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第 一 部

 

少 年 期

 

 

 韓信の母はもともと寡黙な女性であったが、たまに誰に言うでもなく、不満をこぼした。

 

「烈士を気取って、寿命を縮めるようなことをしても、なにもならない」

 韓信はその言葉を何度か耳にしたことがあったが、その当時幼かったこともあり、誰のことを言っているのかよくわからなかった。

 しかし思い返してみると、それが自分の父のことを言っていたことがわかる。

 

 韓信は父のことを義の人だと思っていたし、母親も彼に父のことを話して聞かせるたびにそう説明した。

 自らの命よりも友誼を重んじ、家族を顧みることなく死んだ人だったと話して聞かされたが、やはり思い返してみると「家族を顧みることがなかった」という部分に多少恨みがましい言い回しがあったようにも思えた。

 

 事実、残された妻は韓信を養うために働きに出ねばならず、夫の仕事をそのまま引継いで畑仕事をしたりした。彼女は決して体力がある方ではなかったが、母親らしく息子を守ろうと懸命に働いたものだった。そんな状態が五年も続いたころ、栽荘先生は韓信を相手に彼の母を評して言った。

 

「信よ、おまえの母親はよく働いているが、わしは心配でならない。生前おまえの父は妻を人前に出さないよう、気をつけていた。大事にしていたと言った方がいいかな……。しかし、夫に先立たれては、外に出て働きに出るのも仕方のないことだろうて」

 これを聞いた韓信は、例によって幼かったのでよく意味がわからなかった。

 栽荘先生が自分に対して話しているのかさえもよくわからず、きっと独り言を言っているのだろうと思い、そのうちに忘れてしまった。

 

 

 母が働いてばかりなので、韓信は栽荘先生のもとに預けられてばかりだったが、不満はもらさなかった。

 口数も少なく、幼児特有のうっとうしさがない。落ち着きがあると言えるかもしれないが、どちらかといえば子供らしくない、と言った方がいいだろう。可愛げがないと言い換えてもよく、傍目からはあまりなにを考えているかわからない子供だった。自然、友人は少なかった。

 

 しかしこの時代は戦乱期であり、子供たちを奔放に外で遊ばせておけるほど治安が良かったわけではないので、友人が少ないのは韓信に限ったことではない。

 だがそんな韓信でもまったく友人がいないわけではなかった。

 

 栽荘先生のもとで韓信と席を並べて学んだ同年代の子供がおり、名を眛(まつ)といった。伊盧(いろ)の出身だと言われているが、現在では伊盧がどこにあるかは不明である。

 その眛は姓を「鍾離(しょうり)」と称していた。これは当時の寿春の北東、淮水沿いにある地名に由来すると思われる。しかし眛自身が鍾離出身だということではなく、おそらく先祖に鍾離の豪族を持つ、ということだろう。

 

 鍾離眛は韓信と違い、聡明さが表に出るタイプの子供だった。美童であり、その性格は活動的だった。少々陰気な印象の韓信が横にいると、さらにその差が際立つ。

 

 あるとき栽荘先生が二人に問うたことがあった。

「秦が天下を統一してから大体十年が経ったな。最後に残った斉が降伏して戦乱の世は終わったわけだが……秦の統治は厳しく、そのため長く泰平の世が続くとは思えん。いずれ世はまた、乱れるであろう。乱世じゃ。そこでおまえ達がそのような乱世をどうやって生き抜くつもりか、将来の展望を聞いておきたいが、どうだ?」

 

 即座に鍾離眛は答えた。ふたりのうち先に喋るのは、常に眛の方である。

「私は、兵になります。それも屈強な兵となって、邑を守り、家族を守り、愛するすべてのもののために戦ってみせます。そのためには死を恐れません」

 

 少年らしい意見であった。栽荘先生はこれを聞いて微笑したが、さほど感銘を受けた様子はなかった。

 いかにも鍾離眛らしい意見だったからである。かえって韓信の方が何を言うか、興味深いようだった。

「信、おまえはどう思う」

 

 韓信はしばらく考えていたが、やっと口を開いて答えた。

「決して兵にはなるな、といつも母親から言われています。だから私は兵にはならないでしょう。今、眛はあらゆるものを守るために死を恐れぬ、ということを申しましたが、私の考えは違います。どんなに意気込んでみせても、死んでしまっては、何も守れません。……兵となり戦って敗れ、その死体を原野にさらす、ということを美しい行為だと思うのは、私に言わせれば自己満足の極みです。いくら美化してもその多くは無駄死にに過ぎず、国のために死んでも報われることはなにもありません。だから私は乱世になって、どうしても戦争にかかわらなければならないとしたら、思い切って将になりたいと思います」

