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第 二 部

 

西 魏 王 の 娘( 続 き )

 

 

 自らも屋敷の奥へ退き戻ろうとする韓信を、解放された魏蘭は呼び止めた。

「将軍。お話の続きを……私は、魏を討ちたいのです。その心に偽りはございません」

「もういい。君は自由の身だとは言えないが、大切な人質だ。もう殺そうとしたりはしないから安心しろ。宿舎は今日の夜までには用意させる」

 

 韓信は魏蘭を顧みようとはしなかった。しかし魏蘭はなおも食い下がる。

「将軍、せめてお話を。言い方を変えますから。私は魏豹を討ちたいのです」

「……! 君たち親子は、そういう仲か。いったい何があったというのか……いやいや、聞くまい。それは君の家庭内の問題だ。個人的な怨恨を持ち込むと全体の作戦行動に支障が出る。聞かないでおこう」

「将軍のお心の中だけにでも……たとえ思いが達せられないとしても、誰かに聞いてもらいたいのです」

 

 思ったよりしつこい女だ、と感じて振り返った韓信は、魏蘭がうっすらと涙を浮かべていることに驚き、結局室内に入れてしまった。

 

 

「最初に言っておくが」

 韓信はいつも以上に威厳を保とうと努力している。籠絡されまいとしているのかもしれないし、女の前で単に格好をつけているだけなのかは自分にもよくわからなかった。

「誰が誰のことを愛し、捨てられた者がどうした、などという話なら、よそでやってくれ。私はそのような男女の愛憎劇のような話題は好まない」

 

 魏蘭は室内に足を踏み入れると涙に濡れた頬を手で拭い、居ずまいをただして席に座った。そうすると、すでにもとの凛とした表情に戻るのである。

――変わった女だ。やはり私は籠絡されるのではないか。

 

 韓信は警戒を解かず、緊張した面持ちで魏蘭と面した。その様子を端から見ると、世慣れしていない若者が初めて女性と二人きりになったときと変わらないように見える。

 

「ご安心ください。話はごく政治的なものです。……要点から申しませば、私は魏豹の実の娘ではないのです」

「ほう、養女か? では君はいったい誰の娘か?」

「魏豹の従兄、魏咎の娘です」

 

 韓信は心ならずも、興味を覚えた。体が前のめりになり、膝を乗り出した。

 しかし、ふと我に帰ると、そんな自分に嫌気がさす。あわてて姿勢をもとに戻し、あえて仏頂面をしてみせた。

「詳しく聞こう」

 

 魏蘭は話し始めた。

「私には二人の兄がおりました。上の兄は魏賈(ぎか)、下の兄は魏成(ぎせい)といい、私を含め三人とも正室の子です。父は……魏咎は、臨済が章邯によって包囲される運命にあることを予期し、ひそかに私たち三人を魏豹のもとに託したのです。しかし魏豹はちょうど斉王田儋が救援に駆けつけてきたことを知り、賈と成の二人を斉軍に編入させてしまいました」

「君は魏豹のもとに残ったのか?」

 

 蘭の表情にうっすらと苦渋の色が浮かぶ。

――陰がある。事実を話しているように見えるが……。

 

 韓信はまだ半信半疑である。

「私は女でしたから……。生き残ったとしてもさして自分の将来の障害とはならないと思ったのでしょう。魏豹は王になることを欲していました。王になるためには、魏咎はおろか、その二人の息子も邪魔だったのです」

「……そして二人の息子は、狙いどおり章邯によって滅ぼされた。田儋とともに……というわけか?」

「その通りです。その間に魏豹は私を連れて臨済を脱出し、楚に逃れました。いっぽう従弟の魏豹の裏切りを知り、同時に二人の息子を失った父は、そのことに落胆して焼身自殺したのです」

 

 魏豹は自身が生き延びるための努力を惜しまない男だった。しかし、それだけでは悪人であるとは言いきれない。およそ人間というものは本能的に生に執着するもので、それは自分も同じだからである。

 それに反して、目的の達成のために簡単に死んでみせる烈士の部類が賞賛されるのは、彼らが人間の本能を超越していると見えるからであろう。少なくとも韓信はそう思っていた。

 

