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第 一 部

 

賊 徒 討 た れ る( 続 き )

 

 

 項梁のそばに仕えていた韓信には、軍の緊張感が弛緩しているのが、よくわかった。定陶のある富豪の屋敷を接収して夜毎酒宴に耽る項梁を見るにつけ、韓信は思う。

 

――人は、こうした快楽を得るために、戦うのだろうか。だとすれば付き合わされるのは、馬鹿馬鹿しいことだ。

 志願して兵となった自分ですらそう思うのだから、巻き込まれる住民の思いがそれに数倍することは、想像に難くない。

 

――しょせん、こいつは貴族だ。民の代表ではない。

 韓信はこれ以降、項梁に対しては面従腹背の態度で臨もうと決めた。酒に酔い、うたた寝を決め込む項梁のそばにいるのに嫌気がさす。韓信はその場をはなれ、外に出て警護の連中の仲間に入った。その方が緊張感が保たれると思ったからである。

 

――いざとなると、尊敬できる良き上役とは巡り会えないものだ。

 嘆息しながら小一時間ほどが過ぎた。屋敷のなかは宴会騒ぎも終わったようで、あたりを静寂が包み込んだ。

 

 

 その日は曇天で、月や星は見えず、屋敷の明かり以外は目に見えるものがなかった。暗闇と静寂……嫌な予感がした。

 

 ふいに隣の兵士が音をたてて倒れた。

 驚いた韓信が振り返ると、喉元に深々と矢が突き刺さっている。

 

「敵だ!」

 しかし、構える間もなかった。その一矢を合図に、黒い甲冑を身にまとい、夜陰に紛れた秦兵たちが、なだれを打って突入してきた。屋敷の警護などしている余裕はない。韓信は他の兵と同様、一目散に逃走した。

 

 

「雑兵に構うな。逃げる者は捨て置け。目標を見失うな」

 指揮官の号令のもと、火矢が放たれた。屋敷はあっという間に炎上し、中にいた者たちは逃げ遅れて焼死するか、慌てて外に飛び出したところを秦兵に討たれるかのどちらかだった。

 

 寝所で女を抱いていた項梁は、長年にわたって築き上げてきた野望の成就への道をあっさり断たれ、逃げ遅れて焼け死んでしまった。

 

 項梁を失い、四散した楚軍は抵抗を試みる余裕さえない。韓信などは一気に城壁まで走り、無謀にもそれをよじ登ろうと、もがいた。どこからそんな力が出るのか、指先を固い城壁に何度も突き刺し、必死の思いをしたあげく、登り切ることができた。

 城壁の上からは秦軍の様子が遠目に見てとれる。その中に自ら先頭に立って、しきりに兵を指揮している男が見えた。秦兵の様子から、その男が何者であるかが韓信にはわかった。

 

――あれが……章邯!

 

 韓信には章邯が乱世の屈強な武人には見えなかった。しかしもの静かに敵を討ち取って行くその態度に、よけい恐怖を覚える。

 韓信は城壁をおりて逃げれば安全だと思いながらも、目を離すことができない。

 章邯の前に焼けこげた項梁の首が届けられた。見るも無惨な上官の姿……。韓信は項梁を尊敬していたわけではなかったが、目を背けざるを得なかった。

 

 いっぽう章邯は項梁の首を悠然と眺めると、たいした感傷も示さずに演説を始めた。

 

「諸君! ……我が軍は国を守る目的で編成された」

 兵たちから、おう! という雄叫びが発せられる。

 

「よって義は我が軍にあり、我が軍の前に立ちはだかる者は、賊である」

 またしても兵たちの声が上がる。

 

「賊は誅罰されるものであり、討つにあたって我々は礼儀など必要としない。ただ、殺せばよいのだ」

 

――我々は、賊か……。

 韓信は反論したい衝動に駆られたが、まさかこの状況でそうするわけにはいかない。城壁の上で小さくなって聞いているだけだった。

 

「古来より戦争を美化し、互いに名乗りを上げて雄々しく戦うことが理想とされているが、今の我々の敵は、賊である。罪人だ! 罪人を捕らえるにあたっては、夜襲も不意打ちも、あるいは暗殺も恥とはならない」

 

「今、首だけになってここに転がっている項梁なども、賊の類いである。見よ、我々は賊の頭目をひとり討ち取った。これこそ正義の証である」

 ここで章邯は項梁の首を手に取り、たかだかと掲げ上げると、兵士たちの感情は頂点に達した。

 

「大秦万歳!」

 兵たちの合唱が起こった。韓信はいたたまれなくなった。

 

 背中に冷や汗が流れる。

 

「罪人項梁を撃ち殺したことで楚は当分おとなしくなるだろう。そこで諸君、我々の次の目標は、北だ! 北上して、趙を討つ!」

 踵を返した章邯に興奮した秦兵たちが従い、去って行った。これにより韓信は生き残ることができた。

 章邯の迫力に呆然とし、城壁の上でたたずむうちに、指先の痛みを感じた。見ると両手の人差し指の爪がどちらとも剥がれている。

 

 指先にまとわりつく血は、戦地につきものの死を連想させた。

 

