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第 二 部

 

濰 水 の 氾 濫

 

 

 平原から済水を渡り、斉国内に侵入を果たした韓信率いる軍勢の進軍速度は、快調そのものであった。

 

 城の内外に守備兵がほとんどいないということは、軍を向ければ必ず城が陥ちる、ということであり、人命や時間を無駄に損なうことないので、韓信としては大いに助かる。

 時間がかかれば、敵に迎撃の機会を与えることのほか、糧食の問題も発生する。糧食の問題が発生すれば、兵の士気にも関わり、それが深刻な状況に陥れば、餓死する者も出てくる。そんな軍が戦に勝てるはずがない。

 

 韓信の軍が斉に至り、そのような問題に直面せずにいられたのは、他ならぬ酈食其の功績であった。

 韓信としては、なるべく酈食其を救出し、保護したい。できれば危機を察知して脱出していてもらいたかったのだが、首都の臨淄に間近に迫った今でも斉軍の反撃が散発的なことは、酈食其がまだ臨淄に残っていて、斉王相手に説得なり工作なりしていることの証拠であった。

 

 つまり、酈食其は助からない。

 

 そうと知っていても、今さら進軍を止めることはできなかった。

 ここで軍を引くということは、せっかくの酈食其の功績を無にすることであり、ひいては劉邦の意に背くことになる。私情にかられて中途半端な侵略行為で終われば、酈食其が斉王に殺されるばかりでなく、自分も劉邦に殺されるかもしれなかった。

 

――結局は、自分の命が惜しい、ということか。

 韓信はそう思い、自らを嘆かざるを得ない。

 しかし一方で、

――人として生を受けたからには、それを惜しみ、大事にするのは当然のことだ。なにを思い悩む必要がある?

 という開き直った感情も心の中には存在する。

 

――酈生のような達観した死生観を持つ男は、このような感情のせめぎ合いとは無縁でいられるのであろうか。

 だとすれば尊敬すべき生き方ではあるが、自分がそれに倣おうとは思わない韓信であった。

 

――酈生は、死して名を残す……。彼のような男に比べたら、自分は単なる軍人に過ぎぬ。その単なる軍人ができることと言えば、せいぜい長生きして、敵兵を一人でも多く殺すことしかない。自分は生きて名を残すしかないのだ。

 

 韓信の酈食其に対する思いは、さまざまな過程を経ながら、結局最後には自分を自虐的に評価するところで帰結した。

 

 

 昨晩まで親しく酒を酌み交わしていた相手が翌朝になって態度を豹変させることは、この時代のこの国では、珍しいことではない。ある朝、酈食其は斉王田広の自分に対する表情がいつもと違うことに気付いたが、たいして驚きもしなかった。

「広野君(酈食其の尊称)、君は天下は漢に帰すと余に語ったが、それはこういうことなのか」

 

 田広の表情、口調も反問を許さないものであったが、それに動じる酈食其ではない。涼しい顔でこれに応対した。

「さて、どういうことですかな」

 

 しらじらしい言葉、わざとらしい表情。あたかも確信犯的な態度である。

「……われわれ斉が漢に味方することを決めた以上、漢軍の矛先は、楚に向けられるべきではないのか。しかし、聞くところによると漢は大軍を擁し、済水を渡り、ここ臨淄に向かっているそうではないか。君はこれをどう説明するつもりだ」

 

 酈食其は鼻を鳴らして、不満を表明した。物わかりの悪い子供を叱りつけるような態度である。

「今さらなにを言われるのか。わが漢が貴様ら斉国などと同等と思われては困る。わしが心から貴様らと誼みを結ぶはずなどないではないか。貴様らはわしがなにを言おうと、面従腹背の態度で臨み、都合が悪くなると、平気で裏切る。今、漢が軍を臨淄に向けたのはひとえに貴様らが信用できぬからだ」

 

 それまで横でこれを聞いていた宰相の田横が、たまりかねて会話に割って入った。

「ほざけ。信用できぬというのは、お前のような奴のことをいうのだ。口先だけの老いぼれめ。儒者のくせに礼儀も知らない男だ。死ね」

 

 田横は左右の者に命じて、大釜を用意させた。酈食其を煮殺そうというのである。

 年に似合わず大柄の酈食其は四人掛かりで取り押さえられ、手足を縛られて釜の中に放り込まれてしまった。

 

