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第 二 部

 

濰 水 の 氾 濫( 続 き )

 

 

 韓信は斉王田広を追撃し、ついに高密という海岸沿いの都市にまで至った。田広たちの前には海が立ちふさがり、逃げ場をなくした彼らは、使者を送って楚に救援を求めた。

 

 そもそも斉という国は、項羽が諸国を分割した際、いち早くそれに不満をあらわし叛旗を振りかざした国である。楚と斉はそのころから慢性的な敵対状態にあったわけだが、それゆえにこの二国に協調関係が生まれたのはやや唐突的な感がする。楚、斉にとって漢が共通の敵となり得たからこそ生じた苦しまぎれの連合、といったところだろうか。

 

 実情は、国体を失った斉が藁をもつかむ気持ちで楚にすがり、楚は打算に基づいて手を差し伸べたに過ぎないのだろう。

 

 項羽により斉軍の救助を命じられた楚将の竜且(りゅうしょ)と、彼の部下との会話はそれを象徴しているかのようであった。

 

「漢軍は故国から遠く離れた地で戦うため、兵は逃げ場がなく、必死で戦わざるを得ません。斉、楚は己の地で戦うため、苦しくなると兵は散り散りになってしまいやすい、と言えましょう。ここはむやみに戦わず、斉の国内に使者を遣わして漢に叛かせるのが良いのでは、と考えますが」

 慎重論を唱えた部下に対して、竜且は激怒したという。

 

「馬鹿か、お前は!」

 部下はひれ伏して許しを請うたが、竜且は聞く耳を持たず、目の前の食器や調度品を投げつけながら、持論を展開した。

 

「貴様のその足りない頭で必死になって考えてみろ! 斉が救援を求めているのに戦わないとあっては、いったいわしにとってなんのがあるというのか? 斉を漢に叛かせるのでは、楚に利はない。ただ斉が勢いを盛り返すだけではないか! いま我々が斉の国難に乗じて戦って勝てば、斉の半分以上の領土を手にすることができるのだ。そんなこともわからんのか!」

 

 これは漢のみならず、斉の支配をも目論んだ発言である。

 

 また竜且は次のようにも言っているのが、記録に残っている。

 

「漢の将、韓信は昔楚に属していたことがあるので、わしはその人となりをよく知っている。かつて漂母(食を恵む老女)に寄食し、自分で自分の世話もできなかった男だ。無頼者の股の下をくぐる屈辱を受けながら、その恥をすすごうともせず、人を凌ごうとする勇気さえもない。敵としてはまったく恐れるに足りぬ」

 

 要するに韓信はあしらいやすい男だ、と評したのである。鋭気に富む楚軍の諸将からすると、韓信はこれまで幾多の戦いに勝利をあげてはいるが、小細工を弄してばかりいる印象が強かったのかもしれない。よって詭計に陥りさえしなければ負ける気がしない、と思っていたに違いなかった。

 外見や経歴から判断して気弱そうな男だから、正面きって力比べをすれば必ず自分が勝つ、と信じていたのである。

 

「そんな奴を相手に、なんで戦わずにすまそうというのか!」

 竜且は最後にそう言ったという。

 

 つまり、韓信はなめられていたのである。しかし、彼はその点を逆手に取られることとなった。

 

 

 

 韓信率いる漢軍と竜且率いる楚軍は山東半島の付け根に位置する濰水(いすい)という川を挟んで対陣した。

 楚軍は二十万、その誰もが溢れ出そうとする戦意を隠そうともしない。対岸には自分に対する殺意が渦を巻いているかのように、韓信には見えた。

 

――竜且は、やる気だ……しかし、そうでないと困る。

 

「準備をするとしようか」

 韓信は部下に命じて一万個以上の土嚢を作らせ、それを濰水の上流に積み上げて、その流れをせき止めた。

 

 夜のうちの作業であり、作業には慎重さを必要とする。

 濰水は水深こそ浅い川ではあったが、川幅は広く、流されてしまえば岸にたどり着くのは難しい。なおかつ敵に悟られないためには、事故が発生して兵たちがうろたえ騒ぐのを防がねばならなかった。

 

 地味な作業ではあったが、韓信は心ならずも気分の高揚を感じた。敵を狼狽させる罠をひそかに仕掛けるという行為は、誰しも胸がわくわくするもので、この時の韓信もその例外ではなかった。

 彼はそれを自覚し、

――幾多の兵を犠牲にしておきながら、いま私の胸にあるこのときめきの正体は何だ? カムジンや酈生を失っておきながら、まだ私は人を殺し足りないというのか……。

と、自分の人格を疑った。

 

「竜且という人物と将軍はお知り合いですか」

 近ごろ蘭は、韓信にひとりで物思いにふける機会を与えないよう、努力している。韓信は思考が深く、そのおかげでこれまで戦勝を重ねてきたことは事実であったが、大事な人物をひとり、ふたりと失っていくにつれ、彼はその思考の深さにより、押しつぶされてしまうのではないかと気がかりなのであった。