 しかし生き延びるだけが目的ならば、魏豹は王位など求めるべきではなく、市井に隠れて平穏に暮らしていればいいだけの話であった。魏豹に何らかの形で関わった者は、野望に付き合わされたあげく、魏につき、楚につき、漢につき、そして今は漢に背いてまた楚の側に立っているのである。

 運命を翻弄されるというのはこのようなことをいうのだろう。

 

「ある夜、私は寝所を襲われました」

「へえ? 誰に」

 話の内容が急に変わったので、韓信の反応も少々間の抜けたものになった。

 

「必死で抵抗して事なきを得たのですが……暗がりで誰かはよくわからなかったものの、十中八九あれは魏豹だったと思います。私が男装して鎧や兜を付けたりしているのも実はこれがきっかけです。それ以来魏豹はあてつけのように人前で私のことを男まさりだと言いふらすようになりました」

 

 韓信はため息をついた。

――やはり、個人的怨恨が……しかし、無理もないではないか。

 

 そう考え、やがてさとすように意見を述べた。

「決めた。……魏豹には生き続けてもらう。いま酈生が行って説得を試みているが、それが成功して戻ってきた暁には、君との一件を公にし、恥をさらしながら人生を送ってもらうこととしよう。それがいい」

 

 魏蘭はしかし納得がいかないようであった。

 

「……私は殺したいほど憎いのですが」

「いや。どんな事情があれ、女である君に人殺しの感覚を味わわせたくない」

「……でも、魏豹が説得に応じるとは思えません」

「そのときは私が出征して、生け捕りにでもするさ」

 

 そのとき魏蘭の目の鋭さが若干やわらいだように見えた。もともと表情の変化が少ない女性だったので、韓信にはそれだけでも微笑したように見えたのである。

 韓信は多少、いい気になった。

「さて、私は君のことをさっきから君、君と呼んでばかりいる。小蘭とでも呼べばいいか? それとも蘭姫とでも呼ぶべきか」

 

 小蘭とは日本的な表現をすれば「蘭ちゃん」と呼ぶのに似ている。韓信のこの問いに魏蘭のやわらいだ表情は影を潜め、もとのきりりとしたものに戻った。

「蘭で結構です」

 

 これを聞いた韓信は調子に乗りすぎたと思い、市井の若者と同じように女性の扱いに関して後悔し、反省したという。

 

 

「子房よ、やはり滎陽以東は放棄すべきか。魏豹が背いてわしにはよくわかった。楚の項羽を警戒しながら中原を支配するなど、現状ではとても無理だ。誰かおらぬか? わしのかわりに戦ってくれる者は?」

 劉邦は弱音を吐いた。もうやめたい、と言うのである。相談を受けた張良は劉邦のそんな気持ちを知りながら、あえて淡々と作戦について語るのであった。

 

「九江王黥布の動きが、近ごろ目立ちませんな。斉の田栄を討伐した際にも同行しておりませんし、我々が彭城を陥した際にも救援に来ませんでした。先日の京・索での会戦の際も先鋒を務めていたのは鍾離眛で、彼は参戦しておりません。これは、項王と黥布の間に隙が生じたということでしょう」

 

 劉邦は憮然とした。

「いったい、なんの話だ」

 

 張良は構わずに続ける。

「彭越を覚えておられますか」

「魏の宰相だ。かつてわしが任じたのだから忘れるはずがない。しかし、王の魏豹が背いているというのに、あの男はまるで顔を見せないし、弁明もしようとしない。まったく……どいつもこいつも逆賊ばかりだ」

 

 彭越は鉅野(きょや・地名)の漁師上がりの男で、田栄が楚と争った際に将軍として斉の側に立って戦っている。その後、漢が彭城を攻略した際にこれと合流し、劉邦から旧魏の領地を自由に攻略してもよいという許可を得た。そこで魏の宰相の位を得たのである。

「急ぎこの両人に使者を遣わせ、味方としましょう。黥布は罪人あがりで楚の猛将、彭越は一匹狼のような男でどちらも全幅の信頼はおけませんが、敵の敵は味方、という言葉もあります」

「心もとないな。彼らが楚に背いて漢に味方するとしても、最終的に目指すものは、自立であろう。それならば魏豹や陳余などを味方にしているのと変わらない」

「確かに。しかし、我が軍には韓信がいます。彼に命じて北の地を制圧させるのがよろしいでしょう。大事を託して担当させるに足る将は漢軍では彼一人かと……。魏豹は背信したのですから、その領地は取りあげ、彼に捨て与えてしまうのが得策かと思われます」

 

 劉邦には名案であるかのように思えた。しかし、これは韓信を別働隊の将とすることである。漢軍随一の将軍を本隊から切り離して、誰が本隊を守るのか?