 

 栽荘先生はこれを聞いて、笑った。韓信を馬鹿にした笑いではない。手厳しく現実をずばりと言い抜きながら、その後の論理が飛躍しているその二面性に、いかにも韓信らしさをみたのである。

 鍾離眛も笑いながら言った。

「おまえや私のような平民が将になるには、兵隊から成り上がるしか道はないのだぞ」

 

 これに対して韓信はなにがそんなにおかしいのか、とでも言いたげな顔をして答える。

「それは、わかっている。しかし、兵では世を変えることはできないし、だいいち、私は死ぬのが嫌だ。だから実を言うと、将来なにをすべきかよくわからないのだ」

 

 眛には自分の考えを韓信に否定されながら、怒った様子はない。

 彼は無意識ながら韓信のことを一段下の人物と見ているようで、このときも物わかりの悪い弟にでも言うような口調で諭し始めた。

 

「おまえは無駄死にだとか、兵では世を変えられないとかさかんに言うが、要するに死ぬのが怖いだけだ。死の恐怖を乗り越え、兵士として生き残ることができた者のみが、将となりうる。臆病な将に兵がついてくるものか」

 

 韓信は奮然として答えた。

「私が将となった暁には、味方の兵を死なせない。そのくらいの気構えはあるつもりだ」

 

 栽荘先生はふたりの議論が熱くならないうちに、水を差した。どのみち答えなどない議論である。

「よいかふたりとも。よい兵や将になるためには、ただ武芸に達しているだけでは充分ではない。よく学問してあらゆることを論理的に考えられるようにならなければならん。おまえ達にはまだ時間がある。よりいっそう学問に励め」

 

 栽荘先生はそう言ったものの、ふたりの将来に不安を感じた。

 

 鍾離眛は、現実の良い面しか見ない傾向がある。覇気はあるが、確固とした自分の意志というものが足りないように感じられた。

 韓信は学問、武芸とも能力は非の打ち所がなく、幼年ながら兵書の内容は暗誦できるくらいである。

 しかしそれを生かすために自ら行動する勇気に欠けると感じられた。

 

 子供とはいえ、人はさまざまなものだ、と栽荘先生は二人を見る度に思うのである。

 

 

 

 韓信は虚勢を張る、ということがなかった。できることとできないことを冷静に判断し、自分の将来についても夢想することはない。同じ年ごろの鍾離眛などには、韓信のこのような姿が、実につまらない男にうつるのである。

「男として生まれたからには、もっと気宇壮大であるべきだ。信、おまえは意気地がなさ過ぎる。家宝の剣が泣くぞ」

 

 鍾離眛のいう剣とは、韓信の父が城父より持ち帰った、あの長剣のことである。

 韓信はこの剣がむしょうに好きで、幼いころは背中に結びつけて持ち運んでいたが、ようやく背丈が伸びてきたこのごろは、腰に帯剣するようにしている。しかしまだ充分に成長していないので、長すぎる剣の鞘(さや)の先が地面にあたり、がちゃがちゃと金属音を奏でることが多かった。このため韓信が通りを歩くと、姿が見えなくても人々は音でわかったといわれている。

 

 しかし韓信の母は、息子が剣を持ち歩くことを好まなかった。

「大切なものなら、大事にしまっておきなさい。見なさい、鞘の先が傷だらけではないですか」

と、小言を繰り返すのだった。

 

 これに対して韓信は、父親ゆかりの剣を持つことで、父と一緒にいる気持ちになれる、などということは言わない。彼が言うのは、外を歩いていると何が起こるかわからない、自分は年若く腕力も充分ではないので、いざというときには剣で対応するつもりだ、ということである。

 どんな価値のある剣でも大事にしまっておいたのでは、その価値を発揮できない、剣というものは人を斬るためにあるものだ、と淡々と語るのだった。

 

 息子の考え方に危険を感じた韓信の母は、父親がどんなに温厚な人物であったかを話して聞かせ、父が剣を持ってきたのは、息子に人を斬らせるためではないと説明した。

 

