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第 二 部

 

滎 陽 脱 出

 

 

 韓信がカムジンを誅罰したことにより、皮肉なことに兵の間にはよい意味での緊張感が生まれ、より軍隊らしい組織になっていった。綱紀が粛正されたのである。

 趙の民衆はそれを評価するようになり、次第に恭順の意を示すようになっていった。

 

 しかし当の韓信は決してそれを喜んだわけではなく、カムジンを失った悲しみは容易に癒されるものではなかった。何をするにも物憂く、思考も集中力を欠く。規律を正した兵たちとは逆に、指揮官の韓信は行動力を欠くようになっていった。

 

 カムジンを斬ったのは、明らかに見せしめである。それが効果的であったことは確かだが、自分にとって失ったものが大きすぎるように思えたのだった。

 

「将軍……お気持ちは察しますが……どうかご自分を責めずに……」

 蘭は韓信を慰めようとしたが、その口調もいつもより精彩を欠く。それは今回の出来事が蘭にとっても衝撃的であったことを物語っていた。

 

「不思議なものだ……幾千、幾万もの命を奪ってきた私が、たったひとりの罪人のためにこうも心を痛めるとは……。私はきっと最悪の偽善者であるに違いない。カムジンをこの手で殺めたことは確かに悲しいことだが、敵兵の命を奪ったときにはこんな感情とは無縁でいられるのだ。どちらも貴重な生命であることには変わりがないのに……」

「なにも不思議はございません。人として正常な感情でございましょう。人というものは死が悲しむべきこととは知っていても、見知らぬ人の死にはまったく心を動かさないものです。天下のすべての人の命が大事なものであることは否定しませんが、そのすべてに感情を動かされていては、とてもまともな精神状態を保てません」

「君の言う通りだ。しかし、私の言いたいことは違う。私はたとえカムジンが死んだとしても、これほど自分が悲しむとは思っていなかったのだ。もっと私は……自分のことを冷淡な男だと思っていた。もっと感情を自分で調節できる男だと……しかし、それは違った。しょせん私も……感情で動く市井の人間と変わらない」

「それでいいではありませんか……。感情の量は人それぞれに違うものですが、まったく感情を持たない人というのは、存在しないのです。真に精神的に強い人というのは、感情を持たないのではなく、あらゆる物事に心を揺り動かされながら、それを乗り越えて行動に移せる人のことをいうのです」

「では、私は弱い。……どうすれば、乗り越えられるというのだ」

「カムジンを失ったことは、変えようもない事実……。受け入れるしかありません。将軍もそう思ったからこそ、ご自分でお裁きになったのでしょう? ……ご安心ください。カムジンはいなくなりましたが……おそれながら、まだ私がおります」

「それは心強いことだ。……いや、皮肉ではない。本心だ。しかし、私はしばらくの間休みたい。兵たちにも相互に休息を取るよう、指示してくれないか」

「将軍……」

 

 韓信は、それきり奥の部屋にこもってしまった。

 そしてそれから約半年の間、目立った行動は起こさなかったという。

 

 

 これに前後して韓信が趙を討伐し平定に奔走する間、劉邦率いる滎陽の漢軍は決断を迫られていた。

 

「脱出しましょう」

 策を献じたのは、陳平であった。かつて楚軍に反間を潜入させ、内部から切り崩しを試みた男である。

 しかしその策は范増を死に至らしめるなど一定の効果はあったが、きわめて一時的な影響を与えることしかできなかった。

 

 いま項羽は諸将への信頼を取り戻し、以前にもまして攻撃を密にしている。

 とはいっても城を直接攻撃するのではなく、城につながる甬道を攻撃して、これを遮断するのである。

 

 甬道とは塹壕が道のように連なったもので、滎陽城から敖倉につながっており、漢軍はこの甬道を利用して、敖倉に貯蔵された穀物を糧食として城内に運んでいた。

 その甬道が完全に楚の手に落ち、ついに滎陽は食が尽きたのである。

 

