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第 二 部

 

武 将 と 弁 士( 続 き )

 

 

「韓信、信頼を裏切るような行動はとるな。君をいちばん最初に見出したのは、この俺だぞ。その俺の顔に泥を塗るな」

 別れ際の夏侯嬰の言であった。

 

「私がいつそのような行動をとったというのだ。このたび私は確かに趙で逡巡して活躍できなかったが、それは私自身の抱える問題に原因があったからで、ことさら大王の破滅を願ったからではない。これによって私が裏切ると考えるのは大王の思い込みであり、妄想だ」

 韓信はそう言い、身の潔白を主張した。

 

「ならいいが……大王は、君を信頼している。いや、信頼せざるを得ないのだ。強国斉を討伐する任務を与えられる者など、漢には事実上君しかいないのだからな。単独行動を許され、大王の目の届かないところにいるのをいいことに、変な気をおこしてくれるなよ」

 夏侯嬰は返事を待たず、劉邦を車に乗せ、修武の地をあとにした。

 

 

 劉邦の韓信に対する思いは微妙としか言いようがない。

 当初の構想どおり魏、代、趙、燕、斉は攻略してもらわないと困る。

 

 しかしそれに成功しすぎて韓信の勢力が劉邦のそれを上回ることがあってはならなかった。

 このため劉邦は韓信が武功をあげるつど、理由をつけて兵を取りあげて勢力を削ぎ、魏蘭の言うような韓信を首領とする私兵集団が形成されることを阻害した。

 

 しかしそれが何回も続けば、韓信にも不満が生じる。

 不満は叛逆の種となり、劉邦としては韓信に叛逆されれば太刀打ちする手段も能力もない。そのため懐柔することも必要であった。

 すなわち劉邦は印綬を返さず、韓信を趙の相国に任命したのである。

 つまり、印綬は新たに作り直されたのだった。

 相国とは総理大臣に相当する内政の長のことをいい、丞相とどう違うかは諸説あるが、臨時的に丞相の上に置かれる地位であると解釈すれば問題ないであろう。

 しかしいずれにせよ、韓信がこの措置に満足したどうかはさしたる問題ではない。ただ、地位を与えられた以上はそれに相当する職務を遂行しなければならない、という義務が生じたのは事実であった。

 

 これにより、韓信は気持ちを改めざるを得ず、斉への征旅を開始した。

 

「私は、そんなに危険人物だろうか。印綬を取りあげられるほどにらまれる覚えは私にはないというのに」

 

 そう愚痴りたくなるのも無理はない。たしかに半年もの間ぐずぐずと行動をせずにいた自分も悪いが、彼が行動するということは、ひたすら人を殺す、ということなのである。

 地位と名誉を引き換えに、とはよく使われる台詞であるが、彼自身はその両方とも人並みでさえあれば構わなかった。そのような状況にあって、逡巡するのはむしろ人としての証ではないか。

 

「印綬が新しくなって戻ってきたのは喜ぶべきことでしょう。結局待遇は以前より良くなったことも、やはり喜ぶべきです。曹参さまは以前にも行動を共にしたこともございましたし、灌嬰さまはまだお若く、監視としては警戒すべきようなお方ではありません」

 蘭はそう言いつつも、不安を禁じ得ない。

 韓信の将来が見えてこないのである。

 

 天下が乱れているうちは、韓信は劉邦にとって必要な存在であるが、いずれ項羽を討ち、世が泰平になった際、韓信はその能力のゆえに存在を許されなくなるのではないか、と思うのである。

 しかしその思いはこの時点では漠然としていて、解決方法も見えてこない。

 また、劉邦が項羽を討つと決まったわけではなく、その逆の可能性の方が現状では高いのであった。

 

「印綬がなくなって、私はこのうえもなく不安を感じた。これは私が漢王の臣であるということを如実に示していると思う」

 韓信は今朝の出来事を振り返るかのように話し始めた。

 その表情は、苦い薬を無理に呑んだようなものである。自分にとって良いことなのか悪いことなのかよくわかっていない様子であった。

 

「どういうことですか?」

「わからぬか? もし私に叛意があれば、印綬などなくても行動は可能だ。大沢郷で挙兵した陳勝・呉広に印綬があったか? 会稽の県令を殺して自立した項梁に印綬があったか? 沛で挙兵した漢王は印綬をもっていたか? 答えはいずれも否である。人が人に叛くときには印綬など必要ないのだ。しかし私は印綬なしに行動することを、どうやら本能的に嫌っているようだ。こんな私が漢王に叛くなど……」

