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第 一 部

 

咸 陽 落 城( 続 き )

 

 

 元来がけちな盗賊上がりの劉邦は、自らに確固とした信念や政略があったわけではない。劉邦にあったのは、人の能力を直感的に見極め、それを適所に配置する能力だった。貴族とは違い、市井にもまれて暮らしてきた者にしかない能力だと言える。

 そして任せたからには、徹底的に任せた。そうすれば、彼らが勝手に政略などを決めてくれる。

 

 しかし、劉邦は関中の父老連中を集めた際に、珍しく自らの方針を自分で決めて発表したことがある。

「秦の法は厳しく、父老には過酷だったことこの上なかっただろう。わしもつらかった。よって以後、法は三章だけとする。人を殺した者は死刑、人を傷つけた者、また人の者を盗んだ者はそれ相応の罪に処す。その他の秦の法は撤廃じゃ」

 

 この布告が広まり、秦人たちはおおいに喜び、劉邦を歓待しようと肉や酒をこぞって持ち寄ったが、劉邦はこれを断り、

「いやいや、軍糧が余っているわけではないが、みなさんに負担を強いるわけにはいかない」

と述べたという。

 単に人気取りをしているようにも見えるが、この時代の豪傑たちの中には、この程度の人気取りをする者もいなかったのである。

 

 

 かくて秦人たちは劉邦の人柄に惚れ込み、関中王の座が劉邦以外の者の手に渡ることを心配し始めた。

 劉邦自身にもそれがわかる。

――子房は、関中は一時項羽に明け渡さなければならない、と言ったが、それでは民衆は浮かばれん。あの男なら、この地を民衆もろとも穴埋めにしてしまいかねない。……わしは項羽と戦ってでもここを堅守するべきではないのか。

 

 柄にもない使命感を感じて、考え込む劉邦に幕僚でもない男がひとつの提言をした。

「函谷関を閉ざして、項羽の軍が通れないように守備を固めればよいではありませんか」

 

――そうか! なぜ今まで気付かなかったのか?

 

 民衆の行く末を思うあまり、項羽と戦っては勝てないことを失念してしまった劉邦は、この提言をもっともだと思い込み、函谷関を閉ざしてしまった。

 

 

 安陽で宋義を討ち、鉅鹿で趙を救い、殷墟で章邯を降伏させ、新安で二十万の秦兵を穴埋めにして、ようやく函谷関にたどり着いた項羽軍が目にしたものは、関門に林立する劉邦軍の旗印と、侵入を拒むよう配置された、無数の守備兵たちだった。

 

 入ることができない項羽は、怒りを抑えることができない。すでに咸陽は劉邦によって平定された、と聞いたときにはさらに怒り、

「撃ち破れ。踏みつぶしてしまうのだ」

と、黥布をけしかけて関を実力で突破してしまった。

 

 

――項羽は沛公のことなど、友軍だとも思っていない。自分のために道を開けてくれる存在だとも思っているのだろう。しかし沛公がいつまでそんな地位に甘んじるか……

 韓信は、新安で二十万の秦兵を穴埋めにした項羽を信用できなかったばかりか、顔を見るのも拒むほど嫌った。

 

 黥布などは感情のない、殺人兵器のように見える。

 鍾離眛には、裏切られたという思いが強かった。

 

 例の穴埋め作戦の一件以来、韓信と鍾離眛の関係は思わしくない。秦兵を穴埋めにするのに鍾離眛が積極的だったことを韓信が責めると、鍾離眛は韓信が項羽の作戦行動になんの寄与もしていないことを責めるのである。

 

「眛……。君と私とでは考え方が違うようだ。しかしここで袂を分かったとしたら、我々はお互いに敵になるということなのだろうか。君と私は、昔からの仲だ。できれば殺し合うような関係に陥ることは、避けたい。何とかならぬものか」

 

 韓信の問いに対して、鍾離眛は興味がなさそうな態度で答えた。

「信、お前と私とでは、幼少の頃から考え方が違った。今に始まったことではない。それに……以前にお前は言ったはずだ。敵同士になったときには、ためらわずに斬る、と。あれは嘘だったとでも言うのか? まあ、もしお前がそれを避けたいと言うのであれば、お前自身が考えを正せばよい」

 

「正す? 正すとはどういうことだ。私の考え方が間違っていると言うのか。間違っているのは君の方だ。二十万もの士卒を穴埋めにする行為をいったい誰が正しいと言えるのか! しかも君は喜んでそれをやったのだ!」

 

 韓信が語気を荒げても鍾離眛は動じる様子を見せない。他ならぬ項羽から寵愛を受けている、という自信のなせる業であった。

 

「今さら言うまでもないことだが、戦争に犠牲が生じるのは仕方のないことだ。いずれ天下が定まれば、私のしたことは正しいと評されるだろう。お前はそうやって私や上将軍のことを批判ばかりしているが、なんのことがあろう。私はまったく気にならない。お前は口ばかりで結局は何もできない男だからな!」

 

 韓信はこれを聞き、心底落胆した。あの幼き日、母をともに弔った日の眛はどこに行ってしまったのか。

「眛、君は変わったな。私の知っている眛は、正

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義感が旺盛で、長いものに巻かれて生きるような男ではなかった。私が見るに、君の変わりようは考え方だけではない。……眛、君自身は気付かないだろうが……今の貴様の目はひどく濁っているぞ!」

 

 韓信はもはや関係は修復不可能と悟り、立ち去った。あとに残された鍾離眛は、たいして気にも留めない素振りをみせた。

 

 しかし、陣中に戻ると急に思いついたように配下の者を呼び止め、

「おい、お前。私の目は以前と同じように黒いか?」

と確認したという。

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