 韓信は言った。

「私はもう何年もこの剣を持ち続けていますが、未だかつて人を斬ったことはありません。どうしてだかお分かりですか。私がこの剣を持ち歩いていることで、私に危害を加えようとする者がいないからです。剣を持つことで人を斬らずにすむ。父上がこの剣を私の護符にした、という意味が今ではよく分かります」

 

 母は、おまえのように綿もはいっていない服を着た者を襲っても何も出てこないことがわかっているから、人はおまえを襲ったりしないのだ、と言い、大げさに物事を考えずにもっと人を信用するものだ、とさとした。

 後年になって韓信は母親との会話を悔恨の念を持ってよく思い出した。あのとき守るべきは自分の身などではなく、母親の身だったのだ。

 世の中にはよい意味で年齢不詳の人がいつの時代にもいるものだが、韓信の母がまさしくそれで、年齢や出産、あるいは労働の苦労を外見からはまったく感じさせない美女であった。

 美女といっても、王宮にいるような高貴な存在ではなく、彼女自身が息子に語ったように、綿もはいっていない服を着ているような庶民的なもので、決して近寄り難い雰囲気を持っているわけではない。

 邑のなかのいつまでたっても可愛い娘、といったところだろう。

 

 本来なら、こういう女性は「箱入り娘」としてめったに外に出さないのが本人にとっても保護者にとっても安全な道だったし、実際に韓信の父は外に出るのはいっさい自分の役目として、妻は文字通り奥方として不必要に人目にさらさないよう気遣っていた。

 ところが夫の死(と思われる)によって、いつまでも奥にいるわけにもいかなくなり、韓信の母は外に出て働くようになった。

 

 だが、人前に出るようになると、悪意の目も避けられない。

 儒教が国教になるのはまだまだ先で、仏教が伝来するのはさらに先の未来である。個人の道徳観が希薄な時代だった。

 

 ある日、韓信の母は、小作している畑の脇の草むらで、二人の男に犯された。

 

 よくは思い出せない。農作業中に見知らぬ二人の男に襲われ、必死に逃げたが、下草に足を取られてつまづいたところで捕まり、馬乗りに抑えつけられた。

 もう一人に両腕を抑えられ身動きできなくなると、そこから乱暴に……。

 抵抗しようとして逆に顔を殴打されたところで、気を失ってしまった。

 

 しかし、意識がまったく無かったわけではない。

 二人の男が交代で何度も自分を犯すのが感じられた。とすれば自分はただ恍惚状態に陥っていただけではないか、とも思う。だとすれば、恥ずべきことだった。

 

 夕暮れ近くなり、ふと我に帰ると、一糸もまとわぬ姿で草むらの中に寝そべっていた。傍らにあった衣服はどうしようもなく破れていたが、何もないよりはましだったので、それを身に付け、走るようにして家に帰った。

 

「信には知らせないでおくことだ。あなた自身も忘れるしかない。つらいことだが、犯人の顔かたちも思い出せないというのであれば、恨みを晴らすのも難しいだろう。あまり思い詰めず、今まで通りに過ごしなさい……そのほうがいい」

 相談を受けた栽荘先生は、この件に関してはあまり気の利いたことも言えずじまいだった。

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「……さて、悲しいことではないか」

と言って、嘆息するしかなかった。

 

 翌日になって、韓信が珍しく自分から話しかけてきた。

「先生、母の様子がおかしいのですが……お心当たりはないですか」

 

 栽荘先生は、いや、わからんとしか答えようもなく、夜通し泣いておられるのです、という韓信の訴えに心を動かされはしたが、実際に言ってやるべきことは何もなかった。

 翌日も、その翌日も韓信の報告は続き、栽荘先生もこのままでは自分の方が気狂いするのではないか、と不安になった頃に、韓信がいつもとは違う内容の報告をした。

「先生、母の姿が見えないのですが……なにか聞いておられませんか」

 

 韓信は母の帰りを待ちながら、一晩ひとりで過ごしたと言った。行き先にも心当たりがなかった栽荘先生は、またしてもかけてやるべき言葉が見つからず、そのまま時が過ぎていった。

 

 それからほんの三日後に鍾離眛は、邑の水路から女性の水死体が引き上げられる場面に遭遇した。

――あれは、信の母ではないか。

 

 不審に思った鍾離眛は、急いで栽荘先生のもとに走り、ことを伝えようとしたが、都合悪く韓信もそこに居り、なかなか話が切り出せない。仕方なく栽荘先生に耳打ちして知らせると、先生は目つきを変え、

