うのか! 君は、私をそんな男だと……!

 韓信はそう思ったが、もはやどうすることもできない。自分の決断が、彼にあのような行動を起こさせたことを後悔するべきかどうかも見当がつかなかった。

 

 蒯通は二度と韓信の前に顔を見せなかった。狂人を装い、逐電したのである。たとえ韓信が決断を後悔したとしても、結果は変わらなかったことだろう。

 

 蒯通の立案した三国鼎立の戦略はこの時代に成立することはなかったが、これより四百年後に活躍する諸葛亮という人物に見出され、実現される。「天下三分の計」としてあまりにも有名なこの策は、元来劉邦、項羽、韓信の三人の王を分立させ、その武力均衡によって社会を安定させるという蒯通の策をもとにしたものであった。

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