NEW

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら

item8 item9 item4a item11 item12 item13 item10
第 二 部

 

我 は 仮 王 に 非 ず( 続 き )

 

 

 結果的に韓信は次のように劉邦に対し、使者を通じて意見を奏上した。

「斉という国は、民衆に至るまで嘘、偽りが多く、変心に満ちており、端的に申せば、変節の国だと言えましょう。また南は国境を楚と接し、防衛に関しても容易ではなく、非常に統治するに難しい国です。厄介なこの国を治めるにあたっては、王をたてて徹底的に支配するしかありません。一武将の地位では不十分なのです。願わくは私を仮の王として任命していただくよう、お願い申し上げます」

 

 韓信としては謹み深く、遠慮がちに「仮の王」などとしたのだが、おりしも劉邦は窮地に立たされているさなかであったので、これに激怒したという。

 

 というより、ここ数年の劉邦に順風満帆なときはなく、常に窮地に立たされているありさまなので、韓信がいつ意見をいっても素直に受け入れられることはなかっただろう。

「王になるだと! わしが苦しんでいるというのに知らぬふりを決め込んで、王になるだと! 助けにも来ず、あいつは勝手なことばかりほざきおって」

 

 使者が恐縮するのを前にして劉邦はさらに言おうとした。

「いったい韓信のやつはわしのことを……痛っ!」

 

 劉邦は突然口を閉ざした。

 韓信を個人的に攻撃しようとする言動を抑えるために、張良と陳平がふたりで劉邦の足を踏んだのである。

 

 びっくりした劉邦の耳に張良が口を近づけ、使者に聞こえぬよう声を潜めて囁く。

「漢は、甚だ不利なときにあります。ここで韓信に不満を抱かせては、助けに来ないどころか、叛く恐れがあります。……韓信は王に取り立ててやれば、少なくとも自分の領地は守ろうとするでしょう。韓信の領地は、間接的には漢の領地でもあります。彼が敵でないことに、満足すべきです」

 

 そこで劉邦は気付く。

 韓信がとてつもない戦果をあげ、いまや自分に対抗できる勢力になったことを。

 かねてより抱いていた懸念がいま、このとき実現しつつあるのであった。

 

「……立派な男が、諸侯を平定したのだ。なぜ仮の王などと言うのか。遠慮せずに堂々と王を称せばよい!」

 劉邦はいきなり前言を覆した。

 表向きは態度を軟化させたのである。使者は劉邦の意図が読めず、わけが分からなかったが、少なくとも韓信が王位に就くことを漢王が認めた、ということだけは理解できた。

 

 かくして劉邦は新たに斉王の印綬を韓信に授けることになる。これは同じ王といえども斉王より漢王の方が格上で、覇者の肩書きは韓信ではなく劉邦にあることを意味する。

 

 そして印綬を韓信に届ける役目は、張良に与えられた。

――信よ……これ以上望むな。……それがお前のためだ。

 使者として旅立った張良と、送り出した劉邦はそれぞれ同じようにそう思ったのだった。

 

 韓信が張良と対面するのは、久しぶりのことである。再会を喜ぶべきであったが、しかし張良の面持ちはどこか暗い。常に病気がちな青白い顔色をした張良が、目元に憂慮の色を浮かべていることは、韓信にもわかった。

 

「相国……いや、韓信。君に斉王の印綬を渡す前に言っておくことがある。なにしろ王ともなれば至尊の身。いまのうちでなければ言いたいことも言えぬ」

「そういう言い方はやめてください。私は王位に就くといっても、漢王に仕える身であることには変わりありません。どうかいままで通りのおつきあいをさせていただきたいものです」

「本気でそう思っているのか」

「……どういうことですか? 私にはわかりませんが」

 

 張良はため息をついた。

 もともと韓信を別働隊の将として推薦したのは彼自身であったが、こういう事態になるのであれば、韓信を劉邦のそば、息のかかるところに置いておくべきであった、と後悔したのである。

 

「漢王は君が斉王に就くことを了承なさったが、実は危惧を抱いている。君は有り余る能力を持ちながら、なかなか漢王の救援に訪れない。斉を治める苦労があることはわかるが……さっき君が言ったように、君が漢王に仕える身であれば、まず第一に漢王の窮地を救うべきではないのか。王を称して斉国内の地盤固めをするのは民衆のためか? それとも自分の権力増強のためか? いずれにしても漢王のためではないことは確かだ。そうではないか?」

「……本意ではないのです。できれば斉王の地位など、代わってくれる者がいたら、代わってもらいたい。しかし斉は大国で、うまく御することができれば、漢や楚に対抗できる勢力となりえる……。これが危険なことであることくらいは、私にもわかっています。だから、漢王からよほどの信頼を受けている者しか、斉王とはなれません。だが、斉はうまく御することこそが難しいのです。漢王の信頼を得ている、そのことだけでは斉王としてはうまくやっていけないでしょう。斉を治めるには反覆常ない斉の民衆を抑え込む武力が必要なのです。私は、漢王の信頼はおぼつかないが、武力はある程度保有している。これが、私がやるしかないと考えた所以です」