「なぜ、もっと早く言わぬ」

 

と大声を放ち、現場に急行した。むろん、韓信を連れてである。

 そこで彼らが目の当たりにしたのは、韓信の母の変わり果てた姿だった。

 日頃、物事にあまり興味を示さない韓信だったが、この時は目を伏せ、しゃがみ込んで泣いた。

――こいつでも、泣くことがあるのか。

 

 鍾離眛は思い、普段のように前向きな言葉もかけられなかった。

 いっぽう、泣きながら栽荘先生から事件の真相を聞かされた韓信は思った。

――秦の政治は、法家主義だというが、手ぬるいではないか。

 

 韓信はこの事件から、以前にもまして、容易に人を信用しなくなった。

 

 

 三人は韓信の母のなきがらを邑が見下ろせる高台に運び、そこに小さな墓を作って葬った。

 

 

 栽荘先生は、韓信に対して申し訳なさそうに言った。

「わしは、おまえに学問や武芸ならいくらかは授けてやることはできる。だが残念ながら、おまえを食わせてやることはできない。お前が好きなとき、いつでもここには来てもらって構わないが、まずおまえは城市にでも行って職を探せ」

 

 このころ、韓信はまだ若かったが、働いてもおかしくはない年ごろだった。それをいいことに、突き放されたのである。とはいえ栽荘先生を責めることはできないだろう。栽荘先生が見るに、韓信はまだ世慣れしていない感があり、それには社会に揉まれることが一番だと思っていたのである。突き放しはしても、見放したわけではなかった。

 

 しかし、韓信のその後の生活は、著しく精彩を欠いた。

 職を探せと言われても、何をするべきかわからず、ただ市街をうろつきまわり、それに飽きると木陰に入って昼寝をする、という有り様である。

 盗みを働く勇気もなく、ちょっとした知り合いを見つけては飯を分けてもらったり、小銭を借りたりして当座をしのいだ。

 

 そうやってその日暮らしの生活を続けながら、ふらふらとあてもなく歩き続け、下郷の南昌という街にたどり着いたところ、その街の亭長の世話になることになった。

 亭長とは、簡単に言えばその街の世話役のことで、れっきとした役人である。地元で採用された役人で、いわゆる吏員のことをいい、どうやら警察の仕事をしたり中央から役人が出張してくると、その宿場を提供したりしていたらしい。

 ちなみに亭とは秦の部落の単位のひとつであり、その最小の単位が里で、十里が一亭、十亭が一郷と呼ばれる。よって韓信がたどり着いたこの街は、淮陰県下郷南昌亭ということになる。

 

 その南昌の亭長が亭内を見回っているときに、路傍に横たわる韓信の姿を見た。

 実は韓信は昼寝をしていただけだったのだが、いたく心配した亭長は連れ帰って世話をすることにした。人手が足りなかったこともあって、下働きさせようと思ったのである。

 

 韓信はそこそこに仕事の手伝いはしたものの、成長期ということもあって食べる量が実に多く、亭長にとっては採算が合わなかった。こういうことは男性より女性の方が敏感で、韓信のことを煩わしく思うようになった亭長の細君はわざと朝早く飯を炊き、韓信に悟られぬよう自分たちの寝床で食事をとるようにした。

 

 韓信が朝起きてくると、もう食事はない。

「出て行ってもらいたいのなら、嫌がらせなどせずにはっきり申せばいいのだ」

 

 韓信は捨てぜりふを吐いて出て行った。絶交したのである。

 息巻いて飛び出したものの、どこにも行く当てのない韓信は、結局戻ってきて淮陰の城壁の下で食を得るために、その辺の木の枝を竿にして魚を釣って暮らしていた。

 

――我ながら、やるせない暮らしぶりだ。

 思いながら釣り糸を垂らしていると、城下を行く民の噂話が耳に入った。

 

――皇帝陛下が、この近くを通る。

 秦の皇帝が旧楚の地を巡幸する、というのである。

 皇帝とは、他ならぬ始皇帝であり、これが即位してから五回目の巡幸であった。

 巡幸とは皇帝の威信を見せつけるための行為であり、これにより戦国諸国の旧貴族たちの反抗心を抑えつける目的で始められた、とされている。そのため巡幸の行列は豪勢なもので、先導車のあとに、始皇帝専用の車両(轀輬車おんりょうしゃ・窓を開け閉めすることで車内の温度調節ができる)が鎮座し、その後ろに並みいる高級官僚の車列、そして合計で八十輛からなる戦車が続く。これらの車列のそれぞれに数十人の歩兵が護衛としてつき、総勢で千五百人ほどの大行列であった。