「あり得ない、と? では、将軍は心から漢王に忠誠を誓っておられるのですね」

 

 蘭はこのとき韓信が即座に肯定するものと思っていたのだが、その答えは意外なものだった。

「……実のところ、よくわからない。嫌いではないことは確かだ。だが、では好きかと聞かれると、特別そのような感情はないように思える。確かなのは、あのお方は私の意見を聞き、私の能力を引き出してくださった、ということだ。それは感謝しているが……今や私の能力は、あのお方にとって邪魔なものになりつつある。どうすべきか……いや、そんなことより」

 韓信は蘭に向き直って、話題を転じた。

「君にとってこの知らせがどういう意味を持つかわからないが……魏豹が死んだそうだ。仔細は聞かされていないが」

 

 はたして蘭は悲しむのか、喜ぶのか。韓信は蘭の反応に興味を持つことに罪悪感を感じたが、事実興味があるのだから仕方がない。

「魏豹が……いえ、もういいんです。関係ありません」

 

 蘭は表面上、喜びも悲しみもあらわさなかった。

――しかし……なにも感じないはずはあるまい。

 そう考えた韓信は、

「君が悲しむならば、同情しよう。喜ぶならば、共に笑おう」

と言って、蘭の肩に手を置いた。

 

 蘭はそれに対して微笑を返したが、その目にはうっすらと涙が浮かんでいるようだった。

――人の感情というものは、近い間柄であっても容易に理解できないものだ。

 韓信はそう思わざるを得なかった。劉邦の心も、蘭の心も、よくわからない。しかも自分自身の心も、よくわからないのであった。

 

 

 曹参、灌嬰が引き連れてきた兵を迎え入れ、韓信の軍は編成を新たにし、北東方面に向かって進撃していく。しかし、その軍勢が済水のほとり、平原という地に達したところで韓信は決断を迫られた。

 

 斉がすでに漢に帰順の意を示している、という情報が入ったからだった。

 

 

 酈食其は六十半ばの老齢でいながら、身長は八尺(当時の一尺は約二十三センチなのでおおよそ百八十四センチ)を超える大男であったという。

 老齢、しかも大男というと一般に鈍重な印象を持たれやすいものだが、その外見に反して、彼の動作は常に機敏だった。

 世に出る前の若い頃、彼は何かを思いつくと後先を考えず行動に移すことが多く、故郷の高陽では、なにかと暴力を伴うトラブルを起こすことが多かった。このため地元の県令や父老たちも彼と必要以上に接触することを嫌がり、城門の外に追いやって、そこに立たせて門番とした。

 

 そのような問題児ならぬ問題青年の彼であったが、周囲の者にとって意外なことに、本質的には武を好まず、学問を好んだという。

 嗜好と行動が一致していない酈食其のことを高陽の人々は尊敬せず、陰で「狂生(気違い書生)」と呼んで蔑んだ。

 老年になってからは、まともな儒者らしく温和な表情を保ち続けているが、当時は単なる厄介者として扱われていたようである。

 

 彼は幼年の頃から儒家思想に陶酔し、その世界観の実現を夢見て暮らしてきていた。

 しかし人生の半ばを過ぎても世の中は乱れ続け、儒教世界の実現どころか、その兆候さえも見出せない。酈食其は次第に焦りを感じるようになり、その焦りが彼の行動を過激にした。

 これが市井の者とのトラブルの原因になった。暴力を用いてさえも、自分の思想を広めようとしたのである。

 

 しかしその彼が高陽の門番時代に劉邦と出会い、その軍に従うことになって、ようやくその鋭気は和らげられることになった。劉邦の率いる漢の軍事力をもって儒家思想を天下に広めることが可能になったからである。

 

 儒家の祖たる孔子は、本来武力による覇道政治を否定し、仁・義・礼などの徳行の積み重ねこそが王道だと主張して、その実践を奨励した。そのため酈食其が選んだ軍事力で儒家思想を広めるという行為は、孔子の教えに大きく矛盾している。

