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第 三 部

 

三 国 は 鼎 の 脚 の 如 く

 

 

 蒯通との会話を切り上げた韓信は、居室に戻ると侍従の者に蘭を呼ぶように言いつけた。彼としては曹参に先に相談するべきか迷ったのだが、考えてみれば劉邦の腹心たる曹参が韓信の自立を支持するはずがない。韓信にはそもそも自立の気持ちはなかったが、それでも曹参を相手に結果のわかりきった相談をするよりは、蘭を相手にした方が客観的な意見が聞けると思ったのである。

 

 また、蒯通との対話に常にない疲労を感じた韓信は、無意識に蘭に癒しを求めた。

 ふとそのことに気付いた彼は、

――自分も、いつの間にか弱くなったものだ。

 と感じるのである。

 それが自分にとって良いことなのか悪いことなのか、一概に断定することはできない。

 

 召し出された蘭は、間もなく韓信のもとに現れ、常と変わらない挨拶をした。

「将軍、蘭にございます」

 

 蘭が韓信のことをいまだに将軍と呼ぶのは、韓信の希望によってのことである。

 

「早かったな。蘭……」

「お召しがあるものと思っておりましたので。……それで蒯通さまはどのようなことを?」

「うん……一言でいうと、自立しろと。そうしないと私自身の身が危ういそうだ。漢王にも項王にも味方せず、三国鼎立の世を実現しろと彼は言った」

 

 その言葉を聞いた蘭が漏らした感想は、

「いかにも蒯通さまが言いそうなことでございますね。理には適っていると思います」

というものでしかなかった。

 

「……それだけか?」

 蘭の態度が意外にもそっけないものだったので、韓信は不安を抱かざるを得ない。もしや、自分は見放されたのではないか?

 

「いえ、私の意見などよりも重要なのは、将軍の意志でございます。将軍が蒯通さまの言うとおり行動することにしたのであれば、私は無条件にそれに従います」

 求められもしないのに意見などしない。臣下のとるべき態度としてはそれが正しいのかもしれないが、この時の蘭の態度はいつも以上にそれにこだわっているかのように思えた。いつもの蘭なら、そのような態度を必要以上にとることはないし、自分もそれを全く気にしたことはなかった。

 

――つまり、彼女の本心は反対なのだ。

 韓信はそう考え、口に出してはこう言ってみた。

「蘭には蘭の考えというものがあろう。私は、それを聞きたいのだ」

 

 蘭はしかし、あくまでも、

「私の考えよりも」

 と前置きし、韓信の主張をまず先に聞き出そうとした。

 韓信はもはやただの一将軍ではなく、王となった。それであるからにはまずは王が先に意見を主張すべきだ、と思ったのであろう。

「将軍がどう思うかが重要です。王の施策を実現するために幕僚は努力するものでございましょう? 幕僚の施策を実現するために王が努力するのは、順番が逆でございます」

「もっともなことだ。しかし、肝心の私の意志が定まらない。だから君の意見を聞きたいと思ったのだが……。正直な話、蒯先生の話は身につまされる思いがして、よくわかる。だが、いざ実行するとなると、どうか? 漢王に対してはあまりにも申し訳ない。項王に対しては、三国鼎立など通用しないように思える」

「それはそうでしょうね。仮に三国が並び立つ世になったとしても、争いはなくならないでしょう。項王は覇気の趣くまま行動し、斉を攻撃するかもしれません。そのとき漢が助けてくれるかどうか」

「……いやなことを言う。助けてくれるに決まっているではないか」

「……さあ、どうでしょう」

 

 二人の間に沈黙が流れた。韓信は思う。蘭もまた蒯通と同じことを言おうとしているのか。

「将軍が漢王に対してあくまで義理立てをし、忠誠を尽くすべきだとお思いでしたら、なにを迷うことがありましょう。そうなされば良いのです。……ですが、将軍はその見返りを望んではなりません。望んでも裏切られるだけでありましょうから」

「! では、私は結局どうすれば……」

「いやなことを思い出させるようですが……将軍がカムジンをお裁きになったときにいった言葉……『君の良心はなにを告げたのか』……いま将軍はこの言葉をご自分に投げかけるべきだと存じます」

 

 確かに自分は漢の国家樹立のためにここまで働いてきたのであって、幾多の敵を殺してきたのも、自らが斉王を称したのも、あくまで統一のための手段であって、目的ではない。たとえ戦乱に終止符を打つという崇高な理念を称して漢から独立を果たしたとしても、それでは未来の自分へ与えられる称号は「裏切り者」、「変節者」といった類いのものであろう。

 

「手っ取り早く戦乱の世を終わらせるためには、あるいは私が自立することも有効かと思ったのだが……やはり思い違いのようだ。早まりすぎた考えだった」

 韓信はそう言い、蘭の助言に謝意を示したのだが、このとき蘭は意外にも世の中に対する諦念ともいえそうな言葉を残した。

 

