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第 四 部

 

追 い つ め ら れ て ……( 続 き )

 

 

 長安に居を移す煩雑な作業も一段落し、しばしの休息をとる。

 淮陰から上がってくる租税の額が合わないという問題は未だ解決していない。未だ深刻な事態とはなっていないとはいっても、いずれは原因を追及しなければならなかった。

 しかし、それはすべて終わってからだ。今、自分が優先すべきは正しき戦略を練ること。それに尽きる。

 

 居室でひとり考え込む韓信のもとへ、家令が来客の旨を告げた。

「淮陰侯……鉅鹿の太守さまがお見えになってございます」

うむ。してくれ

 

 現れたのは、いよいよ任地に旅立つことになり、暇乞いの挨拶に訪れた陳豨であった。

「来たか。よく来てくれた」

 

 韓信はそう言って立ち上がると、近侍の者を遠ざけ、陳豨の手を取るようにして庭へ連れ出した。

「ここの庭は広大で、散策するにはちょうど良い。独り者の私には広すぎるくらいだ」

「大王……いえ、淮陰侯。あなたの庭は天下でしょう。これでも物足りないぐらいではありませんか?」

 陳豨の態度は特に韓信に対して媚を売ったようなものではない。

 この時代の武人にとって韓信はやはり尊敬に値する人物であり、陳豨はそれを素直に言葉に表しただけであった。

 

 しかし、韓信はその言葉を否定した。

「いや……私はいくつもの国を滅ぼし、何人もの武将を討ち続けて現在に至っているわけだが……実は私自身、一国を束ねる王となりたいと望んだことはなかった。戦乱の世が終わった暁には……静かな暮らしを求め、誰からも忘れ去られて過ごしたいと望んでいた。しかし、不思議なものだな。今の私は王座を追われ、監視の目はあるものの何不自由なく暮らしている。それがたまらなく嫌で仕方ないのだ」

「国家の大役を担いたいと……? 働き足りないということですか?」

「いや、少し違う……。私はただ、戦いたいだけなのかもしれない」

「…………」

 

「先に君は、この王朝は駄目だ、と言ったな。今でもその意見に変わりはないか?」

「無論です。それどころか不満は日増しに大きくなってきております。かつて項王は項姓を持つ者ばかりを優遇し、親族以外には冷たいと評されましたが……今の皇帝の施策はそれと変わりがありません。諸国には劉姓を持つ者ばかりが王として立ち、異姓の者はないがしろにされつつあります。座視すべき事態ではありません」

「うむ……よく言った。ついては相談がある。君を信頼して、ぜひ頼みたいことがあるのだが」

「なんなりとご命令ください」

 

「君の任地の鉅鹿という土地は、伝統的に多くの精鋭を生むところだ。近年では項羽と章邯が激突した土地であり、これに勝利した項羽が覇王として名を轟かすきっかけになった場所だ。したがってことを起こすには極めて縁起のいい土地だと言える」

 陳豨はこのとき韓信がなにを言おうとしているのかを、理解した。

「では、ついに……」

「ああ。君は幸いなことに陛下の信頼が厚い。君の行動に多少疑わしいところがあったとしても、陛下は心を動かさないだろう。つまり、下準備に十分な時間がとれる、ということだ」

「はい」

「二度三度、君の忠誠が疑われる事実が発覚するようになると、陛下はようやく重い腰を上げることになる。あの方は、極端な方だ。いざ君を討つことを決めると、部下に命じることなく自分で軍を率いて行動するだろう。私が見る限り、近ごろはその傾向が強いようだ。以前にもまして気が短くなっておられるのだろう。やはり年のせいかもしれない」

「そこを返り討ちにするのですな。入念な準備をしたうえで……」

「……まあ、それができれば最善だが……。持ちこたえてくれさえすれば、それでよいと私は思っている。私の狙いは、陛下に首都を留守にしてもらうことだ」

「ほう……」

 

「陛下が留守になれば、宮殿には私の敵になるような者はいない。そこで私は兵を集め、長楽宮を襲撃し、呂后と太子を虜(とりこ)にしようと思う」

「……殺すのですか?」

「いや。彼らはあくまでも陛下を私の前に引き出す餌だ。つまり、彼らを人質にとり、陛下と戦うことを……私は望んでいるのだ」

 

「……謹んで仰せのとおりにいたしましょう。しかし……危険ではないですか? いや、私ではなく淮陰侯が、です」

「以前に人から聞いたことがある。人は大事なものを守ろうとするからこそ戦うのだと。そして、世に戦いが尽きることはないのはそれが理由だと。確かに危険なことではあるが……ここまでしなければ、陛下は私と戦ってはくださらぬだろう」

 

 

 かつて経験した幾多の戦いの中で、彼は多くを失ってきた。

 かわりに得たものといえば、王侯としての名誉であったり、封地であったりした。

 しかし自分がそれを欲していたかどうかは、どうもよくわからない。

 

