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第 一 部

 

少 年 期( 続 き )

 

 

 五回目の巡幸の途上で、始皇帝は卒した。

 

 とはいってもそれを知っているのは、巡幸に同行していた宦官の趙高(ちょうこう)、丞相李斯(りし)、そして始皇帝の末子の胡亥(こがい)の三名のみである。もっとも、皇帝の身の回りの世話をする宦官のうち数名は事実を知っていたと思われるが、数には含まれてはいない。趙高も宦官ではあるが、彼だけは別格である。

 

 皇帝一行は楚の領地を過ぎ、会稽まで達して進路を北に取り、海岸線づたいに北上して山東半島をぐるりと回り切ったところから、内陸に入って帰路をとろうとした。

 ところが内陸に入って間もなくの平原津(へいげんしん)という地で皇帝は病を得、そのまま治癒することなく沙丘の平台(現在の河北省広宗県のあたり)という地で崩御した。

 首都の咸陽は遠く、この時点で皇帝の死が世間に知れ渡ると、諸国の反乱分子が彼らより早く首都に流れ込む危険が高い。彼らは皇帝の死を秘密にし、巡幸の行列が咸陽に達した時点で喪を発しようと決めた。

 

 そこまでは順当だが、問題はそれからである。

 

 始皇帝は始終不老不死を願い、そためにはさまざまな努力をした人だったが(一説には水銀などを薬として飲んでいたとされている)、このときばかりは自分の死期を確信し、息子のひとりである扶蘇(ふそ)という人物にあてて遺書を残していた。

 

「咸陽にて朕の葬式をせよ」

という一見漠然とした内容だったが、葬式を主宰させることは正式な跡取りとして認めた、ということなのである。

 

 これにより次期皇帝は扶蘇と定められた。

 

 この遺書は詔勅として封印され、宦官の趙高に預けられた。しかし趙高がこれを使者に持たせて扶蘇のもとに送る前に皇帝が崩じたことから、彼の暗躍が始まる。

 

 扶蘇は咸陽にはいない。

 彼はこれより少し前、父親の始皇帝に焚書坑儒の件で諫言したことが原因で、はるか北方のオルドスの地で匈奴と対峙している蒙恬将軍のもとに軍監として編入させられていた。

 

 左遷されたように見えるが、最終的に跡継ぎに指名したことを考えると、始皇帝は扶蘇に期待をかけ、武者修行の場を与えた、と考えるのが正しいようである。

 

 しかし、趙高にとっては、扶蘇が皇帝になっても何も変わらなかった。

 せいぜい自分は今と同じ裏の存在のままだろう。宦官でありながら表の世界で活躍するには、自分の扱いやすい人物が皇帝である必要があったが、扶蘇と趙高は特に親しい間柄ではない。

 

 そこで白羽の矢が立ったのは末子の胡亥である。

 趙高は胡亥の家庭教師であったことから胡亥の扱いには慣れており、説得もしやすい。都合のいいことに胡亥はこのたびの巡幸に同行していたので内密に話も進めやすかった。胡亥は「義」や「孝」の論理で趙高の説得に激しく反対したが、最後には結局折れた。

 

 そこで趙高は自身の預かる始皇帝の遺書を破棄し、胡亥を次期皇帝にする偽造の遺書を作製することに決め、それを丞相李斯に伝えた。

 

 李斯が反対したのは、言うまでもない。

 彼には胡亥が皇帝にふさわしい人物とは思えず、それ以上に、皇帝付きの宦官ふぜいが帝国の運命を左右しようとするのが気に入らなかった。始皇帝が天下を統一できたのは、李斯の政策によるものが大きく、彼はもちろんそれを自負していた。

 秦は法治主義を充実させ、封建制を廃して郡県制を採用し、政治を脅かす思想家たちの書をあまねく焼き払い、その思想家の信奉者たちを穴に埋めた。

 

 そのどれもが李斯の献策によるものなのである。

 

――秦の皇帝とは、私の政策を実現できる者にのみ、その資格がある。

という自負心があっても、それを驕りだとは言えまい。事実その通りだったからである。

 ただ李斯という男にはその自負心が強すぎるきらいがあり、他者と相容れない欠点がある。

 