 そのことは酈食其自身も感じていたが、孔子の唱えた徳治政治が実現されるためには、過程よりも結果を重視せざるを得なかった。劉邦が天下を治めるべき存在になってから、徳を積み重ねれば良い、と考えたのである。

 

 この当時の儒家の学派間の論争で、人の性は善か悪かというものがあったが、酈食其はこれについて独特の視点を持っていた。

 人は誰しも生まれたときには無教養であり、真っ白な布のようなもので、それが善か悪かは別問題だと考えていたのである。

 

 真っ白な布はどのような色にでも染まり、洗い直せばまた違う色に染め直すことができる。しかし、いくら念を入れて洗っても、再び真っ白な状態に戻すことは不可能に近い。

 だから人は多少なりとも色を持つのが普通で、いつまでたっても純白のままでいることはなにも学んでいないことの証明だと思っている。

 しかしその一方、数々の色に染められ、布が限りなく黒に近いことも彼にとって軽蔑の対象であった。受け入れることは大事だが、ただ環境に影響され、流されるまま生きていると考えるのである。

 

 酈食其にとって理想的な人物は、何度も洗い直した跡の残った布を持つ人物なのであった。

 人の本性が善であろうと悪であろうと関係なく、その人の現在が善か悪であるかを重視したのである。

 

 

 酈食其が見るに、出会った頃の劉邦は、限りなく薄い灰色の布を持っていた。悪を象徴する黒に何度も染められながら、その色を何度も洗い直した痕跡がうかがえる。

 しかしそれでいて善を象徴する明るい色にも未だ染まっていないことも確かで、逆にこれが可能性を期待させた。

 これこそが劉邦なら自分の考え方を受け入れるだろうと感じた所以である。

 

 一方、韓信に初めて出会ったときは、驚きを感じた。

 

 彼の持つ布は、表が黒で、裏が白いのである。

 黒い色は限りなく沢山の色を混ぜ合わせた結果黒くなったらしい。

 白い色はただ単に何もない、ということではなく、何物にも染まろうとしない不安定な自意識の象徴であるように思われた。

 

――こういう男は、生きていくのがつらかろう。

 

 周囲の環境に翻弄され、時には順応し、時には反発しながら、ひたすらに自分自身の求めるものを追おうとする。

 しかし布の裏が白いということは自分自身がなにを求めているのか不明である証拠でもあった。自分で自分を染める、ということが今の時点ではできないでいるらしい。

 

――激しい風雨にさらされながら、……ただ一本倒されずに咲き続ける花のようだ。

 

 本来花は環境に適合して育つものである。しかし韓信はまったく場違いな環境に生まれ、種を飛ばしても子孫を残せない環境に咲き、その存在の無意味さを知りつつも咲き続けようとする花のようであった。

 

――この男には種や花粉を異世界に飛ばすための、鳥や蜂のような存在が必要だ。

 そう思ったのは、風雨の中の一輪の花が、弱々しくも健気で美しいと感じたからである。

――その鳥や蜂のような存在が、わしだ。

 

 酈食其は韓信を見るたびに、そう思うのだった。

 

 

 

 酈食其は劉邦に次のように献策した。

「楚は滎陽を奪いましたが、敖倉を堅守することなく、すぐさま兵を東に振り向けてしまいました。また成皋も楚によって奪われましたが、愚にもつかない兵どもに守備させるばかりで、これを奪い返すのはたやすいと存じます。敖倉の穀物の貯蔵量を考えれば、漢がこれを捨て置くのは重大な過失ではないかと……。成皋を奪い返し、敖倉の穀物を支えとすれば、漢が実力で楚を制圧する状況にあるという威勢を天下に示すことになります」

「なるほど」

 劉邦は同意を示した。確かに敖倉の穀物は欲しい。

 

「北では燕、趙が平定され、残すは斉のみとなっております。斉は楚と国境を接しているので住民は戦乱に馴れ、人を騙したり、変節することになんの抵抗もありません。これは王族の田氏も同様なので、たとえ数十万の兵をもって斉に攻め入ろうとも一年やそこらで撃滅することは不可能でしょう。ここは、私が斉に赴き、漢に味方する利を説いて参りたいと存じます」

 