 

 韓信のいうことは張良にもわかる。

 しかし、彼の返答は張良の質問への答えにはなっていなかった。

「それはわかる。しかし、漢王は憂慮しておられる……」

「漢が強権をもって治めなければ、斉は簡単に心変わりをし、楚につきましょう。だから、私が斉王を称するのは漢のためなのです。また、漢に味方することが斉の民衆のためになることは明らかです。だって、そうでしょう? 漢は楚に勝利して天下を統一するのですから! そして斉を治めることに成功すれば、結果的に私の権力が増強されることは避けられません。それによって漢王には睨まれることになるかもしれませんが、それは私が自制すればすむ話です。……なんの問題も起きません」

 

 張良は、もしかしたら韓信がこの種の問題に対する勘が鈍く、無頓着にことを進めているのかと疑っていたが、想像に反して韓信はわかっているようだった。

「韓信……くれぐれも自制を。そうしなければ、君自身の身を滅ぼすことになる。このことを忘れるな」

 

 張良は別れ際に、酈生と同じく「このことを忘れるな」という言葉を残し、去っていった。

 

 しかしその言葉は似たようなものであっても、内容はまったく反対の意味であるようにも思えた。

 韓信にはどちらの言葉に従うべきか、その明確な答えはない。

 

 

 一心に剣の手入れをしていると、気が紛れる。

 

 微小な剣先の欠けに注意を払い、それを見つけると納得がいくまで研ぎ直す。

 その間に考えることは何もなく、ただ作業に集中するだけであった。

 

 韓信は、思索で頭の中がはち切れそうになると、好んで自ら剣の手入れをした。

 

 斉を攻略するにあたって、韓信は自ら剣を振るうことはなかった。前に使ったのはいつのことだったか……。

 思い出した。カムジンを斬ったときだ。

 

 思い返せば、自分はあの時も思い煩い、一心不乱に剣を研ぎ直したものだった。それ以来剣を使う機会は一度もなく、そのため刃こぼれが見つかるとは思えない。韓信は今、鞘に納まった剣を前にして、どうやって現在の不安感を解消しようかとひとしきり悩んでいる。

 

 やがて思い切ったように鞘から剣を引き抜いてみると、驚くことにその刃にはうっすらと錆が浮いていた。

 韓信はそれに気付き、よくもこんな状態のまま戦場に立ち続けていたものだ、と思った。

――あるいはこれも、自分の運の強さを示しているのであろうか。

 そう思うと心強く感じられることは確かだが、一方で馬鹿馬鹿しさも感じられる。

 錆び付いた剣を持ちながら生き残った、それは確かに強運を示すことかもしれない。

 しかし彼は人生を運に左右されるのではなく、自分の行動で決めたかった。これまで運を信じて行動したことなどなかったのである。

――この錆は、死者の呪いなのだ。

 迷信めいた考えであることには変わらないが、そう思った方が得心がいく。カムジンの呪い、酈生の呪い、陳余の呪い、田広、竜且の呪い……そして章邯や雍昌……。

 

 ずいぶん昔のことを思い出した。

 雍昌を仕留めたのはまだ自分が淮陰にいたころだった。かつて淮陰城下で剣を引きずりながら歩いた幼き日の自分……。母や栽荘先生の姿が懐かしく思い出された。あの人たちが生きておられたら、いまの自分を見てどう評価するだろう。

 

 章邯を殺したのは確かに自分ではなかったが、彼の運命を決めたのは他ならぬ自分である。あの頃の自分は内に潜む心の弱さを見透かされまいと、剣を杖がわりにして自分を大きく見せてばかりいた。章邯の姿が恐ろしく、垂直の城壁をよじ登って逃げた姿の方が、本当の自分であるというのに。

 

――そう思うと、やはり運か……。

 しかし、そうとは認めたくない。自分はあの章邯を自分の策略で追いつめ、その結果、漢に勝利をもたらしたのだ。

 それは決して運などではない。

――やはり、呪いだ。

 結局どちらにしても自分にとって歓迎せざるものであった。しかし呪いが自分の招いた結果だとすれば、恨むべきは自分しかいない。

 その方が韓信にとっては気が休まるのである。

 

 おそらく母が生きていたら、生前と同じように「もっと人を信用するものだ」と言い、栽荘先生が生きていたら「太子丹と似て不器用だ」と言うだろう。

 ともに自分のひとりよがりな性格を指摘するに違いないのである。

 

 しかし二人ともすでに死者であったので、韓信としては想像して苦笑するしかない。

――死者が物を言うはずがない。

 そう思う一方で、母と栽荘先生の呪いが剣に込められていないことを願うのである。

 もし死者が生者を呪うことができるなら、物を言うこともできるかもしれないのだが、それを考えようとはしない韓信であった。

 