 かつて韓非子という優れた法家の権威ともいうべき人物がいた。李斯と韓非子は同門の間柄で、ともに荀子のもとで学んだ旧知の仲であった。韓非子は法の理論を完成させ、始皇帝はその著書を読み、いたく感動して秦に招き入れたという

 

 しかし李斯はそのことによって自己の立場が軽んじられることを危惧し、奸計を用いて彼を毒殺してしまう。韓非子が秦に入国して早々の早業だった。

 

 李斯には自分より優れた人物に対する恐怖心がある。そこに趙高のつけいる隙があった。

 

「扶蘇さまの後ろ盾には名将である蒙恬どのがおられますな」

 李斯は胡亥と同様、再三の趙高の説得に抵抗したが、最終的にそのひと言で決まった。

 

 蒙恬は匈奴征伐で功績があり、始皇帝にもその能力を愛された、すぐれた軍人である。彼が扶蘇を擁して咸陽に戻って来た暁には、自分は除かれるに違いない。では、その前にこちらから除いてしまおう、というわけである。

 

 毒を喰らうならば皿まで、という勢いで話に乗った李斯は、胡亥を皇帝に即位させるだけでなく、扶蘇と蒙恬に自害を命ずる詔勅まで偽造した。扶蘇はこれを信じて潔く自決し、蒙恬はこれを疑い、その場で自決はしなかったが、牢獄に繋がれたのち服毒自殺をした。

 政敵は除かれたわけである。

 

 韓信が釣りをして老婆の世話になっている間に、天下は静かだが、しかし大きく変動しようとしていた。

 

 

 

 二世皇帝の胡亥は愚鈍であった、と言われている。

 

 結果から見れば確かにそうかもしれないが、彼も即位当初は使命感に燃え、真剣に統治者としての義務を果たそうとしたに違いない。彼は決して何もしなかった皇帝ではなく、その統治期間にさまざまなことを行っている。ただ、そのどれもが国を疲弊させる結果を招いたのだった。

 

 胡亥にとっての皇帝の使命とは、先帝のやり残した仕事を完遂させることに尽きる。阿房宮の増設はその典型で、およそ必要もなさそうなほど広大な宮殿をさらに大きくする工事のために、各地から人民が徴発された。

 これにより農業、工業を問わず国の生産能力が減り、その影響を受けて物価が上昇した。

 

 また、秦という国は極端な法律至上主義の国家だったので、些細な罪で投獄される囚人が多く、これも生産能力減少の一因となった。

 それでも増え続ける囚人たちをただ獄に繋いでおくのはさすがに無駄だと思ったのか、阿房宮設営の工員に彼らをあてておおいに利用したわけだが、どちらにしても無駄なことであろう。皇帝がどれだけ立派な宮殿に住んでいようと、庶民には関係のない話で、工事自体が無駄なのである。

 国力を途方もなく無駄遣いした阿房宮の増設工事は、結局未完に終わり、そのばかばかしい顛末から「阿房」の音が転じて「阿呆」の語源になったと言われている。

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 胡亥の無駄な土木事業はこればかりではなく、始皇帝の墓を完成させる事業などもそのひとつである。

 彼は国中から腕のいい職人を集めてこれを行ったが、墓が完成すると保安の必要性から、構造の秘密を知る彼ら職人たちを残さず穴埋めにしてしまった。これなどは人材の浪費も甚だしい話である。

 

 また、先帝が詔令を出したものの、やりかけになっていた貨幣の統一事業にも本格的に乗り出している。

 それまで各地に流通していた刀の形をした銭や、布切れのような形をした銭は、丸くて中央に四角い穴の空いた銅貨に取り替えられた。

 半両銭と呼ばれるこの銅貨は鋳造も楽で、携帯にも楽な形をしていたが、先述のように生産者がことごとく徴発されるか囚人になるか、というような社会状況では買えるものがなかった。

 

 こうして秦の地方社会はインフレとなり、しだいに人心は荒んでいったのである。

 

 

 市中を歩くと、以前より活気が失われているさまがよくわかる。街路は人影がまばらで、わずかにそこにいる連中も暇を持て余しているような輩ばかりだった。

 このときの韓信もそれと同じで、人になめられないように胸を張り、こわばった表情で歩いていたが、実は当てもなく歩いていただけなのだ。少なくとも当時韓信を知る者は、皆そう思っていた。