「東門から婦女子を出します。大王はその隙に西門から脱出を」

 陳平という男の策は、常に王道の反対側にあるようで、素直に受け入れることが難しい。このため味方である漢軍の中にも陳平を好まない人物が多かった、と言われている。

 

 漢王劉邦もこのとき、難色を示した。

「出した女どもはどうなるのだ。いくらわしの命が貴重といえ、殺され、犯されるだけのために女を戦場にさらけ出すのはいかがなものか」

 

 陳平はしかし、動じない。彼の策には続きがあったのである。

「女どもには甲冑を着せ、武装させます。それでも楚軍の中に勘のよい者がおれば、前線に女の集団が突然姿を現すことに疑念を抱き、罠だと気付くはずです。それゆえ、楚軍を騙すためには女ばかりでは不十分でしょう。……私はこの時のために、大王の替え玉になる人物を用意しておきました。この者に偽って楚軍に降伏する旨を伝えさせます」

「その間に逃げよ、というのだな。しかしそれではその者は……」

 

「死にます。確実に」

「むむ…………」

 

「目の前に現れた大王を称する人物が偽物だと知り、なおかつ降伏が偽りだと知った項王は、怒り、我々を追おうとするでしょう。それを阻止するために滎陽には最低限の守備隊を残しておきます」

「! いまでさえ滎陽を支えきれないのに、少数の守備隊で支えきれるわけがない。守備隊の連中は……」

 

「十中八九、死にます。あるいは早めに大王が兵力を回復し、反転することができれば彼らを救うことができましょう。しかし、現実的に無理です。彼らも死にます」

 

 劉邦はさすがに戸惑い、作戦に許可を与えることを躊躇した。

 

 自分のために死んでくれる者がいることには、正直助かる。もともと王なのだから臣下に自分のために死ね、と命令を出すことも可能なのだが、そもそも王としての責務は臣下なり領民なりに生と食を保証することにある。

 もちろんそれは程度の問題であり、少なからず臣下は自分のために死ぬものであると理解してはいても、罪もない者に死ぬとわかっている任務を与えることには一人の人間として抵抗を感じざるを得ない。

 

「迷っていらっしゃいますな……。おそれながら大王、お覚悟が足りませぬ。王という地位はそれだけ重いのでございます。臣下がそれを理解し、自らの命を大王のために捧げようとしておりますのに、大王ご自身がそれを理解していないようでは、彼らが哀れでございます」

 陳平はこのときすでに人選をすませており、二名の将校を劉邦の前に引き合せた。

 一人を参軍の紀信(きしん)といい、もう一人を御史大夫(ぎょしたいふ)の周苛(しゅうか)といった。

 

 劉邦は、二人の顔をまじまじと見ると、やがてため息まじりに問い始めた。

「お前たち二人は、死を賭してこのわしを守ろうとしているそうだが……その気持ちはありがたい。しかし、お前たちに直接恩賞を与えることはできん。なぜかと言えば……お前たちは死ぬからだ。そこで問う。わしは何をもってお前たちの忠誠に報いればよいのか。そして……お前たちはどこまで本気なのか」

 

 

 紀信は劉邦が戦場に身を晒すとき、その戦車に陪乗することを任務としていた。

 劉邦の戦車は必ず夏侯嬰が御者として操縦する。また、矛(ぼう)などの長柄の武器を用いて主に劉邦の身を守るのが、参乗の樊噲であった。紀信は弓を使って樊噲の矛の届かない範囲の敵を射つのが役目であり、職名は乗長である。

 身分の上下関係からいえば、高位な順に乗長、参乗、御者の順であり、紀信がいちばん上位であるはずである。しかし、夏侯嬰と樊噲は漢軍の重鎮中の重鎮であり、高貴さの度合いからいって紀信などは及びようもない。

 ここで本来の上下関係に逆転現象が起きた。乗長の紀信がいちばん下っ端とされたのである。

 

