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第 二 部

 

武 将 と 弁 士

 

 

 劉邦率いる漢軍は滎陽を救おうと河南の宛・葉の地に出兵した。

 彭越は楚軍の後背を撹乱せんと彭城の東、下邳を討った。

 黥布はこの時期に正式に漢軍に合流し、劉邦とともに兵を集めた。

 

 しかし滎陽を囲んでいた項羽はこれらの動きを察知すると、まずは東に向かって彭越を討ち、あっという間に敗走させた。

 その帰途で漢軍が成皋(せいこう・地名)にはいったと聞くと、急ぎ滎陽を落城させ、周苛を煮殺し、成皋を包囲したのである。真の意味で「向かうところ敵なし」というべき動きであった。

 

 劉邦はこのとき項羽のことを恐れるあまり、夏侯嬰ただ一人だけを従え、ひそかに成皋を脱出した。

 

「なんとも情けないものだ……嬰、お前と二人で逃避行を決め込むのはこれで二度目だな」

 劉邦の言動には以前の覇気が薄れてきているようで、夏侯嬰にはそれが気になって仕方がない。年を取ったせいもあるのだろうが、やはり滎陽で紀信や周苛を見殺しにしてしまったことが、だいぶこたえているのだろう。

 

「以前は韓信が追いすがる楚兵を撃ち破り、我々を助けてくれました。今度も心配いりません。幸運を期待しましょう」

 夏侯嬰の言葉には劉邦をいたわる気持ちが込められているが、残念ながらまったく根拠がなく、気休め程度でしかない。

「そばに居るのがお前では、幸運を期待するしかないわい」

「! これは、手厳しいおっしゃりようで……。話は変わりますが、大王にはどこに向かわれるおつもりですか」

 

 これを聞き、劉邦の機嫌はさらに悪くなった。

「わしに行くあてなんぞあるものか! それを考えるのはお前の役目だろう」

「私は……しょせん御者でしかありませんので」

「御者というものは、車上の主人にもしものことがあれば、主人になりかわって指揮を執るものだ。お前が御者ではわしはおちおち死んでもいられぬわい」

「はぁ……。では、愚見を申し上げますが、どこかの地で再起をはかるにしても兵がなければなんともなりません。どこかで大々的に募兵でもいたしますか?」

 

 劉邦はそれを聞いてしばらく考え込んだ。

「いまからそんなことをしても間に合わん」

 

 しばらく柄にもない沈思の表情を見せた劉邦は、やがて思いついたように顔を上げながら、言った。

「嬰、北へ向かえ。……趙だ。趙にいる韓信の兵を強奪する!」

「え……?」

「やつはわしの将軍だ。すなわちやつの兵は、わしの兵でもある。……深く考えるな、いいから行け!」

 

 

 韓信の軍は代国の攻略以来、井陘、邯鄲へと次第に南下し、このときは黄河の北のほとりの修武(しゅうぶ)という地に駐屯している。約半年の間に目立った軍事行動がなかったとはいっても、やはりなにもしないでいたわけではなく、諸地方の制圧、鎮撫に奔走していたのである。

 地味な作業であり、それまでの韓信の華々しい活躍とはあまりにも違う。しかも修武は黄河をはさんで滎陽と至近の距離にあることから、ここまで来ていながらなぜ救援に来ないのか、という思いを劉邦以下漢の首脳部が抱いたことは容易に想像できる。

 

――信のやつは、わしを見捨てたのではないか。……思えば張耳を趙王に推挙したのはあいつであった。……信は張耳を傀儡として自立するつもりでは?……いや、それはあり得ん。やつは、そんな男ではない。だが……

 劉邦の思考は縺れた糸のように複雑に絡み合い、確たる答えは見出せない。

 劉邦はこれまで韓信のことを信用してきたつもりであった。

 だが、その信用が裏切られたときのことを想像すれば、とてつもない恐怖感に襲われる。

 

――おそらく対等の条件で戦えば、韓信に勝てる者はいない。黥布や彭越などとは、比べ物にならん。智と勇をあれほど兼ねそろえたやつは、少なくともこの時代にはいないであろう。あの恐ろしい項羽でさえも……敵ではない気がする。

 

 まして自分などが……と思うと劉邦の背筋には冷たい汗が流れた。

「深く考えるな」とは夏侯嬰に対してではなく、自らに発せられた劉邦自身の心の叫びであるかのようであった。

 

 

 修武に仮仕立ての砦を設け、そこで起居していた韓信は、その日、朝起きてみて愕然とした。

 

――印綬がない!