 この時の質問もたいして内容的には重要なものではなかったが、それでも頭の中で悶々と考えてばかりいるよりは、くだらない話でもした方がましだと思った程度のものである。

 

「知り合い、というほどのものではない。向こうは私のことを知っているだろうが、実は私は彼のことをよく知らない。ただ知っているのは、勇猛さが自慢の将だ、ということだけだ」

 韓信はそう答えた。蘭が驚いたのは、韓信のこの言葉に多少相手を軽蔑した響きがあったことである。知らない、とは言っているが、過去に侮辱を受けた経験でもあるのではないか、と蘭は疑い、それを質した。

 

「本当に知らないのですか」

「? ……本当だ。ああ、君の言いたいことはわかる。よく知らない相手をなぜそのように軽侮するのか、と言いたいのだろう……。私は彼のことをよく知らないのは事実だが、彼が私のことをどのように評しているのかは、だいたい想像がつく。竜且ばかりではない。楚将は皆、私のことを臆病者だと評しているに違いないのだ。過去の私の経歴が経歴だからな。しかし、今回はその思い込みを利用させてもらう」

「どういうことですか?」

「見ての通り、私は川の流れをせき止め、竜且の軍が渡河しやすいようにお膳立てをしてやっている。わかるかとは思うが、これは罠だ。そして罠には、おびき寄せる餌が必要なのだ。馬鹿で単純な奴ほど、すぐ餌に食い付く……竜且のような奴ほどな!

 

――やっぱり、知っているんだ……。

 

 蘭は思ったが、あえてそれを深く追及しようとはせず、別のことを口にした。

ところで、餌って……なんですか?」

「わからないのか? 餌は、臆病者の私以外にないだろう」

 

 

 夜が開けて、朝靄が次第に薄れるにつれ、楚軍の兵士たちは目の前に広がる状景が昨日と違うことに一様に違和感を感じ始めた。

 

――川の水量が少なくなっている!

 もともと浅い川であったので、船ではなく徒歩や騎馬のまま、なんとか川を渡るつもりであった。しかし川に足を踏み入れると、どうしても行動が制約されるので、そこを遠弓で狙い撃ちされる危険がある。

 この問題を解消するには、相手に川を渡らせるに限る。竜且は当初そう考えていたのだが、川の水位が下がったことにより、その必要がなくなった。

 

 彼はその勇猛さをこの機会に最大限発揮し、先手を打って渡河を決行しようと考えた。しかし、兵たちは川の水位が突如として下がるという自然現象を怪しみ、かつ恐れ、なかなか思うように動こうとしない。

 気が付いたときには先に漢軍の渡河を許していた。

「ちっ……先を越された。馬鹿どもめ」

 

 味方の不甲斐なさに歯がみした竜且であったが、よく目を凝らしてみると先頭に大将旗を掲げた一団が見える。

 

 その中ほどに紛れもない韓信の姿があった。

――自ら来たか。ほう、意外な……。

 竜且はそう思ったが、別に韓信のことを見直したわけではなく、単に自暴自棄になっているだけだと思った。二十万の楚軍に対して、いま川を渡りつつある漢軍の数は明らかに少ない。彼我の兵力の差も考えず、ただ突進して死ぬだけの兵法も知らない男の姿であるように思われた。

 

奴の奇策も尽きたように見える……来るぞ。迎え撃て」

 楚軍は竜且の命のもと、漢軍が川を渡りきる前にこれを迎撃せんと足を水に浸して次々と川の中に突入していった。

 

 いっぽう楚兵が討って出るのを確認した韓信は、進軍速度を緩めつつ、戦鼓を鳴らすよう命じた。この合図を境に、漢軍は陣形を乱し、統率がとれなくなったように見える。

 竜且はその一瞬の隙を逃さず、全軍に突入を指示した。

 

――虎が、罠にかかった。

 韓信は竜且の騎乗する馬が川に脚を踏み入れたことを確認すると、さらに合図を出し、全軍に渡河した道を逆戻りさせた。罠だと悟られないよう、兵たちに慌てた素振りをさせたのは、彼の芸の細かさである。

 

「取り乱せ。怯えた振りをして、竜且をおびき寄せるのだ」

 漢軍の兵がこれに応じて敗走するふりをした姿は、あたかも鮫に追われた小魚の群れの姿のようであった。井陘での戦いに続き、偽って敗走する機会が二度も続くと、芝居も真に迫るというものである。

 

 しかしはやる気持ちを抑えきれない竜且は、これが芝居だと見抜けなかった。

「見よ。漢軍の醜さを。わしは知っている! 韓信が昔から臆病者であったことを!」

 

 左右に向けてそう言い放った竜且は、一気に漢軍を追いつめ、雌雄を決しようと渡河の速度を速めた。漢軍はこれを逃れようとやはり速度を速め、もとの出発した地点に再上陸を果たした。

 

