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第 一 部

 

無 聊

 

 陳勝は各地に制圧を目的とした軍を派遣し、それぞれ成功したり、失敗したりしていた。軍を派遣して制圧したのはいいものの、派遣した将軍が自立して王となってしまうこともあったが、離反されるよりはいいと考えれば着実に勢力をのばしつつあった、と言っていいだろう。

 

 その勢力が頂点に達したのは、陳勝が派遣した将軍周章がついに函谷関(かんこくかん)を破った時である。

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 険しい山々に囲まれ、東に函谷関、西に隴(ろう)関、北に簫(しょう)関、南に武関という四つの関所に守られた天然の要害の地を古来から「関中」という。現在の陝西省渭水盆地がこれにあたり、秦の国都、咸陽もここに位置していた。

 

 秦の建国以来、函谷関を始めとする関所が破られた例はなく、そのため周章軍の来襲は、秦の宮廷を混乱に陥れた。これは二世皇帝胡亥の耳にも入り、すでに政務に興味を示さなくなっていた彼が、焦って臣下に対処を促したくらいである。

 

 これを由来として「周章」という語は「慌てる」という意味になった。「狼狽」という仮想の動物を意とする語を付け加えて、その意を強調する。

 

 

 しかし結果から言うと、周章軍は撃退された。秦に新たな将軍が任命されたからである。その将軍は、もともと少府と呼ばれる徴税官の職に就いていた男で、名を章邯(しょうかん)といった。

 

 章邯は、麗山で始皇帝の陵墓を造営している囚人に大赦令を出させ、これを軍として組織することを提案した。むろん章邯のような、たかだか徴税官ごときが皇帝に直接ものを言える立場はなく、献策は宦官の趙高を通して行われたのである。

 

 章邯の意見は聞くべき価値があったが、完全とはいえない。兵は組織できても、それを率いる将がいないのである。李信や王翦などは過去の人であり、人事に困った皇帝は趙高に判断をゆだねた。

 

 趙高はいやらしい男であった。

 正確には宦官なので男だともいえない。

 

 このときの章邯のように、非常時であるのを理由に、皇帝に献策などを行う者が現れることを趙高は嫌った。それによって自分より政治的に優位な立場に章邯が立つことを憂慮した趙高は、章邯自身を将軍として兵を統御させることを説き、これを認めさせることに成功したのだったつまり、戦乱の中で章邯が敗死することを希望したのである。

 

 そんな趙高の思惑とは裏腹に、将軍に任じられた章邯は、よくやった。このとき麗山の労役から解放され、章邯の指揮下に入った囚人の数は二十余万と言われているが、彼はよくこれを統御し、周章軍を関の外へ追い出すことに成功した。さらに副将に司馬欣(しばきん)、董翳(とうえい)を得た章邯は関外へ撃って出て、周章を敗死させることになる。

 

 陳勝の勢力はこれを機に、かげりを見せ始めた。

 

 

 

 故郷の淮陰を守ったという高揚感は、韓信にはない。あったのは後悔の念である。

 求めに応じたとはいえ、自分がとった行動は、あと先のことを考えない軽はずみなもののように思われ、彼としては自分の馬鹿さ加減に吐き気がしてくるのだった。

 

 雍昌を撃退することは陳勝を敵に回すことである。そんなことがわからない自分ではなかったが、あの時は心ならずも血が騒ぎ、戦ってみたいという誘惑に勝つことができなかった。

 雍昌を仕留めた時のあの感覚……それは、弓の練習で的の中心に矢を当てた時の感覚に似ており、鳥肌の立つような快感だった。

 

――先生、私は酷薄な人間なのでしょうか……もし、先生が私をそのように育てたのだとしたら、恨み申し上げます。

 

――いや、そんなはずはない……これはきっと私が生まれ持った性格なのでしょう。だとすれば、誰を恨みようもない……。

 

――もはや先生はこの世にいない。私は自分で自分を育てなければならないのだ。

 

 韓信の憂鬱は自分の行動が淮陰を危機に陥れたのではないか、という不安から端を発している。しかし、そんな韓信の思いとはよそに、その後の淮陰は大きな戦渦に巻き込まれることはなかった。陳勝その人に危機が迫っていたからである。

 きっかけは陳勝軍に起こった内訌であった。

 

 陳勝とともに兵を挙げた呉広はこのとき滎陽(けいよう)を囲んでいたが、なかなかこれを抜くことができず、攻めあぐねていた。呉広の配下の兵たちは上官の用兵に疑念を持つようになり、謀議の結果、反乱を起こし呉広を殺害してしまった。

 