 酈食其はそう説いたが、劉邦はこれに対してはなかなか同意を示さなかった。

「かの地には韓信がいて、わしはその信に斉を滅ぼせと命令を下してきたばかりだ。お前が使者として行くのであれば、韓信の進軍を止めねばならない。それに……斉の田氏は、田儋、田栄、田横の三兄弟いずれも独立心が強く、一度帰順の意を示したとしてもすぐ裏切るような気がする。禍根を残さないためには一族もろとも滅ぼしてしまうのが最善なように思うが」

「確かに田氏は一筋縄ではいかない血筋でございます。私が使者として説得できたとしても、屈従するのはほんの一時に過ぎません。もし私が失敗したら韓信に命じて撃てばいいでしょう。また、成功すれば田氏には油断が生じます。やはりそこを撃てば……」

 いずれにしても最終的には武力で討伐する、ということであった。

 

 しかしそれでは使者として赴く酈食其の身が非常に危険である。

 劉邦がそれを質すと、酈食其は涼しい顔をして答えた。

「挙動の軽さは私のいちばんの取り柄としているところです。どうかご心配なさらずに」

 

 劉邦はこれを受け、酈食其が使者として斉に赴くことを許した。

 そして韓信にはなにもこのことについて伝えなかったのである。

 

 身軽さが自慢の酈食其は、命を受けるや否や斉へ急行し、韓信の軍より先に到達すると、宰相の田横や斉王田広(田儋の子)を説き伏せて、漢に帰属することをあっさりと約束させてしまった。

 

 七十余城を守る斉の守備兵たちはこれを受けてそれぞれ撤退し、斉王田広は漢と懇親を深めようと日夜酒宴を開き、酈食其を痛飲させてもてなしたのである。

 

 

「酈生が……? それでは兵を引かねばなるまい」

 知らせを受けた韓信は、当然攻撃は中止すべきだと思い、実際に一時進軍を止めようとした。

 

 しかし、それに不満を募らせた幕僚がひとりいる。

「お待ちください」

 と言ってそれを押しとどめたのは、蒯通であった。

 

「蒯先生、喜べ。ひとつ私の仕事が減った。兵を死地に送らなくてすむことを酈生に感謝しなければな」

 韓信は本心からそう言った。戦わずにすますことができれば、そうしたい。ここのところ戦って勝つたびに、自分の立場がどんどん悪くなっていくことを実感しているからだった。

 

 しかし蒯通は韓信が珍しく喜色をあらわしていることを無視して言った。

「軍を止めてはなりません。勅令がございましたか」

「勅令……? いや、それはない……。しかし、私は印綬を持ち、軍の指揮権を一任されている。漢王から斉を討伐せよとの勅令を受けてここまで進軍してきたことは確かだが、その必要がなくなった以上、軍を止める権限は私にある。当然ではないか」

 

 蒯通はさらにそれを無視し、自分の意見を述べ始めた。

「斉の王族の田氏は、常に己の自立心のために背信を繰り返す油断ならぬ一族でございます。田栄はすでに死しておりますが、弟で宰相の田横はまだ健在です。田儋の息子の斉王田広もその血を引継いでいる以上、似たような性格でしょう。斉は武力で討ち、田氏一族はすべて滅ぼすべきです」

 

 韓信は反論しようとしたが、いい文句が思いつかない。斉はかねてより滅ぼすべきだとは韓信自身が思っていたことであり、田一族は確かに味方としては信用できない存在であった。

「……しかし、まさか酈生が勝手にやったことではあるまい。使者として斉に赴いた以上、酈生も漢王より勅命を受けてやったことに違いないのだ。私が勝手にその功績を奪うことがあってはならないだろう」

「先ほども申しましたが、将軍に行軍中止の勅令は出されておりません。と、いうことは斉の武力討伐の勅令は、いま現在も有効なのです。斉を討つのであれば今が絶好の機会でありましょう」

「今が絶好の機会……酈生に口説かれて油断しているうちに討てというのか……。しかし、それでは酈生の身が危ない。彼はまだ斉に滞在中だというではないか。私にはあの老人を見殺しにすることはできない。君は知らないかもしれないが、彼は私にとって……大事な友人の一人なのだ」

「さもありましょう。が、その前に酈生は一介の弁士でございます。そのたかが弁士に過ぎない男が車の横木に身をもたれかけながら舌先三寸で斉の七十余城を降したのですぞ。これをどう思われますか」

 

