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第 四 部

 

最 終 章 ・ そ の 後

 

 陳豨は韓信の死後も奮戦し、その後約二年に渡って戦線を維持し続ける。やはり韓信が見込んだ男だけあって、秀でた能力を持っていたと言うべきであった。

 これに自ら兵を率いて相対していた皇帝劉邦は、長引く戦局に見切りを付け、一時長安に帰還した。そして、思いがけず韓信の訃報に接することとなる。

 

「陛下のご留守中に、淮陰侯を謀反人として誅しました」

 皇帝の帰還を迎えた呂后の言は結果だけを述べており、なんの感情も込められていない。よって、劉邦はいちいち事実を確認しなければならなかったが、ひととおり説明を聞き終えると、嘆息したり、喜んでみせたりしたという。

 

「……死んだか……韓信が」

「ええ。死にました」

「簡単に言う。しかも簡単にお前は殺した。建国の元勲を! 苦楽をともにした好男子を!」

「怒っていらっしゃるのですか」

「いや……そういうわけではない。わしは……お前に感心しているのだ。よく決心できたものだと。わしは……いずれ韓信は除かねばならぬと思っていたのだが、結局今までそれが出来ずにいた。奴の功績や、これまでの付き合いのことを考えれば……わしにとって奴は殺してしまうには惜しい男だったのだ」

「いけないことだったのでしょうか」

 

 劉邦はその言葉を受け、真剣に悩んだようだった。しかしやがて頭の中を整理すると、言葉を選ぶように、慎重に語を継いだ。呂后の気に触らないよう、意識したようだった。

「仮にわしに親類縁者が一切いなかったとしたら、韓信に跡を継がせてもよかったように思える。しかし、実際にはそんなことはないのだから、韓信は滅ぼさねばならなかった。これでよいのだ……だが、韓信はまだ若い。わしより先に逝くことになろうとは思ってもみなかっただろうて。……ところで、奴は死ぬ前になにか言葉を残さなかったか」

 

 呂后は劉邦の感傷にさほど関心を示さない様子で、これに答えた。

「なんでも、蒯通という者の言うことに従わなかったのが残念だ、という内容のことを喚いておりました」

「蒯通だと……?」

 劉邦の目が吊り上がった。

「……そいつは斉の弁論家だ!」

 

 未だ狂人を装い、斉に潜伏していた蒯通は、勅令によって逮捕された。

 

 

皇帝「お前は淮陰侯に謀反を勧めたとか。間違いはないか」

蒯通「無論!」

皇帝「では淮陰侯はお前の教えに従い、今回の謀反を計画したのか」

蒯通「違います。しかし淮陰侯が後からわしの教えを思い出し、計画に及んだことはあるかもしれませんな」

皇帝「ならば、遅ればせながら淮陰侯は、お前の計画を実践したわけだな。では、お前は大逆の罪人として死ぬべきではないか? 敬愛する淮陰侯が、お前の教えに従った結果として死んだのだから、教唆したお前も当然そうあるべきだろう。そう思わないか?」

蒯通「韓信を敬愛していたと……? なんの、わしに言わせれば、韓信は馬鹿です! 年も若く、それゆえ時流を読み切れなかった小僧に過ぎません! あの馬鹿は……さっさとわしの計画を実行しなかったから、滅んだのだ。そうでしょう? あの小僧がわしの計画にのっとって行動したら、陛下はそれを防げましたか」

皇帝「不遜なことを言う奴だ。わしに対しても、淮陰侯に対しても不遜きわまりない。大釜を用意せよ! こやつを煮殺すのだ!」

蒯通「何をおっしゃる! わしは無実じゃぞ! 煮殺すなどと!」

皇帝「お前は信を悪の道に引き込もうとした。何が無実だと言うのか!」

蒯通「わしは韓信の臣下として、彼が一人の人間として幸せに暮らせるよう、提言しただけだ。それが結果的に陛下の利益を損じることになろうとも……そんなことは知ったことではない。もとより臣下とはそうあるべきだからだ」