 韓信は剣の表面に浮かぶ錆を見つめながら、そのようなことを考え続けた。物事を考えないように剣の手入れを行うはずが、結局その剣が彼の思考を複雑にした。

 

 考え込む韓信の姿には、錯乱している様子はうかがえない。しかし逆に思考に集中しすぎて全く周囲が見えなくなるようであった。

 このとき、魏蘭は韓信の前にしばらく前から座っていたのだが、それでも韓信には全然気付いてもらえなかった。

「将軍……いえ、王様」

 

 蘭は我慢できなくなって自分から声をかけたが、それに反応した韓信の目はどこか空ろだった。

「王様……」

「……そんな呼び方はよしてくれ……私らしくない」

 

 韓信は気だるそうに蘭に向き直って言った。その様子は蘭の目から見ても王らしい威厳はない。

「張子房さまには、なにも問題ないとおっしゃったそうですが……その様子では本心から言った言葉ではなさそうですね」

 

 蘭としてはいたわりの言葉をかけたつもりであったが、韓信にとっては嫌味に聞こえたようである。

「見ての通り、このざまだ。いまにして思えば、趙歇の気持ちがよくわかる。なりたくもないのに王にされた気持ち……。他人にはわかるまいよ」

「でも、王座に就きたいと漢王に上奏したのは、将軍ご本人じゃありませんか」

 

 蘭は韓信のことを王様と呼ぶのはやめて、これまで通り将軍と呼んだ。

「違う。私は仮王になりたいと言ったのだ。私の自分の気持ちに対する最大限の妥協だ。王にはなりたくないが、なる義務があると感じたから言ったまでだ。それを漢王は遠慮せずに真の王になれと……。それでいて叛逆を疑うとは、どういうわけだ……。いったい私にどうしろと?」

「推挙してもらえばよかったのです。斉には王をたてねばなりませんが、誰か適任の者はおりませぬか、漢王にそう申し上げればよかったのです。結局漢王は将軍を王にたてるしかなかったでしょうが、自分から言い出したのと相手に言わせたのとでは、印象の度合いがまるで違います」

「それは……確かにその通りだが、しかしもう遅い。君もそれを先に言ってほしかったものだ」

 

 韓信の言う通りだった。蘭は自分の考えがいわゆる後知恵だったことに気付き、素直にそれを詫びてみせた。

「申し訳ございません。私は幕僚としてなんの役にも立てず……」

「よい。過ぎたことだ。それより今後のことを考えるとしよう。何度も言うようだが、私は一体どうするべきか」

 

 蘭は少し考え込んだが、基本的に考えはあらかじめ定まっていたようである。ただ、それを韓信にどう伝えるべきか迷ったようであった。

「漢王を信じて行動するしかない、と思われます。私がおそばで見ている限り、将軍は政治的な立ち振る舞いが苦手のようす。時勢の流れるまま、漢王の命ずるまま行動すれば、難は避けられるかと思います」

「それではいずれ私は疎んじられ、せっかく就いた王の座を降ろされるかもしれない。私はそれでも構わないが……」

 

 ここで韓信はすこし笑いを漏らした。

「どうしたのです?」

 

 蘭の問いに、韓信は珍しく浮ついた表情を見せて言った。

「いや……私は王座から降りてもいっこうに構わないが、それでは君を王妃に迎えることができない、と思ったまでだ」

 

 韓信が意外に感じたのは、蘭が顔を赤らめもせずにその言葉を受け止めたことだった。

「ご冗談を。でも私もいっこうに構いません。私は将軍が将軍のままでも構いませんし、仮に平民になられたとしてもお供します。もちろん、王となられても」

「蘭、君の気持ちは嬉しいが、どうして君は私のことをそのように思ってくれるのか? いや、……今さらかもしれないが聞かせてもらいたい」

 

 蘭は韓信の問いに、気負う風でもなく答えた。

「……将軍の武功は前例がないほど大きなものですが、将軍個人のお人柄は……傍で見ていて、どうしようもなく頼りなく見えるのです……将軍は他人を信用なさらないし、生き方も不器用で……私は、常におそばに控えていないと心配で仕方がありません」

 

 このとき蘭は韓信にとって重要な位置を占める二人の死者がいうべき言葉を、全く不自然な様子もなく言ってのけた。その事実に韓信は具体的な説明はできなかったが、深く心を動かされたのである。

 

 しかしなぜ自分の気持ちが高揚したのか……自分で自分に説明ができないことを彼は苛立たしく感じた。

 常に明確な解答を求め、理路整然とした論理を好む……韓信とはそういう人物だったようである。

 

 

 紀元前二〇三年二月、韓信は斉王として君臨した。

 当時の人間で、それがよいことであると断言できた者は、ほとんどいない。当時の誰もがそうするしかない、他にどうしようもない、と思った結果、生じた出来事だった。

 

(第二部・完)

item16 item16c item16d item17a item18

トップページ | 目次 | 著者のページ | ご意見・ご感想はこちら