「本隊は、当然ながら楚の項王と常に相対します。厳しいことですが、それは漢王ご自身に指揮を執ってもらわなければなりません」

 

 劉邦は心底辟易した。

「……子房、わしは、もういやだ。韓信でさえ項羽には勝てるかどうかわからんのだ。それなのにこのわしが指揮を執って勝てるはずがない」

 

 これに対して張良は声を抑え、しかし断固として言った。

「お聞きください……もし韓信が本隊の指揮官として楚と戦い、項王を討ち殺したとしたら……おそれながら天下を統一するのは大王、あなたではなく韓信でしょう。そうなったらいずれ大王は韓信と戦わなければならなくなる……韓信と戦って、勝てますか?」

 

 劉邦は張良の話の内容に悪寒を覚えた。

「……いや、とても……」

 

 

 

「どうでしたか?」

 韓信は戻ってきた酈食其を呼び止め、尋ねた。

「どうもこうもない。魏豹の分からず屋め……。魏豹が背いたのは、他ならぬ自分自身の野心のためだ。それをあの男……漢王の行儀の悪さのせいにしおった。気取ったことを申しておったわい」

「魏豹は、なんと?」

「人間の一生は白馬が壁の隙間を通り抜けるほどの短さだと……よくわからんが、だからやりたいことをやるという意味だろう。とにかく漢王は上下の礼節をわきまえず、諸侯と奴隷の区別もないから二度と顔を合わせるのはごめんだ、と申しておった。いずれにしても説得は失敗、わしの一万戸の領地の話もなくなった。将軍、やはり君の出番だ」

「それはそれは……ところで酈生、魏の大将はたしか……周叔(しゅうしゅく)という老将だったと思いましたが。彼が今回も指揮を執るのでしょうか?」

 

 韓信の問いに酈生は答えた。

「いや、周叔は老齢で体の自由が利かない。今回は栢直(はくちょく)であろう」

「ならば話は早い。私が言うのも何だが、彼はほんの小僧っ子に過ぎない。騙すのは、簡単です」

 

 韓信は魏蘭のことで頭を悩ましていたが、やはり軍事のことを忘れていたわけではなかった。あらかじめ彼は説得に赴く酈生に、魏軍の内偵を依頼していたのである。

 

 かくて韓信に魏豹討伐の命が下された。紀元前二〇五年八月のことである。

 

 

 

「いま将軍に私が申すべきは、お悔やみ申し上げます、といったところでしょう。さりながら同時にお慶び申し上げます、とも言わせていただきます」

 

 蒯通の弁舌は、韓信には謎掛けのようでよくわからない。韓信はこのときもいったい彼がなにを言おうとしているのかがわからず、戦闘前の忙しいさなかということもあって、いらいらする気持ちを抑えられなかった。

「蒯先生。先生のような縦横家はそのような論調で相手を手玉に取るのだろうが、私に対する時はもっと単刀直入に物事を述べてほしい。先生はいったいなにを私に言いたいのか」

 

 蒯通は韓信に対して再拝し、滔々と意見を述べ始める。

「将軍は、天下を統べるお力をお持ちです。それでありながらこのたびも漢王の手駒となりおおせ、命じられるままに動いておられます。これを私は、お悔やみ申す、と言っているのです」

「なにを言う。私は漢王麾下の将軍である。先生の言う手駒という表現にはいい気はしないが、実際はその通りだ。臣下が主君の命に従うのは当然であろう」

 

 韓信はどなりつけたい衝動に駆られたが、蒯通が自分を高く評価して物を言っているのがわかったので、なんとか我慢している。

 