皇帝「お前が韓信の臣下であると同様に、韓信はわしの臣下であったのだ」

蒯通「その通りだ。しかし、当時わしはそれを知っていて、主君に韓信を選んだ。選んだ以上、わしは自分の主君のためだけに働いた。飼い犬というものは……飼い主以外の者には吠えつくものなのだ。当然のことではないか!」

皇帝「しかし、お前は見たところ犬ではない。人だ! 人の頭があるのなら、当然道理というものが理解できるはずだ! 違うか?」

蒯通「わしが言っているのは、たとえ話だ。わしは韓信の飼い犬として、陛下に吠えついた。しかし……あんたには想像できまい……飼い主の韓信は、わしを制したのだ! 『不忠であるからやめろ』などとと言ってな! それ以来、わしは吠えることをやめ、身を引いたのだ。韓信はわしの飼い主ではあったが、それと同時に陛下の飼い犬であった。彼はわし以上に……主人に忠実な犬であったよ!」

皇帝「…………」

蒯通「なにも言えまい! 言い返せまい! それはそうだろう。韓信もわしも無実なのだからな! あんたは理由もなく韓信を殺した! そしてこのわしも殺そうとしているのだ!」

皇帝「……もういい。それ以上言うな……赦してやる。どこへなりと行くがいい」

 長年にわたって結果が保留されてきた韓信と蒯通の賭けは、劉邦が韓信の忠義を認めたことで、韓信の勝ちに終わった。

 

 

 一連の出来事を終え、蕭何は韓信について語ったという。

「思えば、韓信という男は、常に中庸を意識していた人物であった。武に偏り過ぎず、智に傾き過ぎず……これは裏を返せばどちらの能力も兼ね備えているということで、彼は経験を積めば、きっと統治者としても頭角を現したに違いない。だが、残念なことに時代がそれを許さなかった。出会ったころの彼は、私に言ったことがある。曰く、乱世にけりをつける男になりたいと……彼は確かにその思いを実現した。最後には自分自身が舞台から消え去ることで、彼は戦乱の世にけりをつけたのだ」

 

 

 臨淄の宮中で報告を受けた曹参は、しばし目をつむり、押し出すように言葉を紡いだ。

「淮陰侯が謀反……そしてそれに失敗……彼らしくないことだ。しかし……彼としてはそうせざるを得なかったのだろう」

「謀反したことがですか? それとも失敗したことがですか?」

 周囲の者の問いに曹参は断言するように答えたという。

「無論、失敗したことだ。ほぼ成功する可能性がない計画を……彼はわかっていてたてなければならなかった。彼の謀反は……彼が望んだものではない。我々、漢の首脳部が望んだことなのだ。彼はそれを知りながら、謀反を実行した。我々のために」

「あえて敗れる戦いを挑んだ、ということですか」

「私が知る淮陰侯は、常に勝つ戦いをする男であった。無謀な賭けに人々を巻き込むことをしなかった男だ。だが彼は……今回は負けるための戦いをした。世の時流が自分の死を望んでいることに気付いたからだろう。かえすがえす、私がおそばにいられなかったことが残念でならない」

「では淮陰侯は……自暴自棄になった、ということですか」

「そうかもしれない。しかし、残念だ……いい男であったのに……。いつの世も正直者は馬鹿を見る。彼の死がそれを変えてくれることを祈るばかりだ」

 曹参はそう言い、深くため息をついた。

 

 

 自身の吐き出した炎が燎原の火となる前に鎮火したことを劉邦は安堵しつつ、二度とその炎が吐き出せないことに気付いた。炎は炎である以上、吐き出された後は、自分の手に負えない。しかし存在する以上、たとえ小さくなっても夜陰を照らすともしびとなり、人々が暖をとるための熱源となる可能性を秘めていた。

 だが消火された今となっては、その可能性はない。そして自分自身にももうそのような炎を吐き出す源がなかったのだった。それを知った劉邦は、過去の自分の行為を思い出すたびに後悔するようになっていった。

 彼は年老い、覇気を失っていった。

 

 韓信の死後、漢の建国の元勲である異姓諸侯王は次々と滅ぼされ、呂后を中心とした外戚が跋扈する時代となっていく。彼の死は、歴史上のひとつの危機の終わりであり、新たな危機の始まりでもあった。

 

(第四部・完・完結)

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