 

 皇帝の威風を天下に示すための行列であったが、その反面、民はこの行列を直接見ることはできなかった、と言われている。卑賤の民は行列が通るあいだ、地面にひれ伏さなければならないからだ。

 見せつけなければならないのに、見ることを許さないとは矛盾しているようだが、人民に畏怖の念を起こさせるには、見てはならないものが目の前を通り過ぎる、というのは効果があったことに違いない。

 

 それでもちらりとその姿を見た者は何人も存在した。

 たとえば沛の人、劉邦は秦の首都咸陽で徭役している際に行列に出くわし、

 

「男と生まれたからには、ああなりたいものだ」

と純朴な感想を述べた。

 

 また、これよりのち、行列が会稽(春秋時代の呉の首都。五回目の巡幸で旧楚の領地を通過したあと始皇帝はこの地に達している)に達したころ、項羽という青年は、

 

「彼は取って代わるべきだ」

と述べ、叔父の項梁にたしなめられたという

 

 始皇帝が誰に取って代わるかが問題だが、後年の彼の行動を考えれば、これはおそらく自分のことを指しているのだろう。

 

 韓信も始皇帝の巡幸には興味をそそられた。

 

――見に行ってみるか。

と思ったが、旅先で食料を得るのはおそらく今より大変なことだろう。

 

――行ったところで、皇帝が飯をくれるわけでもあるまい。

 結局、ふてくされて、釣りを続けた。

 

――ろくに飯も食えない状態では、歩き続けるのもつらい。もう当てもなく歩くのはたくさんだ。いっそのこと私は、ここで一流の釣り師になってみせよう。

 と埒もないことを考えたりするのだが、実際には魚はほとんど釣れなかった。

 しかし、釣り竿を置いて職を求めて歩く体力も気力もなかったのでそのまま座っていると、何やら老婆の集団がぞろぞろとやってきては、小川に綿をさらし始めた。

 

「ここでそんなことをされると、魚が釣れないではないか。もう少し下流の方でやれないものか」

 韓信は半ば哀願するように言った。

 すると老婆の中の一人が、あんたには魚なんか釣れやしない、食うものがないのだったらしばらく面倒を見てやるからうちに来るがいい、と言った。

 

 おそらく韓信の着ているものや、釣り竿があまりに粗末なものだったのを見て、にわか釣り師だと見抜いたのだろう。

 

 老婆は綿うち作業が終わるまでの数十日という短い間だったが、韓信におおいに飯を食わせた。別れ際に韓信は、

 

「この恩は忘れぬ。いつかきっと婆さんには恩を返してみせる」

と、無邪気に喜んで言った。

 平素他人に打ち解けた態度をとることがないこの男にしては珍しいことであった。純粋に人の好意に触れてうれしかったのだろう。

 ところがその綿うち婆さんは、

 

「生意気言うんじゃないよ。図体ばかりでかくて自分の世話もできないくせに。わたしゃ、あんたがあんまり貧相なもんだから食事をあげたまでだよ。誰がお礼なんぞ当てにするものか。まったく、でかい剣を下げてかっこうだけつけているくせに」

と怒り調子で、最後には鼻で笑うような態度で韓信を追い出した。

 

――私が礼を言うだけで怒るとは、この婆さんが私を自分より下に見ているということだ。なんとも情けないことよ。

 韓信は思ったが、よく考えてみれば自分があの婆さんより上の存在だとは断言できなかった。自分は施しを受けて生きている男に過ぎず、きっと婆さんには新手の物乞いのように見えたことだろう。

 

――自分は物乞いではないつもりだが、あるいは世間では自分のような者を物乞いと呼ぶのかもしれぬ。

 そう思ったのであえて反論はしなかったが、韓信は婆さんを厳しい目で睨みつけ、その場を立ち去った。

 この件で韓信は少なからず傷つき、その日から衣服は清潔なものに取り替え、市井のものになめられないように、胸を張って歩くようにした。

 そして、腹が減っても釣りだけはしないようにつとめたのである。

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