――恐ろしい。

 現実に戻った韓信は、思い切って城壁から飛び降り、ひたすら走って定陶の地をあとにした。

 

 

 北上する章邯のもとへ、ひとりの武将が兵を引き連れて合流を果たした。趙の将軍の李良という男である。

 

 李良はもともと秦の将官であったが、このときは趙王武臣の命により、隣国の燕や代の地を制圧するべく奮闘していた。周囲の者の中には彼の前身からその忠誠を疑う者も多くいたが、李良には秦へ帰順する気など微塵もない。このときも秦軍から、戻ってくれば優遇する旨の書状を受け取っていたが、彼はそれを意にも介さなかった。

 

 李良は秦の勧誘の書状を突っぱね、兵の増強を求めようと趙の首都邯鄲へ向かおうとしたが、その途上で豪勢な車馬を連ねた行列に遭遇した。彼はこれをてっきり趙王武臣の車列だと思い込み、道ばたにひれ伏して挨拶した。しかし……

 

 それは武臣ではなく、武臣の姉が物見遊山に出かける車列であった。

 

 酒に酔った武臣の姉は李良に対して、挨拶が不十分だと罵り始めた。

 自分が戦地で死ぬ思いをしているときに物見遊山などしていることだけでも腹が立つのに、愚弄されるとは、李良にとって思いもしないことだったろう。

 

 やりきれない思いを我慢しきれなくなった李良は、意を決して武臣の姉を殺し、その足で邯鄲に突入して武臣を殺害した。秦に帰順することに決めたのである。

 

 しかし趙側もやられてばかりではない。大臣の張耳はすばやく旧王族につながる趙歇という人物を探し出し、武臣のあとに据えて王とした。さらに弟分の陳余に命じて李良を討伐させ、これを敗走させた。

 

 そして敗れた李良がたどり着いたのが、章邯の軍である。

 

 章邯は李良を援助する形で邯鄲を襲撃し、城壁を破壊しつくし、住民は強制的に移住させた。趙王歇と張耳は北方の鉅鹿城に逃げたが、そこも秦軍に包囲され、攻撃され続けた。

 

 鉅鹿の城内は食料が底をつき、餓死者で埋め尽くされていった。

 

 いっぽう楚では、項梁の死に事態の緊迫を感じた懐王が、都を盱眙から彭城に移し、そこに全将兵を集めた。御前会議の開催である。

「我が軍が武信君を失ったことは痛恨の極みであるが、もともと楚は彼ひとりのものではあらず、余(よ・王の一人称)が存命な限り、楚は安泰である」

 

――懐王の精一杯の自己主張だ。

 修羅場の定陶から逃れて会議の末席に座を置いた韓信がそう感じたのは、皮肉からではない。懐王が傀儡であることは楚兵の共通の認識であり、その認識の外にあるのは懐王本人だけであった。

 

 懐王の言葉は続く。

「いま秦軍は趙の鉅鹿城を包囲し、わが楚にも救援の依頼が来ている。趙は秦を打倒する

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という目的をともにする同志であり、余としては無視することもできない。よって趙を救うべく、我が軍隊の主力をもってあたろうと考えている」

 

 一座がざわめいた。ついに章邯と雌雄を決するときがきた。それを千載一遇の機会と考えるか、無謀な暴挙と考えるかは個人の考え方次第である。

 

「静まれ。余の話はまだ終わりではない。……窮乏している趙には気の毒だが、趙を救援する我が国の部隊は、実は囮である。主力を囮とするあたりがこの作戦の妙だ」

 

 会議の座はいっそう騒がしくなった。将官たちがけげんそうな表情を見せるのが悦にいったらしく、懐王はさも嬉しそうな顔をした。

「趙へ向かう主力軍とは別に一隊を編成し、西進して函谷関を抜く。秦の主力が趙に向いている今であれば、必ずや成功する作戦であろう」

 

 さらに懐王は語を継いだ。

「真っ先に函谷関を抜き、関中の地を平定した者を関中王とする」

 

――これは、別働隊の将を王とするということだろうか。ならば誰しも趙へ遠征などしたがらないだろう。

 韓信はそう思ったが、別働隊は主力ではないのだから兵力も劣ることを考えると、函谷関にたどり着く前に殲滅する可能性もないとはいえない。

 そこまでいかずとも、別働隊が苦戦する間に兵力の充実した主力軍が趙を平定し、西進すれば先に関中にたどり着くことも可能である。

 

 そう考えれば、懐王は傀儡と言われながら、絶妙な作戦を思いついたものだ、と思われた。

 

 問題は誰が主力を率い、誰が別働隊を率いるかである。将官連中が等しく固唾を飲みながら、任命のときを待った。

 

 懐王はまず主力軍の大将を任じた。

「宋義!」

 

――あんな太鼓腹の男に軍の指揮などまかせて大丈夫なのか。

 そんな韓信の思いとはよそに、懐王は任命を続ける。

「副将は、項羽。末将は范増」

 

 将官たちのため息をよそに、任命は続けられた。

「別働隊の将には、劉邦を任ずる」

 

――なるほど。たしかに主力ではない。

 韓信は合点がいった。

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