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第 一 部

 

章 邯 を 討 て !( 続 き )

 

 

 巴蜀の鎮撫を丞相の蕭何にまかせ、劉邦はじめ漢軍の面々はそろって北進を開始した。

 

 韓信はこれに合わせて、大々的に桟道の修復を開始した。

 桟道を直しながら進軍するものと敵に見せかけるためである。

 

 しかし一方で韓信は別働隊を編成し、ひそかに山脈を大きく迂回する古道を使って関中へ進路を取らせた。

 この古道を使えば、行く手を遮る川を船で渡らねばならないが、部隊が一度に渡りきれるほど船の数はない。必然的に渡河には船の往復を必要とし、気が遠くなるほどの時間がかかった。

 桟道の修復も一朝一夕に完成するものではなく、韓信は兵を督励し、時には自ら作業を手伝いもした。

 

 どちらも日進月歩的な進行状況ではあったが、悲観すべきものではなかった。明確な目的意識を持ち、韓信の表情から鬱屈した悩める若者の陰が取り除かれていったのは、このころからである。

 

 時間がかかることはかねてから覚悟していたことなので、どうということはない。古道を行く別働隊の進軍速度に合わせて、桟道の修復もせいぜい時間をかけて行えばよいのだ。

 関中の敵が桟道の完成に合わせて迎撃態勢を整える間に、予想しない方角から降って湧いたように別働隊が関中に流れ込む、それが理想である。そのために少数の先遣隊を古道から送り、関中の内応者を募らせたのは、韓信の芸の細かさであった。

 

 内応者を募ることはそう難しいことではなく、章邯を始めとする関中の王たちは民衆の支持を失っており、声をかければ民衆はおろか兵卒でも漢軍に味方をした。

たとえ迷う者がいたとしても、多少褒美を上乗せすれば意を決しない者はなかった。

 

 かくして韓信は作戦に自信を持ち、みせかけの桟道の修復作業にも力が入る、という具合であ。しかし、それを見た士卒の中には、風格が足りないと感じた者も多い。身分の高い者が卑しき作業に努力することを、素直に受け入れないのであった。この者たちは、韓信の若さに不安を持ち、頼りなさを感じているからそういう受け止め方をしたのである

 

「将軍は努力家であられますな。しかし、ここで体力を使い果たすと、関中に入ってからがきつくなりますぞ」

 と、声をかけてきた者がいる。

老人であった。

 こけた頬、白髪まじりの長い顎髭、しみの多い肌……韓信にはそれが栽荘先生の晩年の姿のように見えた。

 

「先生!……いや、人違いであろう。老人、名はなんと言いますか」

 

 その老人は優雅な微笑を作り、緩やかな所作で受け答えをした。

「わしの名は、酈食其(れきいき)という。おもに使者の役目を仰せつかって、この軍にいさせてもらっている。……ところで先生とは誰のことじゃ?」

 

 韓信にはどうにも説明できない。

「いえ、昔お世話になった先生にあなたがとてもよく似ていたものですから……」

「ほう、なるほど。ところで、わしも先生じゃ。人はわしのことを酈生(れきせい)と呼ぶ。なぜわしが先生と呼ばれるかというと、いつも身なりに気をつけているからじゃ。そこから生まれる気品のおかげで、みながわしを敬うの

 

 なんという自信過剰な老いぼれであろう、と韓信は思わないではなかったが、この時代、老人にたてつくことは「孝」の概念上、許されない。さらに、注意してみれば、その老人はしみだらけの顔に似合わず、不思議と調和された気品が確かにあった。

 

 これを受けて韓信は、この老人は儒者であるに違いない、と結論づけた。

「先生は、孔子の徒であられますか」

「いかにも。わしは儒者である。儒者は日ごろ冠の位置まで注意深く直し、礼のない言動を嫌う。わしはこの軍を通じて孔子の教えを天下に広めるのが最終目標よ」

 

 儒家がどういうものか、韓信は詳しく知っていたわけではない。しかし、この時代の通念として、儒家というものは王者に仕えるための礼儀作法を教える学問だということだけは知っていた。王者はかれらに行儀よくかしずかれることにより、より王者としての風格を増す。人によってはおべっか使いの学問だと批判する者もあった。