 これを受けて陳勝はかわりの指揮官を立てて滎陽を攻めさせたが、このとき現れたのが秦の将軍・章邯である。

 章邯によって陳勝軍はさんざんに撃ち破られ、ついには陳勝自身も危機に陥り、逃避行にはいった。しかし、そのさなか、陳勝は自分の馬車を操縦する御者に裏切られ、殺されてしまう。

 

 史上初の農民反乱である陳勝呉広の乱は、事実上、ここに終結した。

 

 

 陳勝の死を韓信は知っていたわけではなかった。そもそも韓信は、きわめて局地的ながらも、陳勝軍の一派を撃破してしまっているので、陳勝のもとに馳せ参じるわけにはいかなかった。

 

 また胡散臭い自称王たちがはびこる魏や趙、あるいは斉などのために戦う義理もなく、自然、選ばざるを得なかったのが、項梁の軍である。このとき項梁軍は兵数七、八万の勢力となり、陣容からいっても陳勝なき後、楚の名を継ぐにふさわしいものであった。

 

 決して本意ではなかったが、容儀を正し、それでいて卑屈になり過ぎないよう、威風堂々とした態度で項梁のもとへ馳せ参じた韓信であったが、彼のために用意されたのは、一兵卒の位でしかなかった。

 

――一兵も引き連れていないのでは、仕方のないことか。

 納得はしても、残念な気持ちは抑えられない。

 

――兵とは、戦乱のために存在するものだ。私は、戦乱を終わらせるために身を投じたのだが……兵卒では戦乱に決着をつけることはできない。誰か、早く私の本質を見抜け。

 

 自分の考え方が途方もなく常識を外れていることはわかっている。誰が自分をひと目見ただけでその才能を見出すことができよう。自分にできることは、せいぜい戦場でできるだけ多くの敵兵を撃ち殺すことしかないように思われた。

 

 しかし、それさえも叶わなかった。韓信が項梁軍に身を投じて最初に課せられた任務は、秦嘉(しんか)という将軍に擁立され、陳勝の跡をついで張楚王となった景駒(けいく)を討つことだった。

 

――秦を討つのではないのか。相手は楚人同士、友軍ではないか。

 韓信は思ったものの、彼にできることは、何もなかった。結局韓信は一兵卒として戦場へ赴き、一概に敵兵とはいえない敵を何人か撃ち殺した。

 

 この時の韓信の働きぶりは、良いとも悪いともいえない。

 執拗に抵抗する敵をその長剣で斬り殺したと思えば、形勢不利と見て逃げ出した者は追いかけもしなかった。懸命にやっていると見せかけ、手を抜けるところは抜いた、というところだろう。

 しかし、戦場という死地のなかで、自然にそんな芸当ができるということこそが、韓信という男の凄みであっただろう。凡人であれば、自分が生き残るために必死にならざるを得ない。

 

 結局韓信が本気を出すこともなく、戦いは終結した。結果は圧倒的な項梁軍の勝利である。

 

「陳王(陳勝のこと)は敗戦し、生死のほどもわからないが、これをいいことに秦嘉などが景駒を王としてたてるなどは大逆無道というしかない」

 

 張楚を討つにあたって項梁が残した言葉である。

 

――詭弁だ。

と韓信は思った。

 

 もし陳勝の死が明らかであったとしても、項梁は景駒が王を称するのを許さなかっただろう。景駒の兵をあわせ、自分が楚の頭領となる都合の良い理由付けに他ならない。

 韓信は着任早々、上官に不信感を抱いた。

 

 

 韓信が次に命じられたのは、薛(せつ)へ向けての遠征軍に加わることであった。

 その目的は、敗軍の将の誅罰であった。

 

――また、味方を討つのか。いったい何なんだ?

 この時の敗軍の将は、名を朱雞石(しゅけいせき)といい、章邯が栗(りつ・地名)に現れたことで、項梁の命にしたがってこれと戦ったが、敗れたのだという。同僚の将、余樊君は戦死していた。敗れただけでも罪なのに、同僚が戦死したなかで逃げ延びて生き残ったことは充分に誅罰の対象となるのだった。

 

 章邯の噂は韓信の耳にも入ってきている。

 

――章邯は当代随一の将軍だと聞く。私の見る限り、とても項梁などが敵う相手ではない。まして部下の朱雞石に敵うはずがあろうか。そもそもそんな相手には全軍で当たるべきなのに、兵力を細切れにして当たらせたのは、項梁の指揮のまずさだろう。

 

 このとき韓信は罪を得て死ぬべきなのは項梁だ、とまで思った。しかし、思いと行動は一致せず、実際に行ったのは味方の兵を殺して回ることであった。

 

 

 韓信は自分が何をしているのか、よくわからなくなった。

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