「狩人は、野の獣を取り尽くすと、猟犬を煮殺すものです。どうか深くご考慮を」

「……狩人が漢王で、猟犬が私だと言いたいのか。なんという不遜なことを。まあいい、考えておこう。それでどういうわけで今度はお慶び申し上げます、なのか?」

「将軍は、魏の公女を手中に収められました。魏豹を討ち、かの公女を前面に押し立てれば、将軍が魏王を称することも不可能ではありません。そのためお慶び申し上げます、といったのでございます」

 

 韓信は苦虫を潰すような顔をした。

「手中に収めるなどと……嫌な言い方をする。私と魏蘭とはそのような関係ではない。それに私には彼女を政争にまきこむつもりはこれっぽっちもないのだ」

「ほう、意外でしたな。かの蘭という娘は器量も常人以上、将軍にお似合いだと思ったのですが……将軍にはあまりお気に召しませんでしたか」

 

 韓信は体温が上昇するのを感じた。蒯通が指摘しなかったから不明だが、もしかしたら赤面していたかもしれない。

「縦横家というものは、そうやって女性の外見にも論評を下すものなのか。しかし私の好みは、……もう少しふくよかな女性だ。蘭は確かに美人ではあるが、私の好みとは……」

 そのとき後方に当の魏蘭の姿が見えた。

 その姿は相変わらず軍装を施したままである。結局韓信は魏豹を討つにあたって蘭にその様子を前線で見せることにしたのだった。

 

「失礼します。将軍、魏の公女を得たことは、この上もない機会ですぞ。身をたてるには何ごとにも機会が大事です。機会、機会! よくお考えください」

 

 そう言って蒯通はその場を立ち去った。

 蒯通は明らかに韓信を使嗾し、煽動している。韓信は自分の運命というものを考えずにはいられなかったが、深く思考したところで答えが見つかるものでもない。

 

 しかし、劉邦に背いて自立する、というのはどう考えても自分らしい生き様だとは思えなかった。

 

 

 

 

 このとき韓信は任じられて左丞相となり、軍の管理などにおいてほぼ自由な裁量を与えられた。

 丞相の権限については諸説あるが、実質的な総理大臣というのが一般的な見方である。また左丞相もあれば右丞相もあり、どちらかが上位に立つのだが、これは王朝によって異なるようである。この時期の漢の場合、内政の長として蕭何が存在しているので、韓信が左丞相ならば、蕭何が右丞相であり、蕭何の方が上位に立ったと想像される。おそらく韓信は征服地の占領政策などを副首相のような立場で一任されたのだろう。

 

 このとき韓信は気が進まなかったものの、蘭を中軍に置いた。

「蘭、常に私の見えるところにいるのだ。戦闘中は馬が興奮するかもしれないから、気をつけるのだぞ。最低でも、カムジンより前には出るな」

 蘭は緊張しているらしく、韓信の言葉にこくりと頷いてみせただけであった。

 

 魏軍は函谷関の近く、黄河の北岸の蒲坂に大軍を集め、漢軍は対岸の臨晋に陣を取った。

「川を前に陣取ることは兵書の通りで魏豹はそれを実行している。しかし、敵が渡河してこない限り恐れることはない。こちらも川を前に陣取っているからだ。どういう形でもいい、渡河して敵陣に飛び込んだ軍の方が勝つ」

 

 そこで韓信はあからさまに川岸に船を連ねて、あたかも大軍が渡河を試みているように魏軍に見せかけた。

 船は弓矢の射程距離ぎりぎりのところで進んでは退き、また進んでは退き、を繰り返す。それは魏軍を挑発しているかのようであり、逆に攻めあぐねているかのようにも見えた。

 

「韓信は漢軍随一の将だという話であるが、噂ほどではないな!」

 対岸の魏豹は周囲の者にそう話し、まともに迎撃する必要はない、と判断を下した。このままにらみ合いが続き、兵糧が先に尽きた方が撤退すると考えたのである。

 魏豹はあらかじめこうなるであろうことを予測し、根拠地である平陽からの補給路を充実させておいたのである。

 