 あわてて枕元の小箱をあさったが、自分の記憶は定かである。昨日の晩、たしかにこの箱に保管して就寝したのだ。誰かが持ち出さない限り、なくなるはずがない。

 念のため、もうひとつの小箱を開けてみた。

――なんということだ! 割り符さえも……。

 

 容易ならざる事態だった。印綬と割り符がないことには、漢王になりかわって兵士に号令を下すことができない。このふたつが手元にないということは、韓信がすでに漢の将軍ではない、ということを意味した。

 

 戦乱の時代といえども、人は能力さえあれば何をやっても構わないというわけではない。それを許せば、天下は際限なく乱れ続け、いつまでたっても統制はとれないのである。認められた者が認められた職権に基づいて行動することを許す、その象徴が印綬と割り符なのである。

 

――しかし、いったいどこの誰が……。

 そう思いつつ室外に出ると、そこにいるはずの衛士の姿もなかった。韓信はことさら自分を偉そうに飾り立てたりしたことはなかったが、それでも将軍ともなれば自分が就寝している間は、兵士が寝ずに番をしているものなのである。

 

 自分が寝ている間に何が起こったのか、想像もできずに広間に向かって歩いていくと、戸口に蘭の後ろ姿が見えた。蘭は戸をわずかに開け、そこから室内をおそるおそるのぞき込む仕草をしている。

 

「蘭、何をしている。実は大変なことが起きた」

 韓信は後ろから声をかけたが、蘭はそれを聞くなり振り返って、韓信に向かって、

――しぃっ。

 と口の前に人差し指を突き立て、大きな声を出すな、と暗に示した。そして室内を指差し、声を出さずに口をぱくぱくとさせながら、身ぶり手振りで懸命に何かを伝えようとしている。しかし、本人の熱心さとは裏腹に、その仕草はどこか愛嬌を含んでいた。

 

「なにをふざけているのだ……中でなにかあったのか。いいからそこをどけ。忙しいんだ」

 

 韓信は戸に手をかけ、一気にそれを引いた。

「いけません、将軍!」

 蘭はついに声を出し、韓信を止めたが、間に合わなかった。

 

 そこにいたのは韓信の印綬と割り符を手に

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した漢王劉邦その人だったのである。

 

「おはよう、信」

「…………」

 韓信は物も言えず、黙ってひれ伏すしかなかった。

 

――こういうことか。どうりで衛士がいなかったわけだ。

 印綬などが紛失したのは、漢の支配を快く思っていなかった趙の住民が、ごく穏便な方法で事態の打開を狙ったことが原因だと思っていた。しかし実際はそうではなく、理由は不明だが、どうやら自分は王によって兵権を剥奪された、ということらしい。

 

 韓信は、自分がなぜこのような立場に立たされているのか理解できなかった。

 戦場では明晰を誇るその頭脳も、この場ではまったく機能しなかったのである。

 

 

「お前は、いったい何をしているのだ」

 劉邦は開口一番、そう韓信に言った。

「何を、と申されますと……?」

「わしがいまこうしてお前の前に立っていられるのは、命をかけてわしを守ろうとした者たちがいたおかげだ。その者たちは、いわばわしの代わりに死んだ。しかし……よくよく考えてみれば、そもそもあの場にお前がいたら、彼らは死なずにすんだのだ。陳余を斬り、趙歇を虜にしたのはすでに半年以上も前の出来事であるというのに、いったいお前はいままで何をしていたのだ、と聞いている」

 

 劉邦の口調は常になく、厳しい。返答次第ではただではすまないだろう。

「滎陽の危急については聞き及んでおりましたが、趙は広大な国土でありますゆえ、鎮撫にも時間がかかり……」

「お前にそんな任務を与えた覚えはない!」

 劉邦はついに怒気を発し、韓信を一喝した。

 

 韓信は頭を地に付け、弁解する。

「……おそれながら、確かに私が大王より与えられた任務は、趙の武力制圧でございます。しかし、趙王を捕らえ、陳余を殺した、それだけで趙の国民が漢の言うことを聞くようになるかといえば、そうではありません。こちらが国の指導者を排除したからには、責任を持ってその後の処理もしなければならないのです。そうでなければ漢はただ諸地方に混乱をもたらすだけの悪辣な存在となりましょう」

 

 韓信のいうことは正論であり、劉邦としてはたとえ内輪話であっても、趙の民衆のことなど放っておけ、とはいえない立場である。内心はどうであれ、もしそのようなことを口走りでもしたら、天下に覇を唱える資格を失うからだ。

 