 振り返って考えてみると、自分は乱世に生きる武人としては、よくやってきたと思う。

 失った者のために流す涙は最小限にとどめ、悲しみを感じながらもそれに打ち負かされず、忘却することはできなくとも、悲しみの経験を自分の中で消化し、あらたな行動を起こす糧としてきた。

 

 栽荘先生が死んだあの日、自分は戦いに身を投じることを決意した。

 生まれ育った淮陰の危機を救い、母の墓に別れを告げた。

 あれからもう十年の月日が経とうとしている。

 

 カムジンを殺し、酈生に死なれ、蒯通には見捨てられた。

 蘭は自分を守って命を散らした。

 鐘離眛は自らの血を自分に浴びせた。

 どれも悔恨を伴う忘れられない出来事である。

 

 だが、彼らを思い出して再び涙することは、韓信にはなかった。確かに彼は溢れるほどの感情の量を持ち合わせていなかったのかもしれず、実際に喜怒哀楽を表情に出すことは少なかった。

 彼自身それを自覚し、あるいは自分は酷薄な男なのではないかと何度も自問を繰り返してきた。

 

 しかし、いつも答えは見つからなかった。戦った結果、彼らを失ったことを思えば、自分は戦わないほうがよかったとも思える。

 だが戦わなければ彼らとの友誼や信頼、愛情は育まれることがなかっただろう。

 そう考えて自分を慰めるのが常であった。

 

 あろうことか、自分はまた戦おうとしている。もはや自分以外に守るべきものはないというのに。

 

 すでに決断したはずなのに、心が揺らぐ。常に自分の決意が完全に正しいと信じられる者は少ないが、このときの彼もその一人であったのだ。

 

 陳豨と話し合った日の夜、また韓信は蘭の夢を見た。

 

 夢の中の自分は、うるわしき蘭を前にして意外にも毒づいた。

「君が姿を見せるたびに私が喜ぶと思ってもらっては困る。私は……いい加減君を忘れたいのだ。何度も顔を見せて、私を苦しめてくれるな」

 

 しかし蘭は姿を消さないばかりか、表情さえも変えようとしない。

 生前から特徴的であった大きいが切れ長の目は、穏やかに微笑をたたえている。

 あまり厚みはないが柔らかそうな唇も、微笑をたたえていた。

 

 その唇は開くことがなかったが、声が聞こえた。

「なんのために戦うのです」

 

 それは韓信が現実の世界で思い続けた疑問であった。常に考えているからこそ、夢の中にまで疑問は持ち込まれる。

 現実の韓信は眠っているはずだが、意識の中で反発した。

 しかし、夢の中の自分はその問いに対していとも簡単に返答してみせた。

「孤高を保つためだ」

 

――そうだ。そのとおりだ。

 眠っている韓信の自意識がそれに同調を示す。

 夢の中の自分は、さらに本音をぶちまけた。

「私は、尊敬されなくても構わない。しかし、人に蔑まれるのは嫌だ。誰も私のことを見向きもせずとも構わない。しかし、後ろ指を指されるような存在に成り下がるのは嫌だ。成り上がらなくても構わない。しかし、落ちぶれるのは嫌だ。戦って負けるのは構わない。しかし戦わずに臆病者呼ばわりされるのは嫌なのだ」

 

 夢の中の蘭はこの言葉を聞いても表情を変えなかった。相変わらず穏やかに微笑み、背筋を伸ばして立っている。なんとなく眩しく思えた。

 心なしか金色の後光が射しているようにも思える。

 天女のような姿。

 光は次第に強くなっていき、夢の中の自分は、その眩しさに目を背けた。

 

「では将軍は、自分を守るために戦うのですね」

 それも現実の世界で韓信が思い続けたことであった。

 結局は自分のために他者を巻き込み、犠牲にしようとする自分。

 そんな自分の生き方に嫌悪感を抱きながらも、他に進むべき道を見つけられないでいる自分。

 

「君は、私に嫌みを言うためにわざわざ夢の中にまで現れたというのか!」

 眩しさに耐えながら、再び蘭を見据えた。

 すると目の前の蘭の姿は、また裸身であった。

 金色の光が一糸もまとわぬ蘭の姿を照らし、夢の中の自分は思わず目を細めた。

 そしてそのまま蘭に近寄り、その輝く肢体に手を触れようとした。

 

 すると金色の光は突如として消え失せ、辺りは薄暗いもやに包まれた。

 そして夢の中の自分は、なぜか蘭の股の下を這いつくばってくぐろうとしていたのである。

 

――なにがどうなっているんだ?

 意識の中で韓信は自問した。

 

 それが通じたのか、夢の中の自分は慌てた様子で振り向き、後方の蘭の姿を仰ぎ見ていた。

 

 しかし、振り向いた直後に見えたのは武具をつけ、剣を右手に持った武者であり、明らかに蘭ではなかった。

 

「眛!」

 そこにいたのは首から血を吹きながらたたずむ鍾離眛であった。

「眛! 眛!」

 夢の中の韓信は、しきりに眛に呼びかけた。

 しかし、反応はない。

 

 しばらくして鐘離眛の首が音もたてずに落ちたところで、韓信は目を覚ました。

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