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第 二 部

 

西 魏 王 の 娘

 

 

 魏豹(ぎひょう)という男は魏咎(ぎきゅう)の従弟で、その名が示す通り、魏の王族の末裔である。魏咎は陳勝・呉広の乱の際に自立して王を称したが、章邯に攻められ、降伏した後に焼身自殺をしたことは先に述べた通りである。

 

 このとき難を逃れた魏豹は、章邯が項羽に降伏したことを知ると、魏咎の跡を継ぐ形で魏王を称した。しかしやがて項羽の天下になると領地は削り取られ、河東郡の平陽付近一帯を支配する西魏王に立場は留まった。

 これは項羽自身が魏の東部・梁といわれる地帯(旧首都の大梁付近)を支配したかったからだと一説にはいわれている。

 

 この項羽の処置に魏豹が不満を持ったかどうかまではわからない。しかし漢が韓信の策にしたがって関中の地を平定したとたんに漢の側に立ったということを考えると、そのような気持ちを持っていたことは充分に想像できる。

 しかし関中から魏豹の居城である平陽までは近く、

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遠くの楚より近くの漢と結んだ方が身の安全をはかれると単純に考えた結果が、漢への鞍替えの実情と言ったほうがよさそうである。

 

 その魏豹が京・索での一戦を終え、楚軍の追撃が止んだときに漢に対していとまごいをした。

「老母の容態が悪く、看病したい」

という理由で平陽へ帰る、というのである。

 

 いかにもとってつけたような理由だが、この時代は「孝」の精神が限りなく尊重されているので、親の看病を理由にされては無理に引き留めることはできない。しかしこのときの漢の首脳部には、魏豹の申し出は、趙の陳余の一件もあり、体よく離反するためのかこつけだと思われた。

 

 魏豹はそれを察し、自身の帰国に関してもうひと言付け加えている。

「私は帰ってくるつもりでいますが、いくら私自身が帰ると言ったところで、漢王は信じないでしょう。つきましては私の娘を漢に置いていきます。人質と思っていただいて結構ですが、なにせ男勝りな性格の娘なので、前線にでも置いて使ってくださってもよろしいかと。凡庸な男子よりはよほど気構えがしっかりしております」

 

 できれば男子を人質にしたいというのが本心であったが、劉邦はこれを受け、魏豹の帰国を許した。

 

 人質の女子は、名を蘭といい、このとき二十二歳であった。当然ながら姓は魏なので、この人物の姓名は魏蘭である。れっきとした西魏の公女の身分であったが、いでたちは皮革製の胴当て、肩当てを身に付け、足には軍靴を履いており、男子の兵士と変わらぬそれであったという。

 

 漢の首脳部の面々は、みなその姿を見て驚いた。また、兜を外した蘭の素顔が若々しく、きりりとした目元がとても美しいことに、揃いも揃って不安を覚えたという

 このような妙齢の、しかも美しい女を前にして、好色な劉邦が手をつけぬはずがないと考えたのであった

 

「大王ならば魏蘭が人質であることを忘れ、夜ごと愛撫しようとなさるに違いないが、それははなはだまずい……。娘の蘭が大王に愛されることは、父の豹の立場を高めてやることにつながる。豹は全幅の信頼のおけない人物であり、そのような事態は許されない。まして王妃の呂夫人は楚に囚われの身であり、どういう扱いを受けているのか見当もつかない状況である。このようなときに大王に背徳の種を残すわけにはいかない」

 

 これが、首脳部の共通の意識であった。

 

 かくして魏蘭は張良の進言により、韓信のもとに送られた。父、魏豹の望みどおりに前線に身を置くこととなったのである。

 

 そのとき劉邦は張良にむかって毒づいたという。

「女というものは男に愛されてこそ幸せなのだ。韓信のような女の扱いも知らぬ奴のところに送っては、かの娘が可哀想ではないか。子房よ、君は女心がわからんのか」

 

 張良は次元が低いこのような話題にも真摯に付き合う。

「大王……魏蘭は武装しておりました」

「今さらなにを言う。そこが印象的だったのだ」

「おそれながら、大王は武装した女と寝所をともにできますか。ああいう女に気を許すと、寝首をかかれる可能性が大でございます。魏蘭のような女を御していくのには韓信のような堅物の男が最適でございましょう」