 

 ある日韓信は、道ばたで若者がたむろしている場を通りかかった。彼らは食用の犬の屠殺者仲間で、この日は一匹しかいない犬を囲み、近頃の仕事の減少による貧窮を無駄話で紛らわそうとしていた。

 韓信が彼らの前を通りかかったとき、その中の一番体の大きな男が、彼に絡んだ。

 

「こいつはでかい図体で、いきがって剣などをぶらさげて歩いているが、そんな奴はたいてい気持ちが弱いものだ。見ていろ、おれが確かめてやる」

 韓信は見透かされたような気がした。生前、母と交わした会話が思い出される。韓信にとって剣は、それを持つことによって相手に妙な気をおこさせないための抑止力というべきものだったが、それが今試されているのだった。

 

 若者は仲間に向かってからかうような口調で叫んだ。

 

「あの剣は飾り物に違いない」

 沈んだ街角にどっ、と笑いが起こった。これによりさらに勢いづいたその若者は、

 

「おい、死んでも構わないなら、その剣で俺を刺してみろ。その勇気がないのなら、ここで俺の股の下をくぐれ」

と韓信を挑発した。

 

 この男はおそらく酒に酔っているに違いない、と韓信は察し、しばしの間彼を見つめていたが、やがてそそくさと、なにも言わずに四つん這いの姿になって彼の股の下をくぐった。

 

 その姿を見て若者たちは大笑いし、韓信のことをしきりにはやし立てた。

 

「なんと、臆病者よ」

「腰抜け」

「恥も知らぬ男め」

 あらゆる罵詈雑言をあびせられたが、この間韓信はひと言も発せず、無表情にその場を立ち去った。

 

 評判は市中全体に広まった。

 その後韓信が剣を携えて外を出歩くと、市中の者どもは陰で失笑した。韓信にもそれのいちいちがわかったが、常に彼は平然を装い、逆上して事を荒立てたりすることはなかった。

 

 しかし、韓信が何も感じない、まるで無神経な男だったかというと、そうではない。彼は久しぶりに栽荘先生のもとを訪れると、初めて胸の内を明かしたという。

 

「思うに、私がこのたび受けた屈辱というものは、私自身に非があるわけではなく、相手側の傍若無人な態度こそ責められるものでありましょう。私はあの連中をこの長剣で一人残さず斬り殺そうと思えば、そうできました。彼らはほとんど丸腰でしたし、少なくとも私以上に武芸に達している者がいないことは一目瞭然だったからです。しかし、斬れば私の方が犯罪者となり、囚人として身に黥(いれずみ)され、どこかよその土地に送られて過酷な労役を強いられることとなります。それが嫌で私は斬らずに、おとなしく彼の股の下をくぐりました。恥を忍べば屈辱が残り、逆に恥をすすごうとすればにおとされるわけで、どちらにしても私のような者には良いことがないわけですが、これは私が思うに、政治が悪いのです。およそ政治というものは法を犯した者を犯罪者として罰することではなく、どうやって犯罪者を作り出さないか、ということを目指すべきで、それには国民を教化し、規律を正しめることが求められます。あの街のごろつきどもは犯罪者予備軍と言えましょう。ああいう者どもを放置している時点で秦の政治は間違っているのです」

 これを聞いた栽荘先生は、韓信が負け惜しみを言っているように思えたので、次のように反問してみた。

 

「では、おまえはどのように恥をすすぐつもりなのだ。おまえ自身がごろつきの若者どもを教化し直すつもりなのか」

 韓信は涼しい顔をして答えた。

 

「私が幼いころ、故国の楚が滅びた、と聞いております。今の状況を考えまするに、秦も同じ道を辿ることは間違いないでしょう。私は新しい国ができ、新しい秩序がもたらされるのに一役買いたいと思っています。そのときに今まで私が受けた恩、借り、恥をすべて解消するつもりです」

 

 この話が広まったとき、たいていの者は韓信が仕官のあてもないものだから、次に訪れる世を夢想しているのだ、と評した。

 しかし後世になると逆に、韓信は若いころから気宇壮大であった、と評されるようになったのである。

 

 正反対の評価をしているように思えるが、どちらも事実のようにも思える。

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