 しかし、当の紀信はそれを不満に思ったことはなく、これを当然のこととして受け止めていた。それというのも車上から放つ彼の弓矢は、敵兵に命中することがまったくといっていいほどなかったのである。

 

 彼は、幼いころから何をやっても人並み以上にこなせたことがなかった。

 家業の農作業を手伝っては、鍬や鋤の柄を一本残らず折り、使い物にならなくした。力仕事には向かないかもしれないと考えた両親が学問を勧めたが、同じ間違いを何度もしてばかりであった。遊び仲間と駆けっこをしても常に誰よりも遅く、力比べをしても彼が勝てる相手は三歳も年下の相手しかいなかった。

 

 そんな彼が唯一自慢できるのは、度胸の良さである。何ごとにも他人より先に挑戦する気概だけは人一倍あるのだが、残念なことに挑戦の結果は、すべて周囲を落胆させた。だからこれは度胸が良いというよりは、単に向こう見ずというべきだろう。自分の能力の限界を見極めずに物事に取り組むあたり、自己を客観視する能力にも欠けていたかもしれない。

 結局唯一の自慢の種も他人に笑われる原因となったのである。

 

 人は彼のことを、「口先だけの男」とか「見かけどおりの駄目な男」と呼び、彼の家族は不器用な息子になにも期待をかけなかった。

 父は紀信の顔を見れば溜息を漏らし、母は常に小言を繰り返す。兄に至ってはなにも言わず、ただ冷笑するだけであった。

 嫂とは話もろくにしたことがなかったが、陰で自分のことを「穀潰し」と呼ぶのを耳にしたことがある。

 

 長じて漢軍に属してからも、たいして状況は変わらなかった。夏侯嬰の馬の制御力、樊噲の武勇の陰にかくれ、へたくそな弓を引き絞り、無駄に矢を消耗する日々が続いた。彼が持ち場を変えられなかったのは、豪勇を誇る樊噲がいる以上、弓手の存在自体がさして必要ないからだけであった。

 いてもいなくても構わない存在、というのが紀信の自他ともに認める評価である。

 

 しかし、男としてこの戦乱の時代に生まれた以上、いつまでもそんな自分でいたくはない。彼は家族からは白眼視され続けたが、それなりに育ててもらった恩義は感じていたので、仕返しと恩返しを同時に願った。

 つまり、穀潰しと呼ばれた自分の軍功によって家族が養われていくことを狙ったのである。

 

 紀信は陳平の前に突如参上すると、一計を献じた。

「事態は急を要します。私が楚を欺き、漢王と称して降伏を申し出るとしましょう。その隙に大王は滎陽を脱出されるのがよろしいかと……」

 

 さして能力もなく、自分自身に成長も見込めなかった紀信にとって、軍功をあげるためには自分自身の命を投げ出すことしかなかったのである。

 

 

「私は、勇すくなく、才乏しき身。これ以上生きながらえたとしても大王のお役に立てることは少なかろうと存じます。よって、このたびの策に志願したのですが……事が成就した暁には、国もとの私の家族の安全を保障していただきたく……将来大王が天下を治めるに至った際には、賦役も免除してやってほしいのです」

 紀信は遠慮がちではあるが、それでもあからさまに自分の希望を劉邦に伝えた。

 沛のごろつきで、やはり一族から疎まれてきた劉邦にとって、紀信のような男が家族からどう扱われてきたか、想像することは簡単だった。

 

――こいつは、家族に感謝しているのではない。見返してやりたいだけだ。

 

「約束しよう。思い返せば、お前はわしの戦車に乗りながら、ついに敵兵の一人も仕留めることができなかった。しかし、それはもうよい。忘れろ。わしもそのことは忘れることにする。……いまからわしはお前のことを不器用な弓手としてではなく、忠節の士として記憶に刻むことにする。お前の家族もきっとお前を一族の英雄と奉らねばならなくなる」

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