 頭から釜の中に落ちた酈食其に向かって、田広は吐き捨てた。

「さて、広野君……。このまま死にたくなければ、漢軍に進軍を止めるよう、取りはからえ。それができないとあれば……死ぬまでだ!」

 

 すでに釜には火がつけられている。酈食其は徐々に熱くなっていく水の温度に恐怖を感じながらも、精一杯の虚勢を張った。

「馬鹿どもめ! わしを殺せば、漢がお前たちを許すはずがないというのに! お前たちは辞を低くして、わしに頭を下げて頼むべきだったのだ。『どうか漢軍の進撃を止めてください』とな! しかし、もう遅い。わしがお前らのためになるようなことをしてやる義理はすでにない」

 

 田広、田横ともにこの言葉を聞き、事態がすでに収拾のつかないところに至ったことを知って、歯がみした。

「姑息な……誰がお前のような小人に頭を下げたりするものか」

「確かにわしは小人に過ぎぬ。お前らにとってわしのしたことは姑息な手段だったかもしれん。だが小人が大事を成就させるには、そんな小さなことにこだわってはいられない。お前らがわしのことをどう思おうとも、突き進むまでだ。真に徳のある者はちっぽけな礼儀などにはこだわらぬのだ!」

 生涯儒者として礼儀の神髄を追及してきた男の結論が、これであった。

 

 田広などにとっては、酈食其が儒者だということも虚言であったかのように思われ、どこまで自分は騙されていたのかと思うと、我慢ならない。田広は釜の中の酈食其の顔に唾を吐き、罵倒した。

「貴様は腐れ儒者だ! 腐れ儒者の礼儀など、人を誑かすかりそめの姿でしかないことを余は思い知ったぞ。早く死ね! 貴様が死んだ後、その肉を食ってやるわ……どうせ美味くはないだろうが」

 

 酈食其は次第に気分が激し、どんどん高くなっていく湯温が気にならなくなってきた。

 彼の言動は、もはや虚勢ではなくなっていた。

「よいか、断言してやる。わしは確かに死ぬが、お前たちにわしの肉を食っている暇はない! それはなぜか教えてやろう。漢の指揮官は、韓信だからだ! 天下無双の将である彼にかかれば、お前らなど……」

 

 ここで酈食其は頭の中で言葉を選び、

「野良犬のようなものだ」

と吠えるように言い放った。

 

 彼の罵倒はさらに続く。

「斉の犬どもめ! お前らが韓信に尻を蹴られ、屠殺される光景がわしには見えるぞ。悪いことは言わぬ。犬は犬らしく振るまえ! 腹をさらして降伏するのだ。それが嫌なら、今すぐ尻尾を巻いて逃げるがいい!」

 

「この……」

 反論しようとした田広であったが、田横がその肩に手を置き、押しとどめた。彼らは煮られ続ける酈食其をそのままに残し、兵をまとめ臨淄を脱出し始めたのである。

 

 酈食其が放つ高笑いの声が、それを見送った。

 

 

 韓信が臨淄に突入したころには、すでに斉の高官たちの姿はそこになく、あるのは取り残された下役人と宮女たち、そしてわずかな数の宦官の姿だけであった。

 

「酈生は! 酈生はどこにいる」

 

 探しまわる韓信のもとに、ひとりの男が近づいてきた。その男は、おずおずと一通の書簡を差し出し、韓信に対して仔細を説明しだした。

「私は、広野君の従者でございます。従者は私の他に何名かおりましたが、他の者はみな四散してしまいました。ただ私だけは韓相国(韓信のこと)さまにこちらの書簡を渡すよう申し付けられておりましたので、ここに残った次第でございます」

「酈生はどうした。どこにおられるのか」

 

 韓信は従者の言葉を遮るように質問した。

「広野君は、すでにお亡くなりになりました……。壮絶な最期でした。どうかその書簡をご覧になってください。広野君は生前より、こうなることを予測して、その書簡を相国宛にしたためておられたのでございます」

 

 韓信は酈生がすでに亡いという現実を突きつけられ、激しく動悸を感じた。

 結局はこうなるのか、どうして逃げなかったのか、という思いが錯綜し、しばらくの間呆然と佇んだ。

 

「……どうか」

 従者は書簡を読むよう韓信に催促すると、自分も難を逃れようとその場をあとにした。韓信はそれに気が付きながらも、ただその後ろ姿を眺めているばかりである。

 

「将軍……」

 蘭が読むように促すと、ようやく韓信は我に帰り、おそるおそる書簡を開いた。

 

 