 

 このころの劉邦は若いときよりも保身に敏感になっている。目の前の美女よりも優先すべきは、自分の身の安泰であった。それは漢の命脈を保つためか、老いによって生じる生への執着のためかは、はっきりしない。

 

 いずれにしても、劉邦は諦めるしかなかった。

 

 

「蘭にございます」

 

 韓信の前で深々と頭を下げた魏蘭の姿は、印象的なものだった。

 目は細くはないが、目尻がはっきりとしており、それがきりりとした印象を相手に与える。

 髪はおろしていたが、それでも肩にかかるくらいの長さでしかなく、この時代の女性としては極端に短い。

 口は大きくなく、真一文字に結ばれている。

 肌は白く、背筋はぴんと伸び、胸を張っている。立場は人質だが、にもかかわらず態度は堂々としており、全体的に凛とした雰囲気を醸し出していた。

 

 韓信も確かに蘭の姿に感じるものがあった。一度見たら忘れられない女というのはこういう女に違いない、と内心で思ったくらいである。

 しかし口に出しては、単刀直入にこう言った。

「君はどうしてそのような格好をしているのか」

 

 魏蘭は表情を変えずに話し始めた。

「きっかけは臨済で章邯に襲われたときです。あのときは一族もろとも逃亡したのですが、私は父から男装していた方が目立たないと言われ、このような姿で臨済を脱出したのです」

 

 韓信はふうむ、と相づちを打ち、さらに聞いた。

「臨済を章邯が襲った、というのは、斉の田儋が討ち死にしたときのことだな。あのとき魏王咎は民衆の安全を確保したのち焼身自殺した、と聞いている。……しかしそれからすでに相当の歳月が経っているな。にもかかわらず君が今もってその格好をしているのはなぜだ」

「父が許さないからです。臨済を脱出し、さし迫った危機を乗り越えたとはいっても、乱世の中では女は生きにくいものだし、父も安心できないと……。私もぞろぞろした宮女のような格好よりは、このほうが気に入っております」

 

 韓信は話の内容に納得したような表情をしたが、口に出して言ったことはそれと正反対であった。

「ふむ、そうか。……では今後、君が陣中をそのような格好をして歩くことを禁ずる」

 

 このとき、はじめて魏蘭の表情が変わった。つかの間であったが、眼を見開き、驚きを表したのである。

「理由を……お聞かせ願いますでしょうか?」

 

 韓信は別になんでもないとでも言いたそうな素振りを見せて、答えた。

「理由は簡単なことだ。君のような妙齢の女子がいると、陣中の兵士が落ち着かない。兵たちの多くは家族を引き連れて各地に出征しているので、君はその中に混じって、軍装を解き、女として暮らせ。髪もゆるゆると伸ばすがいい」

 

「嫌です!」

 急に感情をあらわにした魏蘭に、今度は韓信の方が驚いた。

 

「……わかっていないな。これは君のためでもあるのだ」

「どういうことですか……」

「私の見たところ、君の軍装は格好だけだ。実際に戦場で敵を殺したことはない。どうだ、違うか?」

「…………」

「そのような未熟な、しかも女を戦地に立たせることはできない。まして君は大事な人質なのだ。私としても、無駄に死なせるわけにはいかない」

 

 魏蘭は唇を噛み、韓信を睨みつけた。

「たとえ将軍のおっしゃる通り、私の軍装は格好だけだったとしても……誰しも初陣というものがあるはずでしょう? 私は女だからという理由でそれさえも許されないのでしょうか」

「無理に戦場に立つ必要はない、と言っているのだ。君の態度はおかしく、怪しいな。ひょっとしたら魏豹の命を受けて、私なり漢王なりを暗殺するつもりではなかろうな?」

「それは、ございません。私は漢の側に立って戦いたいのです。将軍のもとで……お疑いだとしても証明するものは何もございませぬが……」

 

 韓信には、蘭がどうしてこれほど戦地に立ちたがるのかが、よくわからない。対処に困った韓信であったが、そのとき急を告げる伝令が現れ、彼らの会話を遮断した。

「申し上げます。西魏王豹は蒲津(ほしん)の関を塞ぎ、漢に敵対する構えを見せております!」

 