 お前だって弁士ではないか、と言いかけて韓信はやめた。

 いかにも武人が弁士より格上だと言っているように聞こえるかもしれない、と思ったからである。

 

「私に彼の成功を妬(ねた)めというのか。妬んで田氏もろとも殺せと……。やめてくれ! 私はそんな度量の狭い、安っぽい男ではない」

「将軍は長い年月をかけて諸国を征伐してきましたが、この将軍の功績と酈生の舌は同じ働きをした、ということですぞ。ここで酈生の功を認めるということは、将軍のために死んだ数多くの部下の命が酈生の舌と同じ価値しかない、と認めることになります。それでもいいのですか」

「いや、しかし弁士というものはそのためにいるのだろう。弁士たる者の最大の武器は、数万の兵士と同じ働きをする舌ではないか。私は、時と場合によっては武力より弁士の舌の方が有効であることを知っているし、その意味では、なんら自分に恥じることはない。死んだ者の話を持ち出したりしても、私の心は動かないぞ」

「悲しいかな、将軍は、弁士が一体どのような存在であるか、理解していらっしゃらない」

 蒯通は嘆息するように言った。

 

 韓信は侮辱されたような気がして、面白くない。ぶっきらぼうな態度で蒯通に言い放った。

「そうか。では、弁士たる者がなんであるか、どうか私にわかるように説明していただきたいものだ」

「弁で世の中の趨勢を変えることには、限界があります。変えられたとしてもほんの一時のこと。それはなぜか。人の心はうつろいやすいく、その時々によって状況は推移するからです。弁士はそれに合わせて論じているに過ぎず、本質的に世界を変えることはできません」

「お前だって、弁士ではないか!」

 

 韓信は結局我慢できず、その言葉を発した。

「然り。弁士は皆、自分の口や舌では世界を変えることができないことを自覚して、行動しているのです。酈生も例外ではありません」

「なぜ、そう断言できる?」

「私も弁士のはしくれだからです。それを自覚していない者は、弁士ではありません……。酈生は自分の口では世界を変えることはできないと知りつつ、斉へ乗り込んだ……。彼は、言うなれば死士です! 彼は斉で死ぬつもりです」

「…………」

「将軍が酈生の意志を尊重するなら、この機に軍を進め、斉を討つべきでしょう。そうしなければ、酈生は生き伸び、このたびの成功で褒美をもらえましょうが、いずれ斉は裏切ります。そのかどで、彼は処罰されましょう。本人がそんなことを望んでいるかどうか」

「…………」

 

 韓信は決心がつかず、いらいらとするばかりだった。

 

 いったい漢王はなにを思って酈生が斉へ行くことを許可したのか。

 どうして蒯通はこうも食い下がるのか。

 田氏を生かしておいてよいものか。

 なぜ自分は迷うのか。

 

 いくら考えても納得のいく答えは出ず、いたずらに時間が流れていった。

 

「将軍……」

 ここで蘭が二人の論争に割って入り、どうやら解決への糸口が見えたようであった。

「漢王の意図をお考えになるのが、ここは先決かと……。将軍に討伐の勅令を出したことを漢王がお忘れになったとは、思えません。それでいて酈食其さまを派遣されたのは、やはり将軍に短期間で斉を平定してほしい、という思いの現れではないかと存じます」

 

 韓信はため息をつきながら言った。

「蒯先生のいうことが正しい、というのか。酈生もろとも斉を叩け、と……」

「斉王は酈食其さまの弁に傾聴し、今はその意見に従っているようですが、もし楚の弁士が現れてまったく逆のことを言えば、簡単に態度を豹変させるかもしれません。斉王を生かしておけば、常にそのような危険が生じるのです。蒯通さまが、弁士に国を変えることはできない、と言うのはこのことでございましょう」

「しかし」

「酈食其さまはご老齢に似合わず、俊敏な方。身の危険を感じれば、自分で自分の身を守ろうとするでしょう。それでも身を守れなかった際には、将軍はそれを理由に斉を潰せばよいのです。酈食其さまは、きっとそれを望んでいます」

「ということは……やはり彼は死士だというのか。しかし、なぜそのように命を粗末にする必要があるのか? そんなにまで死にたいものなのか」

「……酈食其さま本人が選んだ道です」

 

 蘭は暗に酈食其は助からない、と言っているようで、韓信も覚悟を決めざるを得なかった。

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