「将軍……大丈夫なのですか? 戦況が膠着状態になっていることが、私にもわかるくらいです。このままで魏豹を捕らえることが可能なのでしょうか?」

 それまでおとなしくしていた蘭が船上で韓信に問いかけた。滞陣四日めのことである。

「心配するな。布石は打ってある。明日の昼前には渡河の機会が訪れるはずだ。それより蘭、カムジンの様子が変だ。見てやってくれないか」

 カムジンは騎馬戦では尋常でない能力を示すが、船に乗ったのはこれが初めてだった。川の流れは緩やかだが、彼はそれにも耐えられず、船酔いの症状を示していたのである。

「カムジン、大丈夫? ……ふふ、勇士だと聞いていたけれど、可愛いのね」

「すみません」

 介抱されるカムジンを見て韓信は、憎まれ口を叩いた。

「カムジン、その様子では別働隊の方にお前を配置した方がよかったな!」

 

 

 別働隊の存在を蘭が知ったのはこれが初めてだった。

 韓信としては蘭を陣中に置くことは決めたものの、ここに至るまで彼女が魏と通じているかもしれないと疑い、話さないでおいたのである。

 

 黄河の流れは蒲坂(ほはん)・臨晋(りんしん)のあたりでふたつに分かれ、ひとつは支流となって関中台地に注ぐ。これが渭水である。

 いっぽう本流はほぼ直角に北上し、そこからさらに複数の支流に分かれていく。 韓信が別働隊を置いたのは、本流が北上を始めてまもなくのところ、夏陽(かよう)という城市であった。ここを渡河地点として対岸に渡れば、魏軍の後背をつくことができる。韓信自ら指揮する臨晋の船の部隊は、囮であった。

 

 別働隊の将は、曹参(そうしん)である。沛時代からの蕭何の部下であり、劉邦旗揚げ以来、最古参の男であった。韓信などより年齢も上、身分は韓信が左丞相であるのに対し、曹参は仮の左丞相であった。

 韓信が曹参に最も重要な局面を任せたのは、そのような事情に配慮したからのようである。

 

 戦闘開始に先立ってあらかじめ木製の瓶(かめ)を大量に買い集めた韓信は、これを曹参に言い含めて託した。曹参は別働隊として夏陽に到着するや否やこれを加工して筏(いかだ)とし、魏軍が蒲坂にくぎづけになっているところを尻目に渡河に成功した。そして後方の城市を次々と陥落させたのである。

 

 魏豹はこれに驚き、兵の大半を曹参の軍に対抗させたが、これが原因で臨晋から韓信率いる本隊の上陸を許してしまった。

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「魏豹を殺すな! 生け捕りにせよ」

 渡河してしまえば兵力の差は歴然としている。韓信は上陸してようやく息を吹き返したカムジンを先頭に立たせ、悠々と魏豹を包囲することに成功した。

 いっぽう曹参は西魏の首都平陽に攻め入り、魏豹の妻子を虜にし、ことごとく平定した。そして平陽は曹参の食邑となったのである。

 

「蘭、どうする。対面するか」

 とらわれの身となった魏豹の前に蘭は無言で現れた。

「殺すなよ」

「……殺してやりたい……憎いのです」

「一時の感情、屈辱に屈するな。大事をなそうとする者は、そういうものに耐えなければならない。耐えられないのなら、忘れてしまえ。小人物を殺したところで、君の名誉には決してならない」

「それは……かつて将軍が無頼漢の股の下をくぐった経験から、おっしゃっているのですか」

「……誰にそんなことを聞いたのか知らぬが……その通りだ」

「……わかりました。忘れることはできませんが、耐えてみせます」

 

 そう言った後、蘭は、捕縛されている魏豹の前に立ち、敢然と言い放った。

「親子の縁は、もともとかりそめのもの。今後私はその縁を断ち切らせていただきます」

 

 そしてつかつかとその場を立ち去った。

 

――うむ……そうだ。それでいい。

 

 韓信は蘭のその姿に、自分の生き方を見たような気がした。

 

 魏豹はそのまま滎陽へ送られ、漢の一兵士として扱われることとなった。王位は取りあげられ、平民におとされた。

 後任の王は置かれず、西魏は河東、太原、上党の三郡として漢の直轄地とされた。旧魏の王族は死滅したわけではないが、王国自体がなくなった以上、すべて身分を剥奪されたのと同じである。そしてそれは公女の魏蘭も同じであった。

 

 

 魏蘭を利用して韓信を王としようとする蒯通の目論みは外れた。

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