「人の世が人の世である限り、争いがなくなることはございません。諸国間の戦争が終わり、統一国家が樹立されたのちに、待ち受けるものは結局内乱でございましょう。ですから将軍はもっと気楽に……人の世の運命を背負い込むようなお気持ちをもつのはおやめになった方が良いかと存じます」

 確かにそのとおりであった。韓信はそう思い、自分の無力を嘆いたが、それこそが思い上がりだということに気が付いた。

 

 戦争の後には内乱が……。あるいは内乱の時に、自分は再び必要とされる存在となるのだろうか。それは鎮圧者としてか、それとも内乱の首謀者としてか。

 

 蘭にはそのような自分の未来の姿が見えたのだろうか。韓信はそのことを聞こうかと思ったが、結局やめにした。答えを知るのが怖かったからである。

 

 

 広武山での楚・漢の対立は泥沼化し、なかなか進展を見せない。楚は軍糧の補給に苦労し、このときの軍中には、次第に飢えの徴候が現れてきている。

 

 これに対し漢は敖倉を後背に抱え、食料に関する問題は抱えておらず、楚が飢えて弱ったところを攻撃すれば、あるいは勝てたかもしれなかった。

 しかし項羽の圧倒的な武勇が、劉邦にそれを思いとどまらせた。加えて劉邦の父と妻を人質に取られているという事実は、彼らに行動に慎重さを要求した。

 

 このため、広武山の攻防において、常に先手を打つのは楚の側である。

 

 谷を挟んで、楚軍はしきりに漢軍を挑発したが、劉邦はどのような嘲りを受けようとも、まともに取りあおうとはしなかった。それにいらついた項羽は、軍中から壮士を選抜し、一騎打ちで漢に挑ませることに決めた。

 士気向上のための余興のようにも思われるが、項羽としては狙いがある。楚の壮士が次々に漢の壮士を撃ち破れば、さしもの劉邦も自軍の士気低下を恐れ、自ら姿を現すに違いない、と考えたのだった。

 

 かくして武勇自慢の楚の壮士の一人が軍門から出撃し、騎馬で谷を降りていった。

「我と勝負せよ」

 長柄の矛を構えた壮士は、そう言って漢軍に勝負を挑んだ。

 

「誰もいないのか。漢は腰抜けばかりの集団だと聞いていたが、なるほどその通りよ!」

 壮士はそんな調子で漢軍を狼藉し始めたので、たまりかねた劉邦は左右の者に、ぼそりと言った。

 

「仕方ない。誰か、出せ」

 

 この命を受けて、漢の軍門から左手に短弓を抱えた一人の騎馬武者が姿を現した。巧みな騎術で谷をくだり、馬上で矢をつがえながら、彼は言った。

「私が、相手だ」

 

 言うと同時に短弓から矢が発射される。矢は突進してくる楚の壮士のこめかみを正確につらぬいた。あっという間の勝負である。

「あれは……楼煩だ! そうに違いない」

 

 楚軍の兵士はみな一様に恐れ、おののいた。漢の楼煩兵はそれを当然の如く受け流し、つぶやく。

「一人……次、出てこい」

 その声が聞こえたかどうかは定かではない。しかし先に仕掛けた以上、引くことのできない楚の側としては、次の壮士を前面に出すしかなかった。

 

 この状況で楼煩の弓術にまともに張り合おうとするのは、無謀とも言える。楚の壮士がいくら剣術や槍術に長けていても、接近することができなければ、威力を発揮することはできない。

 よって二人めの壮士は突進しつつ弓を構えて相手の楼煩に狙いを定めて射ったが、楼煩兵は馬を操り、そのことごとくをかわした。そして相手が短弓の射程内に入ったことを確認すると、静かに狙いを定めて矢を放つ。

 矢はやはり正確に楚兵の目と目の間をつらぬいた。

 

「二人……。次!」

 

 言うと同時に楼煩は馬を走らせ、楚の軍門との距離を縮めた。相手が射程に入るまで待つ時間の無駄を省こうとしたのである。

 

 楚の三人めの壮士は軍門を出たと同時に、射殺された。

「次!」

 

 そのとき楼煩兵の視界に大柄な兵の姿が見えた。手には戟をとり、きらびやかな甲冑を身に付けている。

 

「四人……」

 楼煩は矢をつがえ、その人物を射とうとした。しかし、不思議なことに、それ以上体がいうことをきかない。手はこわばり、目は目標を直視することができなかった。

 彼は突如恐れをなしたようにその場を離れ、一目散に軍門のなかに逃げ込んだ。

 

「……項王だ! 項王がいる!」

 

 逃げ帰った楼煩は狂ったように喚いた。項羽は楚の四人めの壮士として、自分自身を前線に配置したのであった。

 

 