 韓信は驚かなかった。やはり来たか、という思いで眼前の蘭に視線を投げ掛ける。しかし当の蘭に動揺した様子はなかった。

「……魏王豹は人質である娘を見捨てる覚悟らしいな。いわば、君は捨て駒というわけだ」

「…………」

「蒲津は黄河の渡し場である。ここを塞いだということは漢は滎陽周辺に閉じ込められた形となり、いずれ機が訪れれば、楚、趙、魏の三国から攻められ、包囲されるであろう」

「…………」

「君はこうなることを予測して、人質となることを了承したのか。事態がこうなったからには、君はいつ斬られてもおかしくない。魏豹とて、それをわかっていたはずだ……。君は娘として父親に愛されていないらしいな」

 

 韓信はそう言ったものの、返答を期待したわけではない。烈士というものは男女を問わず、こういうものなのであろう。やりきれない思いを抱いたが、それを隠し、傍らの衛士にむかって命令を発した。

「人質としては、もはや無用の長物である……この者を斬れ」

 

 

 衛士たちが、処刑の準備を始めた。魏蘭は両手を後ろに縛られ、足には枷をはめられた。目隠しをしたのは韓信の情けである。しかし同時にそれは自分のためでもあった。決心を固めたとはいえ、やはり女性を斬殺するのは気が引けた。せめて死ぬ間際の表情は見ないでおきたかったのである。

 

「将軍……お聞きください……」

 

 蘭は静かに語り始めた。韓信は心が揺れた。

「発言を許可する。ただし、ひと言だけだ。しかしそれによって私が決断を覆すことはないぞ」

 

 韓信はいつも以上にかたくなになっていた。ほんの一瞬も魏蘭の姿に心を動かすことがなかった、と言えば嘘になる。韓信としては女にたぶらかされたという思いがあったに違いない。

 

「私は……魏を討ちたいのです」

「馬鹿なことを! ふざけているのか」

 

 やれ、と合図を出しかけたときだった。

 韓信の前に一人の老人が現れたのである。

 

「待たれよ。将軍の采配は勇猛なる無数の敵に対して振られるもの。このようなたったひとり、しかも女に対して振られるものではない」

 

 その声の主は酈食其であった。

「酈生……。しかし、この女のおかげで魏はまんまと離反し、漢は孤立しようとしているのです。私としては、女だからこそ、そのような芸当が可能であろうと考えられます。生かしておくべきではありません!」

 

 酈生は韓信の態度に驚きを禁じ得ない。自分の知っている韓信は、もっと柔軟な男で、戦時といえども安易に人を殺すことを考えない男であった。

――戦陣を重ねるにつれて、感覚が鈍ってきているのか……いや、相手が女だからこそ、自分が意志の固いところを見せようとしているのかもしれん。……要するに、意地を張っているのだ。

 

 酈生はそう思い、韓信をなだめようとした。

「将軍、事態がこうなったからには今さらその女を殺したところで何も解決せぬ。それに今の段階でその女を殺すことは、はなはだまずい。漢王は魏を討つ気は今のところないらしく、わしに魏豹の説得を命じられた。人質が死んだとあっては、説得できない」

 

 韓信は、はっとした。

――私は、てっきり魏を討つものだと……。これでは、ただ戦いを欲するだけの蛮勇と変わらない。女を前にして冷静な判断ができなくなるとは……。どうしたというのだ、私は……

 

「落ち着いてきたようじゃな。そう、大王は楚と敵対しており、このうえ魏と対立することは欲していない。そのためわしに命令を下された。『おい、おしゃべり! 行って豹を連れてこい。それができたら一万戸の領地をやろう』と、いつもの調子だ。将軍は少なくともわしが魏豹と接触している間、その女を生かしておかねばならぬ。でなければわしの一万戸の領地の件もなくなってしまうからな」

「説得は、できましょうか?」

「……正直、難しいじゃろう。説得できねば、討つしかない。そのときまで、せいぜいあの女を飼いならしておくことだな。魏豹の彼女に対する仕打ちを思えば、今後は漢のために働いてくれるかもしれん」

 

 酈生はそう言って去っていった。韓信は前言を取り消し、

「……女を解放しろ」

と周囲の者に命令したが、自分が正しい判断を下せなかったことに気恥ずかしさを感じ、近侍の者すべてを退出させた。一人になりたかったのである。

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