 上陸した漢軍は押し寄せる楚軍をそれなりに迎え撃ちながら、「その時」を待った。しかし彼らは次第に押され、じりじりと川岸から後退を始める。やがて楚の先鋒部隊のすぐ後ろに位置していた竜且その人が上陸したとき、事態は楚軍の予想しない展開を見せた。

 

 川の水位が一気に上昇し、渡河中の楚兵たちが残さず流されたのである。

 

「……何ごとだ!」

 振り返った竜且の目に見えるものは、流されていく人馬や、槍、戟などのもはや役に立たなくなった武装品、そして無様に折れた自軍の旗竿であった。

 そして対岸には、もはや渡河が不可能となり、取り残された楚の残兵たちの姿が見えた。

 竜且は楚の先鋒部隊もろとも漢軍の中に孤立したのである。

 

 流れをせき止めていた土嚢の山が、決壊したのだった。上流に残っていた兵が韓信の合図によりそうさせたものである。

 

 激流による轟音が轟く中、韓信は岸に残された竜且を始めとする楚兵たちを完全に包囲し、じりじりとその包囲網を狭めていった。一人、また一人と楚兵の姿が視界から消えていく。竜且はついに進退極まり、喚くように叫び立てた。

 

「韓信! 川を氾濫させるなど……このえせ呪術師め! 貴様が小細工を弄したことは知れているのだ。俺と正面から勝負するのがそんなに怖いのか。こそこそと逃げる真似などして、情けないと思わないのか。自尊心のかけらもない奴め! 勝負しろ、韓信!」

 

 しかし韓信は応じなかった。応じる必要もない。

 戦の勝敗はすでに決し、指揮官たる重

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要な地位にある韓信が無意味な一騎打ちを演ずる必要性は、全くといってないのである。

 

 結局、竜且は漢の雑兵に過ぎない男の手にかかって刺殺された。

 

 韓信は無惨に横たわる竜且の遺骸を指差し、将兵に向かってつぶやくように言った。

「見よ……。あふれる自尊心のあまり冷静に状況を判断できなかった者の、成れの果てだ……!」

 

 

 対岸に取り残された楚の残兵は、それぞれ逃亡し、斉王田広も捕らえられ、のちに処刑された。

 そして曹参、灌嬰の二人に斉の残党狩りを命じ、諸地方に分散して逃げ回る田姓の者たちを捕らえたり、抵抗する者を殺したりさせた。

 

 しかしそれでも逃げ延びた者は存在する。宰相田横は田広の死を伝え聞くと、にわかに斉王を称して、灌嬰の軍を襲った。

 しかし田横は逆にこれに敗れ、逃れて梁の彭越のもとに走り、保護された。彭越は友軍なので韓信としては釈然としない気持ちが残ったが、よく考えてみれば、楚に走られるよりははるかにましであった。韓信にとって彭越はあまり馴染みのある人物ではないが、友軍である以上、田横の復権を手助けしてこちらを攻めてくる可能性はほとんどない。田横自身がおとなしくしていてくれれば満足すべきだった。

 

 このように田横を取り逃がしはしたものの、韓信が斉を攻略した際の態度は、これまでになく断固とした印象を受ける。

 

 かつて韓信は魏豹を討伐した際にもこれを殺さず、劉邦にその処分を委ねた。

 また、趙を征伐した際にも幹部の李左車を赦し、助言を請う姿勢さえも見せている。

 

 しかし斉を攻略した際にはそのようなことはなく、徹底した意志のもと、積極的に滅亡を狙ったかに見えるのである。

 

 あるいは酈食其の死による心境の変化があったのかもしれない。

 また、かねてより田氏の動きに好意を抱いていなかったことも、根底にあったのかもしれない。

 いずれにしても斉は趙のように傀儡の王をたてた国家ではなく、田姓一族が堅固に支配体制を固めていた国だったので、残酷なようだが旧来の体制を解体するには徹底した殺戮が必要であったのだろう。

 

 そもそも、韓信は武力で斉を討つつもりでいた。大国の斉を滅ぼすためには、中途半端な気持ちで臨むと失敗する。

 しかし田氏の連中は気に入らないとはいえ、個人的な怨恨があるわけではない。決して憎んでいたわけではないのだ。

 

 酈食其の死は、韓信に田氏を憎ませるに役立った。

 

 だがこれも都合のいい解釈である。韓信は酈食其の死が自分の行動に原因することを自覚しながら、それをどう消化するべきか悩んだ。

 責任を感じ、自害すればすむ話ではない。

 自らの行動を恥じ、撤兵すればすむ話でもなかった。

 それでは酈食其の命をかけた行為が無駄になってしまう。

 

 韓信は自己嫌悪を覚えつつ、責任を田氏に転嫁しようと決めた。そうするしかなかったのである。

 

 やり場のない思いを敵にぶつけ続けると決めた韓信は、竜且を破った後も逃亡した楚兵をしつこく追い、ついに残さずすべて捕虜とした。

 

 なおも国内には各地に少数の反乱勢力が残されてはいるが、事実上、大国の斉はついに平定されたのである。

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