 これにより対話の主導権は韓信に移った。

「いま私は趙の国境の南の端までたどり着き、この修武に駐屯しております。確かにここから滎陽までは、黄河を挟むのみでごくわずかの距離に過ぎず、趙の内政状況など捨て置き、大王のもとへ馳せようと思えば、そうできたでしょう。しかしあえてそれをしなかったのは、私が趙を離れるのをいいことに、楚が介入することを心配したからです」

 

 これも事実であった。

 しかし事実のすべて、ではない。

 韓信が積極的な軍事行動に出なかったのは、確かに彼自身の鋭気の喪失によるものが大きい。

 それはカムジンを失ったことから始まる軍事に対する倦怠感、目的意識の喪失、さらには以前より存在した漢王劉邦との信頼関係への疑惑……などが重なり合った結果によるものだろう。

 韓信は趙国内の鎮撫の必要性にかこつけて、滎陽の危急をやり過ごしたのである。

 

 劉邦は、そのすべてを見通したわけではないが、そこを見事に突いた。

「お前のいうことはいちいち正しいが、楚の主力はわしを狙っているわけだし、趙の国難に介入する楚軍の勢力などたかが知れたものだろう。それに趙国内の鎮撫活動についても、なにもお前が直々に行う必要はないのだ。すべて張耳に任せておけばよい。そのための趙王であろう」

「はぁ……しかし……」

「それとも趙の民衆を手なずけて、国力を蓄えて自分の勢力とし、わしが楚に敗れて敗走すると、それを大義名分として楚を討つ……。そして項羽を屠ったのち、返す刀で漢も討つつもりか。お前ならそれもできないことはあるまい」

「……お戯れを……!」

 

 韓信は比較的感情を表に現さない男であったが、この時は額に脂汗が浮かんだ。

 劉邦はそんな韓信の顔をまじまじと観察し、韓信が真剣に受け止めていることを確認すると、自分が発した言葉に自分で戦慄した。

 いざ韓信が劉邦のいう通りに行動すれば、劉邦にはそれを防ぎようがなかったのである。

 

「冗談はほどほどにしておこう」

 決定的な破局は避けねばならなかった。韓信は味方にしておくのに限る。不満を抱かせて楚に寝返りでもされれば、漢の滅亡は免れない。

 劉邦は、不用意な言動は慎まねばならなかった。

 

「趙でのお前の逡巡は過ぎたことで、それを責めても仕方のないことだ。……あらためて言うが、いつまでも趙に留まっておらず、とっとと斉に行くのだ。そして斉を討ち滅ぼし、北の大地を残さず漢の領土とせよ」

「……仰せの通りに……しかし、印綬がなくては兵を指揮することができません。どうかそれを……お返しください」

「うむ。印綬はわしの手にある。しかしわしはこれをお前に返す前に、権利をひとつ行使するつもりだ。すなわち、いまお前の手元にある兵を三つにわけ、ひとつを趙の防衛に回し、ひとつはお前の手に残そう。もうひとつはわしが統率し、連れて帰る」

 

 これにより韓信の兵は三分の一となったのである。それでも韓信は劉邦に威圧を感じ、従うしかなかった。

「お許しを得て、差し出口を挟みたく存じますが……よろしいでしょうか」

 

 このとき末席から発言したのが、蘭であった。劉邦は興味深くそれを眺め、発言を許した。

「魏豹の娘、魏蘭であったな。信のもとで重用されていると聞いている。よろしい、意見を申せ」

「ありがとうございます。いま、大王は将軍に三分の一の兵をもって斉を討てと仰せになりましたが、斉は趙より強大にして、七十余城を保有する大国。知勇を謳われた将軍といえども、とてもそのような寡兵では攻略できません。そこでご提案がございますのですが……」

「申せ」

「大王が将軍の兵をお取りあげになられますのは、ここにおらせます韓信将軍が私兵集団をもつことを憂慮しているからだと、私は考えます。本来将軍にはそのような意志はないのですが、大王に対してそれを証明する術をもたず、こちらも苦慮しておられます。これを解決するには大王の信任厚い方をこちらに副将として派遣していただき、もって将軍の行動を監視していただくのが最上かと存じます」

「ほ! 当事者二人を前にして、ぬけぬけという女だ。しかし、その意見には聞くべき価値がある。いいだろう、曹参と灌嬰の二人を副将として送る。信よ、この二名の将軍が到着次第、斉へ向けての征旅を開始せよ」

「は……」

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「不満か。それとも副将は盧綰や周勃の方が良いか」

 

 盧綰や周勃はより劉邦の側に近い人物で、彼らを迎え入れることは監視の度合いを強めることとなる。自分に後ろめたいことが一切ない、と言い切れればそれでも構わないのだが……。

 

「いえ、そのようなことは……。勅命、謹んで承ります」

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