 項羽とあえて一騎打ちを挑もうとする者など、漢軍の中にはいない。出れば殺されるのはわかっており、劉邦自身もそれを理解していた。

 しかし、理解していながら、この場に至っては出ざるを得ないのが実情であった。

 漢は楚に比べて全体的に武勇で劣るので、生存を望む兵は楚に靡くのが自然な流れである。だが漢は食を保証することで兵の流出を防ぎ、どうにかここに至っている。

 だが、それも限界であった。項王を恐れ、すご

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すごと逃げ出すような王に兵がいつまでも心服するはずがない。

 

――いま、この場に韓信がいたら……。

 劉邦はそう考えたが、すぐさま首を振ってそんな考えを頭の中から追いやった。韓信が項羽に打ち勝つことになったら、兵は韓信に従うだろう。そんな事態になっては、自分の存在意義など無きに等しい。

 

 劉邦は意を決し軍門を出て、項羽と対峙することにした。しかしわかりきったことだが、武を競い合って敵う相手ではない。劉邦は両軍の兵たちが見守る中、項羽を論破することにしたのである。

 

「項羽! 貴様ほど悪逆な者は天下にはおらぬ」

 

 谷を隔てた会見が始まった。両軍の兵士は等しく息をのみ、誰もひと言も発しない。

「天下を貴様の手に渡すわけにはいかぬ。なぜならば貴様は罪の多い男だからだ。わしはそれを証明するために、いまここに貴様の罪を列挙してやる。数えきれないほどの罪だが、だからといって、どれも見過ごすわけにはいかん」

 

 項羽は本来こらえ性のない男であったが、この場では怒りをあらわすことなく、なにも言わなかった。劉邦の出方に虚をつかれたのか、それともお手並み拝見、とでも思っていたのか、この時点では定かではない。

 

「罪の一つ! かつて懐王は先に関中に入った者を関中王と定めるとしたが、貴様は約束を違え、わしを蜀漢の王とした」

「二! 貴様は卿子冠(宋義のこと)を偽って殺し、自ら大将軍の座についた」

「三! 貴様は趙を鉅鹿に助け、それが終わると懐王に断りもなしに諸侯を引き連れ、函谷関に入った」

「四! 懐王は秦国内では暴虐な行為を働くなと命令されたにも関わらず、貴様は宮殿を焼き、始皇帝の墓を暴き、財物をことごとく私物化した」

「五! 貴様はやはり断りもなく、独断で秦王子嬰を殺した」

「六! 貴様は悪逆な方法で秦の士卒二十万を新安で穴埋めにし、秦の降将章邯を勝手に王に封じた」

「七! 貴様は自分の部下にばかりよき地を与えて王とし、もとの王を辺地に移し、天下に争乱を起こさせるに至った」

「八! 貴様は義帝(懐王)を郴県に追いだして彭城を都とし、韓王の地を奪い、梁・楚の地をあわせて王となり、欲望のまま広大な領地をとった」

「九! 貴様は江南においてひそかに人に命じて義帝を殺させた」

「十! 貴様は人臣の身でありながら主君を殺した。また、降伏する者を殺した。政治をとっては不公平、誓いを破ってばかりで義に背く。天下に轟く大逆無道とは貴様のことだ」

 

 劉邦はあらかじめこのような項羽に対する誹謗を暗誦でもしていたのであろうか。

 この場に及んでこれほど項羽に対する中傷を列挙してみせるとは、よほど胆力の座った男でなければできない行為である。単なるごろつきの出身であったと言われる劉邦であったが、やはり天下に覇を唱えようとする資質があった、ということか。だがそのこと自体が「一種の狂人である」とも言えないことはない。

 

「貴様はわしと決戦しようと、そこに突っ立っておるが」

 劉邦は次第に気分が高揚してきたのか、滑舌も良く、調子に乗っている。

 

「貴様を討つことは、わしにとって賊に誅罰を与えるのと同じことだ! よって貴様を討つのは、貴人たるわしの仕事ではない」

 

 項羽は狼藉を浴びせられながら、まだなにも反論しないでいる。劉邦はそのことにさらに気分を良くし、最後のひと言を発した。

 

「貴様を討つ仕事はわしではなく、刑余の罪人こそふさわしい」

 

 おお、というどよめきが両軍の兵士の中に起こった。

 しかしそれもつかの間のことであった。どよめきは漢兵の悲鳴によって、かき消されたのである。

 

 劉邦があおむけに転倒しているのであった。

 どういうわけか、ぴくりとも動かない。誰もなにが起きたのか、理解できないでいた。

 

 これを確認した項羽は、後方に控えた兵に声をかけ、その場をあとにした。

「よし。よくやった……あとで褒美を」

 

 項羽の後ろに隠れていた兵が、劉邦めがけて弩を放ったのである。これが劉邦転倒の原因であった。

 

 弩から発射された矢は、劉邦の胸板に命中していた。

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