『……ここに至り、わしは礼の正体を知った。一口に言えば、礼というものは相容れることのない人間同志の欲を反影したものなのである。遅まきながら、わしはついにそれを知った。

 

 人はそれぞれ内面に欲を抱えており、それをまったく持たない者は、人ではない。人は程度の差こそあれ、誰しも欲を持ち、それを隠そうとしない者は、一般的に悪人とみなされる。しかし、欲こそが人生、ひいては社会を向上させる原動力となっていることは否定できず、堯舜の時代(ぎょうしゅん・堯、舜ともにはるか古代の聖王の名。神話のように昔であることを指す)から今日に至るまでの世界の発展の素因となっていることは確かだ。

 いわば欲は人における必要不可欠の構成要素

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であり、礼はそれをあらわにしないためのごまかしの道具でなのである。

 

 かつて荀子は人間の本性は悪であるとし、礼によってそれを正すことができる、と説いたが、仮に人の欲望を悪とみなすのであれば、今さらながらその説は正しいと認めざるを得ない。

 

 しかしあえてわしはその説を疑う。

 はたして欲は、本当に悪であろうか。

 

 生物はすべて現状に満足せず、常により高みを目指すもので、これはなにも人に限ったことではない。野にいる獣でさえも、より良い餌場を求めて縄張り争いをし、子孫の繁栄のために同胞同士で相争うものだ。

 人の欲もこれに似たようなもので、欲を原因とする争いごとは絶えることがない。これを思うに欲とは生物に本来備わった本能というべきもので、悪だ、とはいえない。

 

 しかし獣と違って知恵を備えた人という生き物は、その知恵ゆえに欲を隠そうとする。その道具こそが、礼なのである。

 

 ではなぜ人は欲を隠そうとするのかと言えば、隠しておいた方が欲の実現が容易であるからだ。

 欲を隠さない人物は、警戒され、文化的でないと批判される。その結果、欲を実現させることは難しい。

 これに対して利口な者は礼を用いて、内面に潜む欲を隠し、誰にも気付かれぬよう、その実現に向けて努力をするものだ。

 

 将軍は儒者ではないが、わしの見るところ、礼を巧みに用いている。よって将軍の内面に潜む欲がなんであるのか見極めることは非常に難しい。

 しかしわしは、ついに将軍の欲がなんであるのか発見することに成功したのだ。

 

 常に孤高の存在でいること。

 これはおそらく将軍自身気付いていないことであるに違いない。だが、わしにはわかる。

 

 将軍は、項王はおろか漢王からでさえも干渉を望んでおらぬ。しかしそれは自身が王になりたいがためではない。将軍は誰にも膝を屈したくないだけなのだ。

 

 将軍がそれを自覚しているならば、今までにその機会は何度となくあった。しかし将軍は自身の抱えている欲がなんであるか気付いていないため、行動を起こせずにいる。知恵や仁、義、あるいは礼の精神が将軍の欲の発揚を抑えており、わしとしては、もどかしく思うばかりだ。

 

 ところで、礼の正体を知り尽くしたわしは、人生の目的をほぼ達したわけだが、ひとつやりたいと思っていたことがある。わしに残された最後の欲の実現だ。

 

 それは、自らの死を尊敬する者のために捧げたい、という欲である。迷惑かもしれないが、士というものは自分の死も劇的に演出したがるものなのだ。

 

 間もなくわしは、ここ臨淄で死を迎える。願わくば将軍はわしの死を有意義に活用することを考えてもらいたい。死者に対しては、礼など不要だ。わしの死と引き換えに斉の地を将軍のものにするがいい。

 将軍と初めて会った時、わしは将軍にかしずいてみせる、と言ったものだったが、あれはあながち冗談ではない。わしは将軍のことを本気で敬愛しているのだ。

 

 最後となるが、いずれ項王は敗れ、天下は漢のものとなろう。しかし将軍はたとえ一人になっても独立を保つべきだ。将軍の才能は項王亡き後、漢王にとってきっと有害なものとなるからだ。

 

 このこと、決して忘れたまうな』

 

 酈生の書簡を他人に見せることはできなかった。韓信は書簡を懐深くしまい込み、内容に関しては蘭にさえも語ることはなかった。よって韓信がそのときなにを思ったのかは定かではなかったが、彼が臨淄を平定してさらに東方を目指す姿に、常にない悲壮感が漂っていたのは誰の目にも明らかであった。

 

「……酈生……くそっ!」

 韓信はそう呟き、歯がみした。

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