 

「わが漢王は、あまり礼儀作法に通じたお方ではありませんね。一説には儒者嫌いだという話も聞いたことがあります」

 

 酈生は、劉邦の話を陰ですることがいかにも楽しそうに笑った。

「それよ。わしが初めて漢王に相見えたときは、王は両足をたらいにつけ、小娘に足を洗わせておった。失礼千万な話じゃ。また、いろいろな噂もそれ以前に聞いておった。漢王は儒者を見ると、その冠をむしり取って、その中に小便をする、などと……。しかし、漢王はそれ以上のことはせぬ。ひところは儒者であること自体が罪とされる時代があった。将軍の若さでは知らないかもしれんが……穴に埋められないだけましと思うしかない。それに、漢王は儒者であろうとなかろうと、聞くべき意見は分け隔てなく聞いてくださる。やはり、他の者よりまし、と思うべきだろう」

 酈生は平気で劉邦の陰口を叩き、批評までしてのけた。漢軍の自由な気風がそうさせたのか、単に酈生が変わり者だったのかはよくわからない。

 おそらくその両方だろうと、韓信は思うことにした。

「先生には関中入りしたのち、民衆に漢に味方するよう説いて回っていただきます。よろしいか」

 

 酈生はやはり優雅に笑って答えた。

「それは構わん。それはそうと、将軍たる者、土木作業などに根詰めて従事するものではない。懸命なのはわかるが、やりすぎると士卒たちに軽んじられるもとになるからのう。もし将軍が望めば、みんなの前でわしが将軍にかしずいてみせるぞ。そうすればみなの将軍を見る目が変わってくるだろうて」

「いえ……それはご免こうむります。想像するだけで尻が痒くなってきそうだ」

 

 これを聞いて酈生は高笑いし、去っていった。高らかに笑っても下品な印象を残さないのは、儒家のなせる業だろうか。

 

 

 

 桟道の修復の完成が間近に迫り、いよいよ迎撃態勢をとった章邯は関中の南側に兵を集結させつつあった。

 

 しかしこのときすでに内応者によって手

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引きされた別働隊が、なんと関中台地の最西端、陳倉(ちんそう)の城門を破り、なだれ込んだのである。

 意図していない方角からの攻撃に、意表をつかれた章邯はまったく対抗できなかった。

 

 そしてここに至り、桟道の修復が完了し、南側からも漢軍が突入を開始した。

「よし……。上出来だ」

 

 別働隊の侵入とほぼときを同じくして桟道の修復を終える、という時間的な機微は韓信がいちばん神経を尖らせた部分であり、これを確認した瞬間、韓信は作戦の成功を確信した。

 あとは流れに乗るように敵を攻めるだけである。挟み撃ちにした章邯の軍を破るのに、細かな作戦はいらない。大軍の利を生かして敵を殲滅するだけであった。

 

 韓信はさんざんに章邯の軍を撃ち破り、咸陽の北、好畤(こうじ)の地までこれを追い込んだ。ここで章邯は陣形を組み直して対抗しようとしたが、さらに韓信に破れ、廃丘(はいきゅう)に逃れた。

 廃丘から咸陽は目と鼻の先の距離である。そこで漢軍は先に咸陽を制圧し落城させると、廃丘を包囲しつつ、東方へ兵を分けて進出し、司馬欣、董翳を攻め、この二人を関外へ追い出した。

 

 ここまでやれば、実質的に関中は漢によって平定されたといっていいだろう。章邯は廃丘で小規模な抵抗を続けているといっても、それを援護する勢力もなく、いずれ滅びるのを待つばかりである。

 

 章邯が絶命したのは翌年の紀元前二〇五年の五月であるが、このときに韓信が手を下したわけではない。それでも事実上章邯を滅ぼしたのは韓信であることには変わりがなく、当時の人たちもそのように評価した。

 

 紀元前二〇六年の七月、自分がなした戦功の巨大さに呆然とする韓信であったが、漢王劉邦はこれにおおいに喜び、夏の暑気に汗ばんだ韓信の額を、自らの手持ちの布で拭いてやったという。

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